あめゆきをとって

仮題と下書き

2018帰省日記

2018/09/11〜2018/10/24

2日目①〜復興の町、老いゆく親

 

これまでに何度も感じた事のある、昨日と今日ではまるで違う世界に来てしまったような感覚。

例えば3.11、あるいは9.11の時のように。

東日本大震災をきっかけに、遠ざかっていた故郷に帰省するようになった。その8度目の帰省中にまさか、今度は北海道が大地震に見舞われるなんて。

盛岡駅近くのビジネスホテルに泊まっていた私はいつものように、自然に眠くなるのを待っていた。

人とたくさん喋った日には寝付きが良くなる事が多いのに、この日のホテルとはどうも相性が悪かったらしい。

空調をつければ寒く、消すと暑い。どこかから聞こえる微かなモーター音が気になる。それでもじきに眠くなるだろうと、ごろごろベッドに転がっていた。

そして午前3時過ぎ。何気無しにスマホを見ていると突然、北海道で地震の文字が現れたのだった。

私は起き上がってテレビを点けた。

また、大地震が起きた。

津波は?余震は?

テレビはさっき起きたばかりの地震の映像を、繰り返し流すだけだ。

私はもう、眠るのを諦めるしかない。こんな時に眠れるわけがない。

気持ちがずるずると堕ちていく。感情が壊れていく。その流れに自分が抗えないのも解っていた。

予定していた11時の列車ではなく、もっと早く盛岡を発つ急行バスの時間を調べた。

中島みゆきの歌のように絶望的観測をするのが癖なので、途中で大地震に遭ったなら、列車とバスではどうなるかイメージしてみた。

その結果は、列車でもバスでも大差ないように思えた。

列車もバスも、携帯の電波の届かないような山奥を走る。どちらにせよ、崖崩れが起きてしまえば一巻の終わりだ。

それなら、少しでも早く家に帰れるバスにしよう。

「今度また津波が来たら、おれは避難しないで家ん中さ居る」

これが母の口癖だった。

体重が28kgになってしまったという母を背負って逃げるのは、私でも容易いだろう。

でも、もう生きなくてもいいのかな。

そうだ、きっと私は逃げずに、母とふたりで家に残るのかも知れない…

 

 

ほんの数時間前、「強い気持ちを持って、これからもちゃんと生きて行こうね」等と、友人達と話したばかりなのに。

 

列車ではなくバスにした事と、到着時間の変更を、姉から母に伝えてもらうようLINEをした。

そして、タクシーで馴染みの食堂に行くようにと、時間を細かく指定した。

駅から歩いて5分の場所にあるその食堂には、偏食で少食な母にも食べられるものがあるのだった。

到着予定時間ぴったりに、バスは駅に着いた。

スーツケースを引いてゆっくり歩いても、約束どおりの時間に間に合うだろう。

バスの荷物置き場からスーツケースを下ろしながら、自分の気持ちを奮い立たせた。

しっかりしろ、自分。

疲れた暗い顔を、母に見せてはだめ。

振り返ると、そこに母が立っていた。

真夏のような陽射しの中で、シルバーカートを押しながら待っていた。

「どうしてタクシーで来なかったの?駅じゃなく食堂って聞かなかった?何分くらいここで待っていたの?」

母にはイライラさせられるけど、あまり怒らないようにと、姉から言われていた。けれど、どうしても尖った言い方をしてしまう。

「30分くらいかなあ」

母はのんきな声でそう言った。私はくらっと目眩がした。

バスの中で少しは眠っておこうとしたが、結局ほとんど眠れなかったのだ。

この後私は、海の見えるホテルに母を連れて行こうとしていた。

前もって提案すれば「ホテルなんか、おれはやんた(嫌だ)」と言うに決まっているから、母には内緒の計画である。

 

これが、老いてますます頑な母との、4日間の始まりだった。

 

2日目②〜老いるとは幼子に戻るということ

 

母と並んでゆっくりと、駅から食堂まで歩いた。

馴染みの食堂は、お昼時なのに空いていた。母は「ああ、久しぶり」と言いながら、小盛りのワンタンを全部食べた。

母は、誰かと一緒にいて好きなものならば少し食べるのを、私達きょうだいは知っている。

食堂を出て、近くの洋菓子店でケーキを2つ買った。

タクシーを呼び、車が着くまで店内で待たせてもらった。

家に帰り、お土産の荷物を広げて母に見せた。全て頂き物の食料品で、母が食べるものだけ置いていき、残りを姉の所に持って行く。

千疋屋の、桃とオレンジとマンゴーのゼリーがあった。母は桃か、オレンジを取るだろうと思っていたのに「マンゴーがいい」と言うので意外だった。

そういえば、40年も前の遥か昔、私の祖母が「これは、うんめえものだが」と言いながら、台所の流し台の前でペリカンマンゴーを食べていたのを思い出した。

当時の私はマンゴーどころかキウイさえ食べた事がなく、見知らぬものを口に出来なかった。

新しいもの好きな祖母だった。母にもそういう面が、本当はあったのかも知れない。

 

居間で休みながら、私は時間を気にしていた。予約していたホテルのチェックインまでに、私はひと芝居打たなければならない。

この日の夕食に母は、私をある料理屋に連れて行きたがっていた。

地元では有名なその料理屋に、姉夫婦が母を連れて食事をした時に

タンポポも、こごさ連れで来ってえなぁ」と、母が何度も繰り返していたと、姉から聞いた。

しかし、その料理屋には行こうと思えばいつでも行ける。だから私は、私の計画を遂行する。

「お母さん、今日の私の夕ご飯はホテルにあるから要らないよ。素泊まりとほぼ変わらない値段の食事付きプランをネットで見つけて、もう予約してあるの」

「何だ、そうか」

「何年か前にホテルのバイキングを一緒に食べたでしょう?あの時とは違うホテルだけど、あんな感じだと思うよ。お母さんも見てみる?」

母は、見たいと言った。私の行く先々が気になって、去年はビジネスホテルの部屋まで覗きに来た母だった。

「でも、おれは泊まれえねえがや」

「いいよ泊まらなくても。お料理を見て、お母さんが食べられそうなら食事だけして、また帰ればいいじゃない」

7年前の帰省で海の側のホテルに泊まった。家には翌日帰ると言ってあるのに、母はタクシーでホテルまで来た。バイキングの夕食を食べてみたいと言うので、一緒に食事をしたのだった。

いくら引き止めても「お父さんさ怒られる」と言って、タクシーで帰って行った。タクシーの往復代で泊まれるというのに。

私はこの時の事を、ずっと後悔していた。父は今、施設にいる。今回を逃せばもう、母をどこかに連れ出す事は出来ないだろう。

姉は、私の計画を聞いて「たぶん無理。お母さんは、他所には泊まれない」と言った。

母はこの頃、粗相をするようになった。それは本人からも聞いて知っていた。

姉の家でも、姉と出かけた先でも立て続けに失敗したので、ホテルに泊まるなんて絶対に嫌がるだろうと姉が言った。

それでも私は、予約をキャンセルしなかった。

綺麗で快適なお部屋で、食事の支度の心配もせずに、好きなだけお喋りをして好きな時にお風呂に入り、眠くなったら眠る。

そんなささやかな楽しみさえ一度もした事がない母を、このまま死なせる訳にはいかなかった。

そう、これは私のエゴイズム。私が後悔したくないだけのエゴイズムだった。

「じゃあ、タクシーを呼ぶからね。でもお母さん、もしもの事があるから着替えは持って」

「着替えは持ってがなくてもいいべ。おら泊まんねえもの」

「泊まらなくても、もし汚したら困っぺすか。この前はデパートだったから姉ちゃんに下着を買ってもらえたけど、海の方さ行けば店がないんだから」

私が強めに言ったので、母はバツが悪そうに着替えの用意を始めた。

その隙に、母の飲み薬をバッグに入れた。母の薬は壁に貼ってある薬入れに、朝昼晩と分けて入れてあった。たぶん、姉かヘルパーさんがやってくれるのだろう。

今日の夜と、明日の朝の分があればいい。「行く時には必ず、薬を忘れないで」と、姉に言われていた。

大判のバスタオル、ケーキの箱、水とお酒と大急ぎで袋に詰め込んだ。

 

タクシーはすぐに来た。

5分もしないうちに海岸沿いの道を走るのだが、去年まではなかった防潮堤がそびえ立っていた。まるで、要塞に閉じ込められたような気持ちになった。

「何だこれ。こんなの、要らないのに。どうして作ったんだろう?こんなもの、どうせまた津波に壊されるのに」

「本当にねえ」

タクシーの運転手は、何も言わない。様々な考えや立場があるのは解っていた。私もこれ以上は黙っていた。

車は急な坂道を上り始めた。曲がりくねった山道の景色を見て思い出したように、母が話し始めた。

「◯◯(弟)の家さ初めて行った時にな、こんな山の中の道を通ってったのや」

私は弟の家に、一度しか行った事がない。だけどもこんな山の中ではなかったはずだ。そう言うと

「あの時は、山の方を通って行ったったのさ。おらは姨捨山さ、なげられっとこだなあと思いながら、乗ってだった」

「ふうん。姨捨山ね。姨捨山って、どごさあんだべね。どごだかわかればなげさ行ぐどもね」

母は、さも楽しそうにアーッハハと笑った。

運転手は、何も言わなかった。

何て酷い娘だと、この運転手は呆れていたに違いない。けれど、このような会話はただの笑い話で、私と母の間では普通の事だった。

 

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2日目③〜今日の母が明日にはいない

海が見えるホテルに着いた。
この辺りでは一番のリゾートホテルで、もうシーズンオフなのに結構客が入っていた。
いつも使うホテルの3倍以上の金額だが、それを気にしたら親孝行の真似事など出来ない。
タクシーを降りると、入り口に車椅子が用意されていた。
これも姉に従い、予め電話で頼んでおいたのだった。
ホテルスタッフに促され、母は大人しく車椅子に座った。
宿泊予約に自分も含まれていると、うすうす気がついたかも知れない。
ロビーの壁は一面ガラス張りで、紺碧の海が見えた。
「海のすぐ側ですね。ここまで津波は…」
私の言葉を遮るように、フロントの女性が言った。
「震災の時、当ホテルは一切被害がありませんでした。そのため避難所として使われたのです」
「ああ、それなら安心だね」
私はゆっくりと車椅子を押し、途中にある装飾物を見て回りながら、最上階にある部屋まで母を連れて行った。
「おめさんは上手だがね。◯◯(姉)は、あっちさこっちさぶつけて、まるで下手だったども」
私は昔、だだっ広いショッピングモールで働いていた時に、車椅子を扱う講習を受けていた。バリアフリー完備の館内を歩き回るなど、容易かった。
それよりも、車椅子に乗るなど頑に拒否すると思っていた母が、すんなり座った事と、母を乗せた車椅子の軽さが悲しかった。

 

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部屋は畳の和室で、大きな座卓と、窓際に小さなテーブルと椅子のセットがある。
海側ではなく松林側の部屋にしたが、松林の向こうに海が見えた。
母は椅子に座り「おらぁまぁ」とか「へえ」と言いながら、部屋の中を見回した。
「おらもこごさ泊まんのか?おらぁ、嫌んたがや。こんな立派なとごさば、泊まれえねえが」
「泊まれない事ないでしょ。お金を払えば、私達だってお客さんだべすか」
そう言いつつ私も、このような部屋に不慣れだった。
あちこちの扉を開けて、何がどうなっているのか確認したり、お風呂とトイレを覗いたり、アメニティをチェックしたりと落ち着かなかった。
「お母さん、どうしても泊まるのが嫌ならご飯だけでも食べようね。私、他のフロアがどんな風かちょっと見て来る」
私はひとりで部屋を出た。そして、大浴場に行ってみた。
入り口までは車椅子を使うとして、脱衣所や浴槽の段差や、床材が滑らないか等をチェックした。
大浴場には客がひとりもいなかった。人目を異常に気にする母を、入れるなら今だ。
しかし、広い浴場は危ないかもしれない。目の調子が悪い私の方が、先に転びそうだった。
大浴場の他、マッサージコーナーやカラオケルームを覗いた。
ゆったりと読書が出来る、素敵なライブラリーラウンジもある。
部屋に戻り「大浴場に誰もいなかったから、入ろうよ」と誘ってみたら、母は首を横に振った。
「そうね。部屋風呂も大きいしね。もうお湯を張ろうか?」
母は、部屋風呂にも入りたくないと言う。
気短な私は、そろそろ面倒になってきた。冷蔵庫に入れておいたケーキを取り出して半分に切り、母に差し出した。
幼い頃からからずっと食べていた、バナナのオムレツケーキ。
「食べたら、夕飯が入らなくなる」と言いながら、母はケーキを食べた。座卓にふたつ置いてあったお饅頭も、母と私で一個づつ食べた。
すると、私は急に眠くなってしまった。
そうだった、昨夜ほとんど眠れなかったのだ。
母は、あれこれと昔の話を始めていた。これも姉から聞かされていた。母の話はエンドレステープのように、何周も同じ事を繰り返すと言う。
真剣に聞けば、つじつまの合わない所が多い。誰か解らない人の名や、固有名詞。確認するのも面倒で、私はふんふんと聞いているフリをする。聞き流しているのがばれそうになると適度に相づちを入れるものの、頭の中は半分以上眠っていた。
この長い長い昔語りには、理由があった。
昨年亡くなった伯母の娘、つまり私の従姉から
「うちの母は、昔の事を何も教えてくれなかった。もっと聞きたかった」
そう言われたらしい。
だから自分が生きているうちに、昔の話を伝えておかねばという使命感を抱いてしまったのだ。
これが非常に迷惑だった。この年齢になるまで知らなかったのだから、一生知らないままで良かった身内の恥を、母は面白可笑しく話して聞かせた。
次々と出て来るくだらない話に、私は心底呆れた。
知らない方が幸せな事もある。伯母の判断は、正しかったのだ。
この傾聴もミッションのひとつだから、何時間でも付き合うつもりでいたが、本当に苦行だった。


夕食の時間になり、母を車椅子に乗せてビュッフェ会場に行った。
ホテルスタッフは皆、車椅子の母に親切だった。母は恐縮し、恥ずかしがって下を向いていた。
「ビュッフェ台を見に、車椅子で回る?それとも歩く?」
母は、歩いてみると言った。三陸の海と山の幸を使った料理が、おちょこのような器に少しづつ盛られていた。これなら母も、何かしら食べるだろう。
雲丹入りの茶碗蒸しや、ひっつみ汁、刺身等、母が食べられそうなものを、せっせと運んだ。
母は生ものを食べず、天ぷらのような思いがけないものをふたつ食べたりした。それでも結局あまり食べないので、残りを私が全部片付ける羽目になった。
食事を終えて部屋に戻ると、布団が二組敷かれていた。
それを見て母は、諦めたように笑いながら「おらも泊まっていくかなあ」と言った。
母の気が変わらないうちにと、私は持参したバスタオルを敷き布団の上に敷いた。
「こうしておけば、気休めになるからね」
痩せすぎで、紙おむつをしていても隙間から漏れてしまうのだと姉から聞いていた。尿漏れパッドや専用の下着をあげても嫌がって使わず、生理用ナプキンで間に合わせているのも知っていた。
「ねえ、スーパーでこんなのを見つけたから、履いてみようよ。そうすれば心配なく眠れるでしょう?」
それは、パンツ型の生理用品だった。伸縮性があり、パンツ型おむつよりも体型にフィットするような気がした。
「トイレが近いから、私も履こうっと」
袋から出してみたら、それは意外と小さなものだった。
「これは、おれが使う。おめさんさば入んねえべ」
母と私は、大笑いをした。
私が大浴場に行っている間、母は風呂に入る気になったらしく、部屋風呂の湯船に湯を張っていた。
しばらくして「ボディソープがどれか解らない」と言うのでお風呂の扉を開けると、湯に浸かっている母の両足だけが目に入った。

まるで骸骨の標本のような、白くて細い足。

私は「ボディソープはこれ、こっちがシャンプー」と言って、急いで扉をバタンと閉めた。
他人が身体をジロジロ見るから嫌だと言う母に、気のせいだと一蹴してきたけれど、あれでは見られて当然だろう。
28kgまで落ちたという、母の身体はいつまで持つのか。

生理用パンツを履いて粗相もせずにぐっすり眠った母は、翌朝とても上機嫌だった。
「こごはいいがなあ。こんな世界があるだなんて、おら知らながったなあ。◯◯(姉)も連れで来ってえなぁ。◯◯(弟)も連れで来ってえなぁ」
「連れで来ってぇって…連れて来たのは私なんですけど」

そうだ、どうして私はもっと早く、こういう事をしてあげなかったのだろう。

「そうだ、おらかお父さんが亡くなった時、皆でこごさ集まって泊まればいいんだ。旦那さん達も、孫達も。それがいい。そうすっぺし」
「そうすっぺしって、そのお金を誰が出すの?普通は言い出した人がお金を出してくれるんだけど?」
私は呆れた。そんなお金がどこにあるのか。
母は、アカカアカカと楽しそうに、無邪気にいつまでも笑っていた。

 

3・4日目〜父と会う①

 

帰省3日目は、夜に中学時代の友人と会う約束があり、それまで実家で雑用をしながら過ごす。

何もないド田舎だったのに、町中にちょっとお洒落な飲食店が増えていた。

友人が予約してくれた店も、新しく出来たばかりのワインバルだった。

カルパッチョ等の、魚介を使った料理が安くて美味しい。私はワイン2杯が限界で、友人は何杯かわからない程グラスをあけた。

 

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ここでも親の介護の話と、嫁いだばかりの娘が心配な話。幾つになっても子供の心配をするのが親なのだ。そう実感する年代…

私なんかと毎年会っていて楽しいのか?という気を回さずに済む程、友人は楽しそうだった。

盛岡で会った友人には話したので、ここでも私の病気をカミングアウトするつもりだった。ふたりには、知っておいて貰いたかった。

でも、話すタイミングを失った。まあいい。大した事ではない。

 

ハンドメイド作家の友人は、会う度に作品をくれる。

家庭科は、彼女より私の方が得意だったのに、もうボタン付けさえしたくない。

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いつものビジネスホテルに泊まるが、眠れない。早朝に市場へ行き、買い物。

今にも降りそうな空だったので、往復タクシーを使ったが結局降らなかった。ホテルの自転車を借りれば良かったと後悔した。

チェックアウトをする頃には本格的に降りだして、またタクシーを呼んでもらった。

つくづく勿体無いと思うが、考えない事にする。お金よりも、この帰省中に倒れない事の方が大事。

母と山田線に乗る。

駅弁をひとつ買って母と食べようと思ったら、今は駅で駅弁を売っていないと言う。

信じられない。

昔「あわび弁当」という安くて美味しい駅弁があったのに、いつの間に無くなったのだろう。

仕方ないので、おにぎりとゆで卵とお茶を買った。

まだ時間はあると思いキオスクでもたついているうちに、列車の席があっという間に埋まっていた。

慌てて席を探すと、4人掛けのボックス席に気難しそうな爺さんがひとりで座っていた。他に誰か来るのか尋ねると、来ないと言うので母とそこに座った。

駅弁が無いより更に驚いたのは、この山田線が1両しかない事だった。

震災の年に帰省した時には、確か2両だったと思う。

山田線が1日4往復しかないのも、信じられない。

皆が本数の多い急行バスを使うので山田線の利用者が減り、運行本数を減らされたのだろう。

乗り心地も、バスの方が断然いい。しかし母は、車内トイレのないバスが嫌なのだから仕方がない。

朝から何も食べていないのに、母はおにぎりをひと口も食べなかった。

ゆで卵を剥いてあげると、それは全部食べた。列車で食べる味付きゆで卵は美味しい。

それにしても、駅弁……

そして今年こそ三陸鉄道に乗って、雲丹弁当を食べるのだと思うばかりで叶わず、それも悔しい。

 

夫と娘に気兼ねして帰省日程を組み、帰れば母親がいる。

私には、半日の自由もない。少し足を延ばせばいいだけなのに、自分で諦めてしまう。そのうち、いつか、来年こその繰り返しだ。

三陸鉄道には、一生乗れずじまいな予感さえする。

 

上盛岡で下車。姉の車で父のいる介護施設へ向かう。

行きたくない。だから嫌な事はさっさと済ませてしまいたい。楽しい事しかしたくない。

「私、お父さんの所には今日だけ行けばいいよね?」

姉の表情が不穏になる。

「それは、貴女の気持ち次第」

デスヨネーと内心思う。一年も実家問題を姉任せにしておいて、たった一度だけ顔を見せて済まそうと言うのだから不機嫌になるのも当然だった。

私は、盛岡でやりたかった事も諦めた。病気の身でもあるので、ハードスケジュールをこなせそうにない。

 

母がゆで卵しか食べていないので、回転寿司に行った。

お寿司よりも、揚げたての鯵フライが美味しかった。しかし、母はここでも茶碗蒸ししか食べないのだった。

 

 

これを書きながら、今頃になって気付いた。母は茶碗蒸しが好物なのではなくて、嚥下できるものを選ぶのだと。

 

 

4日目〜父と会う②

 

どうしてそれ程までに父親を嫌うのかと、人によく聞かれるが、嫌なものは嫌としか言いようがない。

父と関わろうとすると、忽ち拒絶反応が起こる。

鳥肌が立つ。動悸がして、血圧も上昇する。

それは子供の頃からだった。

外で遊んでいて家に帰る途中、父の車を見かけた。

私は咄嗟に物陰に隠れた。それを父にしっかり見られていて、帰宅するなりそれはもうこっ酷く怒られた。外で何か悪い事でもしてきたから、コソコソ隠れたのだろうと決めつけていた。

確かに、そのように思われても仕方がない。どうして隠れたか問い詰められても、自分の体が勝手に隠れたのだから、説明のしようがなかった。

父の説教はいつも、1時間や2時間では済まなかった。本当に叱られなければいけない事など、一度もしていないのに。

こんな育ち方をすれば誰だって、父親を嫌うのではないだろうか。

私は未だに、男の大声が怖い。他人の怒鳴り声を聞いたり喧嘩を見たりすると、呼吸が苦しくなる。それは、姉も同じだった。

 

 

とにかく、父と面会をしなければならない。

今は餡子のお菓子に嵌っていて、姉が行く度に「明日も饅頭を持って来い」と言う父。たくさん持って行くと施設に注意されるので、ひとつかふたつだけ置いて来るのだと言う。

父は饅頭が食べたいのではなく、姉に毎日来て欲しいのだ。

私は、帰省する前に明治座で、人形焼きを買ってきた。

「お父さんは高級品よりも、その辺で売っているような田舎饅頭の方がいいっけよ」と姉から聞いていたので、安いものにした。

面会時は、手を消毒したり、住所氏名を書かされたりが煩わしかった。頻繁に通う姉はもう、顔パスでいいらしい。

「先にひとりで行ってみて。お父さんがタンポポと解るかどうか」

父の名札が掛かった部屋に入ると、誰もいなかった。

ちょうど昼食時間の終わる頃で、まだ食堂にいるのかも知れない。

食堂に行ってみると、大勢の人が食事を終えて寛いでいた。談笑している人達とは離れた場所にひとりポツンと、父らしき人が座っていた。

「あの人かな?」

「そうそう。あそこがお父さんの指定席なの」

父はカウンターテーブルの席にいて、上を向いて呆けていた。上に何があるのかと、上を見たが何もなかった。虚空を見つめるとはこの事かと思いながら、私は父に近づいた。

 

もう、父が恐ろしくなかった。

 

父の肩を、ぽんと叩くと「おお」と、解ったような解らないような声を上げたので、隣の椅子に座った。

「お元気だった?」と聞くと、少しの間の後に

「◯◯(姉)も来たが?」と言った。私は頷いた。

「かがさまも、来たが?」と言った。また頷いた。

 

「どうだった?」と言いながら、姉が近づいて来た。

「◯◯も来たかって言うんだから、解ったんじゃないのかな」

そこに、介護施設の職員が近付いて来た。

後ろ姿の私を姉だと思っていたら、本物の姉が向こうから歩いて来たので心底驚いたようだった。これには皆で大笑いをした。

「お部屋に移動しましょう」と、職員が父を部屋に連れて行き、車椅子からベッドに移してくれた。

父は、私の顔を見ながら、上機嫌だった。そして、大きな声で

「何だぁ、おめぇは、20年ぶりだなあ」

と言うので、椅子からずり落ちそうになった。

ホワイトボードに『去年も 会いました』と書くと、また少しの間を置いた後に

「ああ、そうか」

と言った。

母は家から持って来た箱を、父に手渡した。それは、市から贈られた米寿祝いの記念品だった。父が包みを解いた。

中に入っていたのは、合成樹脂の小物入れだった。私はその記念日の、あまりの安っぽさに絶句したが、父は悦に入っていた。

昔なら「こんなぁ、けぇねぇ(価値のない)物を」と激しく罵るはずの父だった。

父はそれに何を入れようというのか、手の届きやすい場所に置いた。

人形焼の箱を見ても喜んでいた。

姉が『これは日持ちしないから、半分うちで貰うからね』とボードに書くと、父は少し残念そうに頷いた。

それから父は母に何か話しかけて、母は頷いたり首を横に振ったりしていた。いちいちボードに書かなくても、話が通じているのだった。

「以心伝心…」

私は姉に目配せした。姉も同じように憮然としていた。

呆れた。

この親の不仲に、私達がどれだけ泣かされてきたか。この人達は、覚えていないのだろう。

「もう行こうよ。際限がないもの」

「そうだね。行こうか」

「じゃあね。お父さん。バイバイ」

私は手を振って、施設を後にした。(全く、とんだ茶番だよ)と思いながら。

 

 

4日目〜姉の家・弟の家

 

父が入所している介護施設と姉の家は、それほど遠くない。

姉の家で少し休憩してから、弟の家に行く事にした。

「おやつにしよう」と、姉がコーヒーを淹れてくれた。

母が人形焼を手に取って、しげしげと眺めていた。

「可愛くないよね」

 

私が最初に就職した先の最寄り駅には、大きなアーケード商店街があった。その中に重盛という人形焼の店があり、とても繁盛していた。

私も買ってみようと思ったが、人形焼という名前にしては何だか怖い顔をしている。

結局一度も買わずじまいで、30年以上も過ぎた。

明治座の土産屋で人形焼きを見つけたのは、偶然だった。あの重盛のも売っていたので、舞台を見ながら食べた。

 

土産に買って来た人形焼を食べてみると、これも不味くはないけれど、重盛の方が餡子たっぷりで美味しい。

そんな事を考えながらコーヒーを飲もうとしたら、母が

「おれのコーヒーはや?」

と言うので、姉と私は同時に「えーっ?」と驚いた。飲まないものだと思って、姉はふたつしか淹れていなかった。

「コーヒーなんて飲めるの?」

「飲みてえ」

私達は目を丸くした。母はお茶の類いが好きではなくて、コーヒーを飲んでいるところを今まで一度も見た事がない。

姉は慌てて自分の分を母に差し出し、再びお湯を沸かした。

母は事も無げにコーヒーを啜り、人形焼も葡萄も食べていた。

誰かしら一緒に居れば母は、食べられるのだろう。

買い物や、作って食べるのが億劫なだけかも知れない。

私達の誰かが母を引き取るか、施設に入れる……等と思いを巡らすものの、言えない。

母が東京に来ないのはわかりきっているし、施設も頑なに拒否するだろうから。

 

弟の家に行くと、留守だった。

母が鍵を持っているので、中に入る。

前回この家に来た時は、ロシアンブルーがいた。あの猫は行方不明になって、代わりに別の猫がいた。子猫を拾ったとは聞いていたが、もう成猫になっていた。

私は名前も性別も知らないこの猫を、追いかけ回して遊んだ。猫は、面倒くさそうに相手をしてくれた。

 

この日、姉と私は雫石のホテルに泊まる事になっていた。

母も誘ったが「◯◯(弟)の家で猫と居るのが、一番だ」と言う。

姉の車でデパートに行き、デパ地下で食料を調達した。

「さあ、今夜は飲もう!」

姉が、やたらと高いシャンパンを買った。

弟の家に戻り、買ってきたお惣菜を台所に置いて出かけようとしたら、入れ違いに弟が帰って来た。

大きな買い物袋をふたつ下げていた。

母はいつものように、しばらく弟の家に居座るつもりなのだろう。

私達は、雫石に向かった。

宿泊先の雫石プリンスホテルには、弟がゴルフコンペの賞品に貰った宿泊券で泊まる。

姉はここで何度か食事をしたり、泊まった事があるらしい。

「大きなホテルだけど、もう建物が古いし、お部屋もどうかなあ」

それでも私は、ホテルに到着すると気分が高揚した。帰省以外で、宿泊する旅行をあまりした事がないからだ。

姉にとっては、親の心配をせずに済む、束の間の休息日だった。

姉がチェックインしている間、私はロビーの辺りをふらふら歩き回った。すると、一枚のポスターに気付いた。

 

『夜の空中散歩 星空ツアー』

 

(えっ?星空ツアーって?何だろう……)

私の目が釘付けになった。ホテルは標高の高い場所にある。ここなら夜は真っ暗闇になって、綺麗な星空が見られるだろう。

「ああ、それに行きたいの?」

「行きたい行きたい。ロープウェーで山頂に上って、星を観るんだって。凄いね」

「だって、ホテルのすぐ側がスキー場だもの」

「そういう事か」

私は岩手の沿岸育ちなので、スキーをした事がない。姉は結婚してからこのスキー場に、家族で何度も来ていると言う。

「行きたいのなら行ってもいいよ。山頂は寒そうだけど」

(どうしてわざわざ星なんか見たいのか、解らないけれど)

姉はきっと、そう思っていた。そして、私がどうしてこれ程までに星に執着するのか、姉は知らない。

 

(これは、巡り合わせに違いない)

私はいつも、自分の直感だけを信じて生きてきた。当てにならない直感ではあるけれど。

 

4・5日目〜満天の星は雨雲の向こう

 

雫石プリンスホテルの星空ツアーが実施されるかどうかは、天候次第だった。

ホテルに到着した時から曇天で、このぶ厚い雲が夜には消えて欲しいと願った。

例え雲が消えなくても、頂上の空模様はここと違うかも知れないと、浅はかな期待もした。

雨雲は地上何メートルにあるのだろう。雨雲の向こうまで行けば満天の星が見られるのだろうか。

しかし、夜になると本格的に雨が降りだして、私はやっと諦めがついた。

「また、来ればいいじゃないの」

「そうだね」

 

残念ではあったけれど、星が見られると知らずに来たのだし、望みを持てたのが嬉しかった。

長年の願いを叶える事は、私が思っていたよりもずっと容易かったのだ。

生きていて、手を伸ばしさえすれば、私の星空はすぐそこにある。

 

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こんな夢を見るたびに、いちいち鬱ぎ込んでなどいられない。

本物の天の川を見るのだ。いつか必ず。

 

私達は、買ってきたオードブルとワインを空けた。それでも10時過ぎにはお腹が空いた。

レストランに行くと、500円でお茶漬けが食べられるセルフバーがあった。

「こんな時間だし、少しにしようね」と言いながら、お出汁が美味しくてお代わりまでしてしまった。

体が温まってよく眠れると思ったが、そうはいかなかった。

それが姉であっても、人の気配がするだけで眠りが浅くなる。

私の睡眠は、途切れ途切れを合わせて3時間ほどで、姉も同じようなものらしい。

私達は、早朝から温泉に浸かり、朝食のビュッフェでもかなりの量を食べた。

せっかくのダイエットが、水の泡だ。それでも今この時は、二度とない時間だと思えば後悔しない。

 

 

ホテルから、父の施設へと向かった。

父は自分のベッドにいた。

 

『今度、見舞いに行った時(中略)父に聞いてみようと思う。』

 

私が書いたエッセイの最後には、この一文がある。

それを聞いてみたいとは、最早思わなかった。

去年会っている事すら覚えていない父に、今さら聞いても意味がない。

父は機嫌が良かったが、早々に引き上げたくて堪らない私は

『東京に帰ります。お元気で』

と、ボードに書いて父に見せた。

すると、父の目が寂しさをたたえたので、私はほんの一瞬だけ怯んだ。

「なんだあ、そうか。はぁけえんのが」

つまらなさそうに父が言っても、私は素っ気なくした。

「じゃあね。バイバイ」

「ほんでば、気いつけで、けえれ」

私と姉は、思わず顔を見合わせた。

 

「からださ、くれぐれも、気いつけろよ。だなさまがどうも、わらすがどうも、おめぇがどうも」

 

父の前で私達は、あからさまに動揺した。

これ以上ここに居て父に泣かれては厄介なので、急いで施設を後にした。

「あんなぁさべこど、生まれて初めて聞いたがね」

「今のはいったい何?あれがうちの親父のさべこどだーべーが?」

それは、人並みの親ならば普通の言葉、人として当たり前な、労りの言葉だった。

傲慢な父が、人に対して一度も発した事のないような言葉だった。

子どもを連れて帰省しても、虫の居所が悪ければ

「なぁしてけえってきた。小遣い銭せびりに来たぁのが」

と言い、帰る時には

「はぁけえって来なくてもいいが。出はってった者さば用はねえが」と、怒鳴るのが常であった。

私はもう、父の言葉に傷ついたりしない。けれども、これを娘には聞かせたくなかった。

だから、売り言葉に買い言葉の大喧嘩を最後に、帰省するのを止めたのだった。

「脳疾患を繰り返して、最後に穏やかな性格に変わった人の話を聞いたけれど、父も、それなのかな」

「だとしても、私達がこれまでに言われ続けてきた暴言を絶対に許せない。忘れたり、水に流すなんて出来ない」

「そうだよね……」

県内に住む姉は、自分の子供達を父に会わせていた。

父の様子を伺いながら、祖父と孫の関係を上手く繋ぎ合わせる事に配慮してきた。父に、祖父としての責任を何が何でも果たしてもらう。それが、姉の思いだった。

姉は、ごく普通の父娘を、子供達の前で演じ続けてきた。父のいる施設でも、外見は『いい娘さん』であろうとしていた。

それなのに、反抗と無視を続けてきた私と同じかそれ以上の深い恨みが、姉の中に沈澱しているのだった。

 

この後は姉の家に行き、姉の着物を見たり、デパートで買い物をしたり、美味しいラーメン屋さんに連れて行ってもらったりした。

車で盛岡駅に向かいながら、ぼんやりと考えていた。私の帰省は、雨降りばかりだと。

だから、三陸の海と空はいつだってグレーだし、満天の星は見えないし、散々である。

まるで私の人生を暗示しているかのように、この先もずっと、雨なのかも知れない。

 

そしてこれは、ただの日記。