あめゆきをとって

仮題と下書き

遠い日、津波、ショートケーキ

昔、好きだったおやつを思い出してみる。
母は商売で忙しく、よそのお宅のような手作りおやつなどは、望むべくもなかった。
私達きょうだいは、10円玉を握りしめて駄菓子屋に走った。
駄菓子を買うのは楽しい。懐かしくて美味しい思い出のひとつだ。
しかし添加物が体に良くないとか、夕飯を食べなくなる等の理由で次第にそれも買えなくなった。
病弱で、少食だった私。
飲んだくれの父に代わり、母が早朝から夕方まで働いて、暮らしは少しづつ良くなった。
だが、その分私達はずっと、寂しい子ども時代を過ごしたのだと思う。
母も、すまないと思ったのだろう。
毎週土曜日、母は、町のケーキ屋でショートケーキを買ってくれた。
市場の仕事帰りに買うのは、西野屋さん。レモンスライスがのったオムレットか、ガナッシュ
母の実家に立ち寄った後は、お隣の藤田屋さん。
真っ白い生ケーキか苺ケーキ。チョコレートをコーティングした、タヌキのケーキも大好きだった。
母と姉と私と弟の、4つのケーキが冷蔵庫にしまってある。
それだけで十分、幸福な子どもの真似事が出来た。
父は留守がちで、どこかで酒を飲み歩いていたのだろう。
夕食を頑張って残さず食べ、「8時だよ全員集合」を見ながらケーキを食べる。
それが私達母子の、ささやかで平和な時間だった。
父がいるとバラエティー番組など見せてくれないし、父の前では和やかにケーキも食べていられない。父はケーキを食べないから父の分は買っていない。それでも自分のがないと知れば、烈火のごとく怒り出すだろう。
だから土曜の夜に父が在宅だと、私達は心底がっかりした。
父が家にいるのはおそらく飲み仲間と何かあったとか、金がない時で、父は酷く不機嫌なのだった。


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母が死んで、父も死んだ。
これでもうお終い。
あの、惨めで暗く悲しい子ども時代の話はお終いだ。
記憶とは不思議なもので、曖昧な記憶、失くしたい記憶ほど簡単には消えてくれない。
父を交えて、家族5人でケーキを食べた日は果たしてあっただろうか?
たぶん、一度もない。

東日本大震災の半年後、私は被災した瓦礫の残る町を歩き回った。
西野屋さんと藤田屋さんも被災したけれど、商売は再開出来ていた。
津波でたくさんの人が死に、たくさんの家が流されたというのに、以前のようにケーキが買えるのかを心配する私は不謹慎だったかも知れない。
けれど、あの惨状を見ても私の精神が崩壊せずに済んだのは、大切なふるさと全てを奪われなかったからだ。
涙を零しながら、涙の味のケーキを食べた。手掴みで何個も食べた。
私の一生で、私の魂は何度、宮古のケーキに救われただろうか。
今年、宮古で死にかけて盛岡で心臓の手術をして、一時退院した時にも、ケーキを食べた。
もの心ついた時から食べているのだから、もう半世紀も食べ続けている。
東京にある、有名パティシエや高級ホテルメイドのケーキは美しく繊細で、とても美味しい。
けれども、どうしてだろう?
死ぬ前にもう一度、ケーキが食べられるとしたら、私は宮古のケーキが食べたい。
とてもとても甘い。なのに泣きたくなってしまう、あのケーキを。



今週のお題「好きなおやつ」