あめゆきをとって

仮題と下書き

ポプラの木の下で

駅前にある蛇の目寿司は、私が子供の頃から地元では有名な高級店であった。

今では地元だけでなく、県外からの観光客も訪れる人気店となった。

 

帰省して、その店に出かけた。

私が弟に「ご馳走してよ」とねだったら、思いがけず実現したのだった。

母と私と弟の三人で蛇の目寿司。56年の人生で、初めての事だ。

私達は、運ばれてくる品々に歓声をあげ、スマホで写真を撮っては姉に送信した。

「私も行きたかった」と、歯噛みして返事をよこした。

最近の母は、よく「おれは幸せ者」と口にするようになった。

「放ったらかしにして育てた子供達が、みんな親孝行だ」と、事ある毎に言った。

美味しいからと勧めても、食の細くなった母は、雀ほどしか食べない。

弟と私とで、少しづつ母に食べさせながらの会食。それでも不思議と楽しいものであった。

「おれはお前さん達さ、何にもしてけんながったのや。運動会のお弁当も、おれは1回も作んながったが」

「じゃあ私達は、運動会のお昼に何を食べたの?」

「おらが家は、アキ坊の家のおごっつぉを食べさせてもらったぁの」

「ええっ?そうだっけ?」

まるで記憶がない。思わず弟の顔を見ると

「ああ、そうだった」と言った。

アキ坊と言うのは弟と同学年の、私達の従兄弟だ。

「あれはうんまがった。唐揚げと、沢庵と……」

言われてみれば、叔母の作った豪勢なお弁当を、私も遠慮しながら貰って食べた記憶がある。それは、頼りなく朧気な記憶だった。

翌日、私は姉に聞いてみた。

「覚えている?お母さん、運動会のお弁当を一度も作っていないって。私達、アキ坊のとこで食べさせてもらったらしいの」

すると姉は

「違うよ。うちはいっつも蛇の目の太巻き

「ええっ?」

「毎年おばあさんが蛇の目の太巻きを持って来たの。子供達が可哀想だからって。私、それがすごく嫌だったから、よく覚えている。他所は手作りなのに、うちは毎年蛇の目の太巻き。皆はトラックの周りに集まって賑やかに食べているのに、うちだけ校庭の隅っこのポプラの木の下で、こそこそ食べたの。いつも太巻き。いつもポプラの下」

それを聞いて、私の記憶が鮮やかに蘇った。

そうだった。広い校庭の隅にとても大きなポプラの木があって、その下が私達の場所だった。

忙しい母は競技も見ずに、昼休みの時だけそこで待っていた。

家庭をかえりみない父が、学校行事になど足を運ぶはずもない。

毎年ビリの私は、運動会が大嫌いだった。誰も見に来てくれなくても構わなかった。ビリが恥ずかしくて、半べそをかきながら太巻きを食べた。具沢山で、黒々とした海苔に巻かれた太巻きを、ひと切れ食べればお腹がいっぱいになった。

私は何も知らなかった。それをおばあさんが手配した事も、姉が寂しかった事も。

高級な海苔の香りを思い出す。祖母も孫のために奮発したのだろう。

姉と私は2歳、私と弟は5歳離れている。だから私が4年生の時までが太巻きで、弟と従兄弟が入学した6年の時に、叔母の料理を食べたのだ。

では、5年生の時はどうしていたのだろう?姉も弟もいない、私ひとりのためにあの母が学校に来ただろうか?

大昔過ぎて何も思い出せないし、最早誰も覚えていないだろう。