あめゆきをとって

仮題と下書き

死にかけて、死ななかった日のこと

それはまだ、小学校にあがる前の年の事。

私と、同い年で仲良しのユキちゃんと、少し年上の近所の男の子達数人で、高校のプールに忍び込んだ。

私の家の近くには、八幡神社と中学校と高校があり、校舎に入らなければ全てが遊び場だった。真夏ではない、春か秋かもう忘れてしまったけれど、プールには水が満ちていた。キラキラと眩い水面。他の子達がするように私もプールサイドに腰かけて、足のつま先で水をバシャバシャ蹴ろうとした。ユキちゃんは上手に大きなしぶきをあげているのに、ユキちゃんよりチビの私は水面に足が届かない。もっと足を水に近づけようと、浅く腰かけたその時

 

 

私はプールに落ちた。

 

満水の、高校のプールである。

泳げない私は、水に浮いたり沈んだりしながら、あわてふためく他の子供達を見た。がぼがぼとたくさん水を飲んだ。苦しかった。誰かが長い棒を持って来て「棒さつかまれ!」と叫んでいた。その棒を掴む事さえ出来ない自分の姿を、おそらく身体から離脱した私のたましいが見つめていた。

ユキちゃんが私の母に助けを求めて来たとき、プールという言葉が出なくて「タンポポちゃんが、えーと、えーと、おっきなドブに落ちた」と言うので、母は呆れて姉を向かわせた。

姉はすぐに家に戻り「お母ちゃん、ドブじゃない。ドブじゃないっけ。」と必死に言い、再び姉と母がプールに着いた時には、私は男子学生に助けられた後で、全身むらさき色になってがたがた震えていた。

母は急いでまだ開店前の銭湯に私を連れて行き、熱い湯船に入れた。

長い間、体が真っ赤になってのぼせるまで湯につかり、私の命は助かった。

 

「この棒さつかまれ」と、皆が叫ぶ。

長い棒が、目の前にあったのは覚えている。私はその棒をうまく掴めずに、ただ浮いたり沈んだりした。誰かが飛び込んで助けてくれたらしいのだが、その誰かは結局、後に母がいくら探してもわからないままだった。

助けてもらったお礼も言わないで、おれはおめさんを風呂屋さ連れでったのや…と、母はずっとその事を後悔していた。

そして、こんな風に死にかけて助かった人は、その後長生きをするものだと、母と祖母が私によく言っていた。

 

母が死んだ(らしい)

母が、死んだ。

私も死にかけていたから、意識が戻り、どうやら母は死に、葬式も全て済んだ後なのを察するだけで、まだそれを確かめていない。けれども私が今現在こうなっているのは、母の死が引き金になったのだろう。

母は、死んだ。

私が先日、新聞の短歌賞をとった、それを母に伝えていたかどうかもわからない。

私の事だから、新聞を見せて驚かそうとしたかも知れず、それなら母は知らずに逝った事になる。

よい話だから、子供のように嬉々としてすぐに伝えてあったかも知れない。わからない。わからないけれど、どちらでもいい。母は、死んだのだ。

 

30年前の今日この時間、私は難産の末に娘を産んだ。

里帰りせず自分でやろうと決めたのに、産後うつになった私を手伝うために上京した母。

私は、母に、いったい何をしてあげただろうか。

公衆電話

私は実家の居間にいて、母からの電話を受けていた。母は携帯を持っていないので、公衆電話からだった。手短に終わらせなければならない。父が近くで無関心を装いながら、耳を攲てる。

汽車の時間は12時だと知っている。決行は明日。母が今どこにいるのかわからないので、これが最終の連絡となるかも知れない。ミスは許されない。

「11時にね」

「11時半に駅で大丈夫だろう」

「じゃあ、それで」

もっと母と話がしたいけれど、父が訝しむ前に電話を切る。

おそろしく勘のいい父だから、電話の向こうが母だと知っているのに「誰だ」と聞く。涼しい顔で「友達」と答える。

田舎の小さな駅舎の前で、明日の11時半、無事に母と会えるだろうか。

どうか雪が降りませんように。発車が遅れたり止まりでもしたらお終いだから。

私は母の家出を手助けするのだ。母が汽車に乗った後のことは、まだ何も決まっていないのに。それでも母を自由にしたかった。自由?そう、自由に。

 

これは私の今朝の夢。

父と母は結局60年以上も連れ添い、父が施設に入所してからの一年間だけ母は自由になった。

もう家出をする理由がなくなった母も、先日入院した。

動悸が苦しくて目が覚めた。悲しくてたまらなかった。心臓を止めるスイッチがあるのなら、今すぐにでも押したいのに。

家を出たいのは私のほうだった。でも、どんなに考えを巡らせても、どうしてだろう、自由になんてなれそうもないのは。

木香茨

赤い文字にふと立ち止まり張り紙を読むと、近日中にこの家が解体されると書いてあった。
まさか、木は切らないよね?
次に通った時には家も木も、跡形もなかった。
木を切るなんて。あんな立派に育ったモッコウバラを、切ってしまうなんて。
どんな人が住んでいたかも知らない。
なぜ家を手離したか、知る由もない。
もしかすると、ずっと空き家だったのかも知れない。
モッコウバラを植えている家は近くに何軒もあるが、この家の木が一番大きくて見事な花付きだった。
桜が散って八重桜も終わる頃、モッコウバラは一斉に開花した。ガレージの屋根を覆うように、溢れんばかりに無数の花を咲かせた。生命力に満ちた、淡い黄色のバラ。
この花を眺めるのを毎年楽しみにしていたのに。
仕方ない。こんな事はもう慣れている。私の木でもないのに、悲しいだなんて滑稽だ。
そう自分に言い聞かせても、更地になったその場所を通る度に寂しさが募った。春になればもっと寂しさが増すだろう。それならいっその事、春なんか来なくていい。

昨晩、夫と更地の側を歩いた。
別に会話しなくても構わないのに、つい話題にしてしまった。
夫は「駐車場にでもするのだろう」と言い、更地のままだと税金がどうのと続けたが、まるで知らない国の言葉を聞いているような錯覚に陥った。
モッコウバラを知らない夫に、私の喪失感など理解出来るはずもない。ただ、馬鹿げていると思うだけだろう。

私が欲しいものは、何も手に入らない。

寒くて長い冬は、まだ始まったばかり。

 

 

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いつかはいなくなる、親のこと

2017/10/21〜2017/11/12

9月の3連休に、岩手に帰省した。

東日本大震災以来、年に一度の帰省を自分に課しているが、私の本心は帰りたくないらしい。去年は帰省の前日に胃けいれんを起こしたし、今年も出発日が近づくにつれて身体のあちこちが痛み出した。

 

父に会いたくない。

 

帰省する日の一か月前。指定席券を買いに行く予定だったその前日に弟からLINEが来た。

「父が入院した」と。

 

場外馬券売り場で転び、立てなくなって救急車で運ばれたのだった。

 

父は昔、まだ40代の若さで脳溢血に倒れ半身不随となった。それでも数年間のリハビリを経て足を引きずりながらも歩き、車を運転出来るまでになって競馬場通いをやめなかった。

母が商売で得た財産が、全て競馬に消えた。

ずさんな金銭管理に姉夫婦が怒り、二度と競馬はしないと誓わせて競馬関連のものを全て捨てさせた。なのに、すぐ元の木阿弥になった。

 

場外で転んで運ばれただなんて、何てみっともない。何てあの人らしいんだろう。

ギャンブル依存症なのだから、死ぬまで競馬はやめないだろうと思っていた。

これで死んでも本望であろうし、助かったとしても二度と馬券を買いに行く事は出来ないだろう。

だから弟からの報せを受けても、ああ大変どうしよう…等と心配する気持ちが微塵もなく、当然の報いだと思うだけだった。

 

 

父は股関節を骨折し人工関節を入れる手術をする事になった。それを聞いて私はますます気が滅入った。

あの父の事だから、手術したらまたリハビリに励み、歩けるようになったらすぐにでも馬券を買いに行くのだろう。

わずかな収入を全て競馬で無くしても、自分には息子という金づるがいる。息子が拒否したら母親を経由して娘達から生活費を借りさせればいいと思っている父。

人工関節なんか、入れなくてもいい。歩けないまま病院のベッドで一生を過ごせばいい。

母も高齢であと何年の寿命なのか解らないけれど、少しぐらいは父に縛られない人生を自由に過ごしてもらいたい。

 

2年前の帰省では、映画一本観るのも大変な事だった。 

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そうだ。帰省したら母と三陸鉄道に乗ろう。三陸の綺麗な景色を眺めて、美味しいものを食べよう。父が怒るから早く帰らなければと気が急く事もない。

カラオケなんか一度もした事がないだろう。どこかカラオケが出来る場所はあるだろうか?

私も純喫茶巡りがしたいから、レトロな喫茶店に母を連れて行こう。母はクリームソーダが好きだから、きっと喜ぶだろう。

私は帰省したその足でまず父の病室を見舞う。その後は母と遊びに行くつもりでいた。

どうせ父は私の帰省など嬉しくもないのだし、入院している父に私がしてあげられる事は何ひとつないのだから。

私はウキウキしながらネットで地域の情報を集めた。

私の帰省中の3日間は、姉も弟も都合で来られないので車がなかった。田舎だからバスの本数も少ない。旧友にも会いたいし、限りある時間を有効に使いたい。

いろいろと調べているうちに、私は少し気が紛れてきた。

盛岡には素敵な純喫茶がいくつもある。

盛岡の友人に会う場所はここにしようかな?等と、憂鬱な帰省にささやかな愉しみを見出そうとした。

 

そして明日はいよいよ帰省するという時になって、また弟からLINEがあった。

 

「母が救急車で運ばれた。今、姉が向かっている」と。

 

 

実家に向かった姉とは、なかなか連絡がつかなかった。

姉の家から実家までは、車を飛ばしても2時間以上かかる。

運転中か病院にいるのかも解らないので、こちらからは電話もかけられない。

慌てても仕方がない。どのみち明日の昼には帰れるのだからと自分に言い聞かせ、ひたすら連絡を待っていた。

姉から電話がかかって来たのは、夜になってからだった。姉は、実家ではなく再び2時間かけて自宅に戻っていた。

この日の朝、母が起きようとしても背中が激しい痛みで起き上がる事が出来ず、そのまま10時近くまでベッドに横たわっていたらしい。

そこに姉から電話がかかってきた。這うようにして階段を下りやっと電話に出た。その事を姉に話すと「すぐに病院へ行くように」と言われたが、タクシーで行こうにも立ち歩けないので自分で救急車を呼んだのだった。

病院ではいろいろな検査をして、その結果次第で入院になるという。背中の痛みは加齢による背骨の圧迫骨折で、コルセットをする以外どうしようもない。骨粗鬆症と貧血が酷く、体重が32kgしかない。

体重を聞いて、私は絶句した。

母は元々少食で小柄で、あまりものを食べない。昨年も、一昨年も帰省して一緒に食事をする度に「こんなに食べないでよく生きていられるものだ」と呆れた。母の食べられそうなもの、身体によさそうなものをすすめても、やっとひと口箸をつけるだけだった。茶碗蒸しだけは好きで、いつも食べていた。

 

 

翌朝、私は予定通りに家を出て新幹線に乗った。

車内から友人にLINEして、簡単に事情を説明した。お昼に駅に着くので迎えに来てもらい一緒にランチをする予定だったが、昼と夜、母に何か食べさせてから会う事にした。

帰省の最終日に盛岡で会う約束をしていた友人にもキャンセルを伝えた。状況次第では帰省が長引くかもしれないので、ドタキャンするよりはまたの機会にした方がいいと思った。

そんなLINEのやり取りをしているうちに、新幹線は盛岡駅に着いた。ダッシュで乗り換えをして、予定よりも早く地元駅に着いた。駅から実家は近いのだが、タクシーに乗った。

 

家に入ろうとすると、母が玄関の近くの椅子に座ってうたた寝をしているのがガラス越しに見えた。

電話機が玄関にあるので、すぐに出られるよういつもそこに座っているのだと思う。

玄関の下駄箱の上には、花が生けてあった。ピンク色のカーネーションだった。

母は花が大好きなのだが、花を飾ると父に「こんな無駄なものを」と叱られていた。その度に私は(父のギャンブルが何よりも無駄なのだ)と思っていた。父が不在だと母は、生け花も自由に出来るのだ。

あら、綺麗だことと思いながら、私は母にそれを伝えなかった。家の中に入ってみたら、部屋がとても汚れていたからだ。

今までならば「もっと掃除をしておいてよ」と文句を言ったが、こんな体の母には言う事が出来ない。目も悪くて汚れが見えないのだろうし、私自身も年をとったから掃除がどんなに体に堪えるかを知っている。

「朝ごはんを食べたの?お昼は?薬をちゃんと飲んだ?」

「朝は食べた。薬も飲んだ。お昼は、まだ腹が減らない」

私は朝から何も食べていなかったので、お腹がすいていた。

娘がお土産にと持たせてくれた、栗のパウンドケーキを見せて

「これ、持って行ったらお父さん食べるかな?」と聞いてみた。

「かんねぇ、かんねぇ(食べない)」と母が言った。

父は変な拘りが強くパンならこれ牛乳はこれと、同じものしか受け付けない。前の晩に娘が「おじいさんへ」と、このケーキを出してきた時

「せっかく買って来てくれたのに悪いんだけど、あの人は絶対に食べないと思うからこれはうちで食べようね」と言うと、娘は酷く腹を立てて部屋に閉じこもった。

私は、せっかくの好意を無下にして悪かったとひと晩反省して謝り、ケーキを持っていく事にした。

私は娘を父に会わせないようにして育てた。だから娘は「祖父が入院したと聞いても特別何も感じない」と言っていた。

私はそれで構わなかった。父は、私と同様に娘に対しても愛情がないのだから。

私が父に傷つけられてきたように、娘が父から理不尽な仕打ちを受けるのだけは許せなかった。

でも娘は娘なりに考えて、父へのお土産を用意してくれたのだろう。それは小さなケーキだけれど、小布施の高価なお菓子だった。

「少し切って持って行けば?孫からだと聞けば、食べるかも知れない」

そう言われて、ケーキを小さく切ってラップに包んだ。私も一切れ食べた。大粒の栗がほくほくとして甘く、美味しかった。小皿に乗せて母にもすすめたが、母はお腹がすいたら食べると言って、小皿をテーブルの隅に置いた。

 

私はまず、父の入院する病院へ行く事にした。病院行きのバスの時刻表は、駅に着いた時に写メっておいた。病院に行き、帰ってきたらどこかで母にお昼を食べさせよう。

そう伝えると「バスでははでがねえ(ノロノロしている)から、タクシーで行ってくればいい」と言う。タクシーだと往復で三千円以上かかる。お金が勿体ないが時間も勿体ないので言うとおりにした。

電話をするとタクシーはすぐに来た。

「顔だけ見たらすぐに帰るから、出かける支度をしておいてね」と言って、タクシーに乗り込んだ。

 

 

タクシーの運転手に行き先を告げると、寺を抜けても良いかと聞かれた。

私は構わないと答えた。父の入院している病院は、以前は駅前にあった。それがいつの間にか山の方へ移転して、私は一度も行ったことがない。

寺を通るルートは曲がりくねった坂道で、ガタガタと酷く揺れた。

寺の墓地には祖母や、昨年の夏に亡くなった伯母の墓がある。立ち並ぶ墓を見ながら、私は心の中で「ただいま」と言った。

唐突に運転手が話しかけてきた。

「昨日、病院から家まで私がお母さんを乗せたんです」

「ああ、そうでしたか」

それは奇遇だけれど、だから何だと思っていると

「お宅のお母さん、元気なおばあちゃんだったぁども、何だか急に衰えたぁがね。ついこないだまでは、まるで元気にしてだったぁども」と言い出した。

私は慌てた。そうだ、ここは田舎だった。どこかの家で変わった事があれば、たちまち広まってしまう田舎なのだった。

「父が入院してひと月になるから、その疲れが出たのだと思います」

「そうなんだぁごったぁがね(そうなんでしょうね)」

世間中が知っているのだ。実家の事を。半身不随で耳の聞こえない父は、タクシーを利用しても暴君であっただろう。その父が場外馬券場で転び、入院した事も自業自得だと噂されたに違いない。

私の気持ちは一気に暗澹とした。父の見舞いなどさっさと済ませて、母と出かけよう。

小高い山の上に病院はそびえ立っていた。

外来の診療時間外のため、フロアには誰もいない。入院病棟へ行き、ナースセンターで父の病室を聞いた。

父は、6人部屋の窓際のベッドに眠っていた。

同室の人達もおじいさんばかりで皆こんこんと眠っており、部屋は静まり返っている。

父のベッドの足元には、昼食のトレイが手付かずのまま置かれていた。

それを見て(本当に、食べないんだな…)と思った。

 

入院して以来、父は食事もリハビリも拒否しているらしいと、姉から聞いていた。

お粥、魚、野菜の煮物。缶入りの栄養補給剤。

いくら我儘でも腹がすきゃ何でも食べるだろうに。

私は手持ち無沙汰で父のベッドの周りをうろうろしたり、引き出しを開けてみたりしたが、父は寝息をたててぐっすりと眠っていて目を覚ましそうになかった。

このまま帰ろうかと思ったが、せっかくここまで来たのにタクシー代が勿体ない。私は昨夏に母が伯母にしたように、ポンポンと強く肩を叩いてみた。

すると父は目を覚まし、ぼんやり不思議そうに私を見ていた。やがて「ああ、」と解ったような声を出した。

パーマ屋に、行ってきたのか」

ふん、私を姉だと思っている。

先日姉が父を見舞った時、髪が乱れていた姉に「これでパーマ屋に行ってこい」と、1万円札を差し出したという。「こんな事は、生まれて初めて」と、姉が興奮気味に話してくれた。

私はタンポポです。

そう紙に書いて見せた。しばらく黙っていた父は「ああ、そうだったのか」と、さして驚きもせずに言った。

父は数年前から薬の副作用とやらで耳がよく聞こえない。それでも自分は何でも言いたい放題だから、不自由はないのだった。

父はしばらくの間、いろいろな事を喋り続けていたが、その半分以上は何を言っているのか解らなかった。父の方言がきついのと、妄言なのか本当の話なのかも判らない。だからあまり真剣に聞かなくてもいいと思いながら、ふんふんと聞くふりをしていた。

そのうちに「俺はバチが当だったから、こんなになった」とか「死ぬ前にあいつには金を返さねえばなんねぇ」とか何とか、懺悔を始めた。父の話はあまりにもクズ過ぎて、聞くに耐えなかった。

ああ、この人は自分がもうすぐ死ぬと思っている。

こんな人でさえもあの世に行く前に、人は悔い改めようとするものなのか。

 

私は、娘がくれたケーキの事を思い出した。

孫がおじいさんにってカステラを持たせてくれたけど食べる?

娘のケーキはパウンドケーキだったが、通じないだろうからカステラと書いた。父はケーキをちらりとも見ずに「かんねぇ(食べない)」と言った。

やっぱりね…と思いながらケーキをしまっていると「孫というのは、山形の孫か?」と聞いてきた。

山形の孫というのは、姉の子の事だろう。その子が山形に居たのは大学時代の4年間だけで、今は結婚して山形にはもう居ないのに。

山形ではなくて、東京の孫

と書くと

「東京の孫?俺には東京さも孫がいんのか?」

と大声を出したので、私はのけ反るほど驚いた。

「いっぺぇ、孫がいんなぁ!」

と、父はひとりで大笑いしていたが、笑い事ではない。

昨年の帰省では、父はまだ娘の名前を憶えていた。山形の孫〇〇の名前も覚えていた。昨年はその〇〇が里帰り出産し、父にとってはふたり目の曾孫が出来た。

赤ん坊の写真を撮り、父に見せた時には

「誰の子だ?」と聞いてきた。

〇〇の子

 すると父はとても驚いて「〇〇は、いつの間に結婚したのか?」と大声を出し、私と母を戦慄させたのだった。

 

人が長く長く生きて、最後まで覚えていられる事は何なのだろう?

父はいつ、私の事を忘れるだろう?

早く忘れてしまえばいい。もう忘れてくれていいのに。

そんな事を考えながら、私は病院を後にした。

 

 

家に帰ると、母は病院での父の様子を聞きたがった。私は父が私と姉を見間違えた事だけ話した。

そして母に何が食べたいかと聞くと、よく行く回転寿司の茶碗蒸しが食べたいと言った。

母は家の中をゆっくり歩く事は出来ても、外に出るのは辛そうだった。タクシーに乗る時も痛みで悲鳴をあげ、やっぱり止めようとしたが大丈夫と言って聞かない。

せっかく行ったのに回転寿司は休憩中で、そのままタクシーで駅前に戻り他の寿司屋に入った。

その店は地元でも指折りの人気店だが、3時を過ぎていたので他の客が誰もいなかった。

茶碗蒸しひとつとお寿司を一人前だけ頼み、ふたりでつつくことにした。

茶碗蒸しが運ばれてくると、母は喜んですぐに食べ始めたが、お寿司はやっと二貫食べただけだった。

「味がわからない。何を食べても美味しくない」と言う。昨夏にもそう言っていたので亜鉛のサプリを買って渡したのだが、それを飲んでいないどころかもらった事すら覚えていなかった。
「美味しかろうが美味しくなかろうが、何でもバランスよく食べなきゃ」と母を叱った。
私は子供の頃、食が細く虚弱だった。食事の度に「あれもけえ(食べろ)これもけえ、薬だと思って我慢してけえ」と母から言われ続けてきた。子にはそう言っておきながら、どうして自分は出来ないのだろう?
父は父でかなりの偏食で、気に入ったものばかり食べ続けた。そして、味覚障害で味付けがおかしくなった母の料理を一切食べなくなった。
母が作ったものは、変な味がする。毒でも入れたのか等と言うらしい。父もまた味覚障害と、被害妄想が酷くなったのだろう。
 

母がもう満腹だと言うので、お寿司のほとんどを私が食べた。6時に友人と夕食なのに、困ったなと思いながら。

またタクシーに乗り帰宅して、友人との約束の時間まで実家の掃除をした。

冷蔵庫は、いつの何か解らないもので溢れている。捨てれば揉めるのは解っていた。小皿に謎の残り物があって、さすがにこれは捨ててしまおうと提案すると

「それは、明日カラスさけっから取っといて」と言う。

「カラス!」私が驚いていると

「おれが外さ出はっとエサもらうべとカラスが飛んで来んが」と、楽しそうに言った。

カラスが来るのも嬉しいなんて、どんなに寂しい日々なのだろう。

私は皿を元の所に置いた。

そして洗濯物を取りに2階へ行き、ベランダの窓から外を見た。すると、近くの電線にとまった1羽のカラスがこちらの方を見ていた。

もしかして、エサをもらいに来るのはあのカラス?

昨日も今日も、もらってないからどうしたのかと様子を見に来たのかも?

そんな、まさかね。

 

夜、私は予約していたビジネスホテルにチェックインした。

この日は秋祭りで、ホテルの前の通りには夜店が並んだ。

さもない祭りだが、子供達が楽しそうにはしゃぎとても賑やかだった。震災で打ちのめされたこの小さな港町が、活気を取り戻しているのを感じた。

友人とはホテルの近くの洋食屋さんで待ち合わせをしていた。この洋食屋さんも津波で店を失ったが、別の場所に移転して再開したのだった。

「お父さんが入院してるなら、ホテルに泊まらなくてもいいんじゃない?」

私がいつもビジネスホテルに泊まるのを知っている友人が言った。

「父がいてもいなくても、あの家では眠れないんだよね…」

「そうなんだ…」

友人は中学時代からの付き合いだが、一度ケンカをした事がある。ケンカといっても言い争ったのではなく、しばらく口をきかない時期があった。

それは、父が嫌い、いなくなればいいと常日頃から言っている私に

「私は、たとえどんなお父さんでもいいから、お父さんにいて欲しい。そんな事を言うタンポポが許せない」と、友人が言ったからだった。

友人のお父さんは彼女がまだ物心つく前に亡くなり、私はそれを知っていた。でも…

(どんなお父さんでもいいだなんて…そんなのただのつまらない感傷だよ)

私達は、相手の立場を思いやる事も理解する事も出来ずに距離を置いたまま、別々の高校へ進んだのだった。

私達は自転車通学だった。お互いの高校に向かう時、橋上ですれ違う事がよくあった。目が合えば手を挙げて合図したりしたが、立ち止まって話す事はなかった。

河口にほど近い小さな橋は、東日本大震災で崩落した。

海のそばに嫁いだ友人の家も、津波で流された。

時を経て橋も、友人の家も、立派に元通りになっている。

年をとった私達も、会って話すときには学生時代に戻った。

私達は、この日のサービスメニューで食後にコーヒーがつくというので、オムライスにした。

薄い卵できれいに包まれたオムライスに、ふたりで歓声をあげた。

思ったよりも大きかったので、私は食べきれるか不安になった。さっきお寿司がまだお腹に残っていた。

私達は「最高に美味しいね」と言いながらオムライスを食べた。昔話に花を咲かせながら、お互いに親の介護話をしながら、全部食べた。

私は少し演技をしたと思う。それは、ふたりで食べたあのオムライスが、本当に完璧なオムライスだったから。

 


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東京では不規則な生活の私だが、岩手に帰省すれば不思議と早起きになる。

ホテルの部屋の窓からは、海も山も見える。夜が明けていく町の様子をぼんやりと眺めた。貧乏くさいつまらない町だと思っていたが、そうではなかった。今の私は、海と山が近くにあるだけで泣きたくなる。

帰省2日目。台風が近づいていて、ぶ厚いグレーの雲が重たそうに見える朝だった。

急いで身支度をして部屋を出た。どんなに早起きしても母はもっと早く起きていて、私が来るのを待っている。

フロントにダメ元で聞いてみたら、ホテルの自転車を貸してくれた。その自転車を夜まで自由に使える事になった。

私は自転車に乗って町をぐるりと回ってみたが、商店街のシャッターはまだ閉まっているし、人も車もまばらだった。

マクドナルドが開いていたので、テイクアウトした。友人のお婆さんは齢90を過ぎているが、マックが好物と聞いて驚いた。母はマクドナルドに一度も入った事がないだろう。

ジャンクフードでも何でもいいから、口にして欲しい。

家に入ると母は、いつもの指定席に座っていて「遅かったなあ」と言った。

朝ご飯を食べたか聞くと「食べた」と言うが、本当かどうかは解らない。

私はチーズバーガーとハッシュドポテトを小さく切って皿に盛り「食べた事ないでしょう?食べてご覧」と、母に差し出した。

「これは何?」

「パンとじゃが芋。柔らかいからお婆さんでも食べるっけよ」

母は「今食べたばかりだから、これは後で食べる」と言って皿をテーブルの隅に押しやった。私はコーヒーと残りのチーズバーガーを朝ご飯にした。

「今日は、姉ちゃんが来るまで掃除。姉ちゃんが来たら病院に行くからね」

「姉ちゃんが来るって?うちさ来るって?」

「そう。予定があったけど変更したんだって。入院手続きとか、いろいろあるからね」

「入院って誰が?」

「お母さんに決まってるでしょ」

「おれは入院なんか、しねえがや?」

「検査したでしょう?その結果次第では入院だから」

「しねぇ、しねぇ、入院なんか」

そうだった。母は昔から入院をしなければならないような状況でも入院を拒んで、家で臥せっていたのだ。

「少しの間だけ入院して、点滴で栄養つけてもらえばいいじゃない。家にいて具合がもっと悪くなるより病院にいた方がすぐ診てもらえるし。その方が私達だって安心だし」

母は聞かなかった。入院したらそのまま死ぬまで出られないと思い込んでいた。

「入院は嫌かも知れないけど、仕方ないでしょう?私はお母さんにもっと元気になって、残りの人生楽しんで欲しい」

母は少しだけしゅんとしていたが、姉が来るのは嬉しいようで

「何時にあっちを出はったべか?」「姉ちゃん何時に着く?」「旦那さんも一緒に来っつうが?」とうるさく聞いてきた。

 

 

しばらくして姉が到着した。

姉は玄関を開けるなり

「ねえ、何?あの汚いの。生ゴミが家の前に落ちているんだけど!」と聞いたので

「ああ、それはお母さんがね、カラスに餌をやったの」と笑いながら言った。しかし姉は

「カラス!だめだめカラスになんか餌やっちゃ。ご近所迷惑!」

「なぁに、カラスはきれいに食べんが。うちの前だし大丈夫」母はそう言ったが、姉の剣幕は収まらなかった。

「大丈夫じゃないよ。いくらうちの前だからって、隣り近所は嫌がるんだからね!もう絶対にしないでよ!」

そして姉は、さっさと生ゴミを片付けてしまった。隣り近所といっても人の気配が殆どないので、そんな目くじらを立てなくてもと思ったが黙っていた。いつだって姉の言う事が正しいのだ。それに母は、姉が帰ればまたカラスに餌をやるだろう。

「お母さんが、入院なんかしないって言うんだけれど」

私は話題を変えようとしたのだが、これがますます姉の逆鱗に触れた。

「入院しなくても、ほれ、この通り。おれは大丈夫」

「入院かどうか決めるのはお医者さん。検査の結果次第なの!お母さんが決めるんじゃないから!」

これには母もしょげて黙ってしまった。

 

それから私と姉は、父の見舞いに行った。

父は昨日と同じように、昼食のトレイを足元の台に置いたまま眠っていた。

眠っている老人は、私のイメージする父とはまるで別人だった。

「こんなに小さかったかねぇ?かなり大きな体つきだと思ったけど」

「食べなくなったから、だいぶ萎んだかもね」

姉は戸棚を開けて紙おむつの残りを調べたり、看護師との筆談のやり取りをチェックしていた。

やがて父が目を覚まし、姉と私に気がついた。

 

どちらが、タンポポでしょう?

 

姉が紙に書いて父に見せると、父は面白がってわざと姉の方を指差した。そして楽しそうに笑っていた。

昨日よりもご機嫌なのは、姉が来てくれたからだ。母が身動き出来ない状態なので、今後は姉に頼るしかないと解っているのだ。

私はふと、昔にも父とこんな風にふざけて笑い合った事があるような気がした。

それは本当に気のせいだった。物心ついて記憶にあるのは、人を罵り嘲って笑う父の姿ばかりだから。

でも、もしかしたら私の記憶よりずっと前には、我が家にも普通の家族の団欒があったのかも知れない。そうだとしたら、父はどうして狂人になってしまったのだろう。

父は昨日私に話した事を、姉にも繰り返した。

「おそらく俺はもう、ダメだ」

「バチが当だったぁのさ」

そして、唐突に

「かがさま(母)を、大事にせぇ」

と言うので、姉と私は顔を見合わせて驚いた。

「こりゃ大事件だ!まさか父がこんなことを言うなんて」

「大事にせぇって、私達は十分大事にしてるよね。お前がしろよだよ。何なの今になって」

私達は父が聞こえないのをいい事に、父の前で口々に言った。

 

「あれには驚いたね。いよいよ死期を悟ったか?」

帰りの車の中で、私は姉に言った。でも姉は

「今さら改心したところで、私達がこれまでに受けてきた仕打ちを水に流すなんて出来ないから」

と言い放った。

不本意でも長女の責任を果たしてきた姉は、父と一切関わらずに生きてきた私よりもずっと多くの恨みを抱えてきたのだろう。

「出来っこないよね…」

「それでもあんな姿を見ちゃうと、ちょっとは憐れかも」

憐れと言えば、憐れだけれど…

私は再び歩けなくなり生きる気力を失った父親を見ても冷やかな自分の方が、よほど憐れに思えていた。

今まで私は、倒れた父親を案じて涙を流す人や、父親を亡くして慟哭する人を見る度に「お気の毒」と口では言いながら、心の底では羨ましいと思っていた。

なぜならその悲しみは、父と子が強い絆で結ばれている証であり、父親から深い愛を受けてきた人の感情だから。

私にはそれが羨ましくて、羨ましくてたまらなかった。そして自分が同じ立場になった時にはきっと、悲しむ事はないと思っている。

人として当たり前の感情すら持てない自分はまるで不具者か何かのようで、自分が憐れで仕方がなかった。

 

家に戻る前に家電量販店に寄って、掃除機を買った。
実家の掃除機が古くてゴミを吸わないので、いくらかけてもきれいにならないのだ。
ちょうど特売の品があり、すぐ決めたので大して時間はかけていない。それでも家に帰ると、母はやきもきしながら私達の帰りを待っていた。
チーズバーガーの皿が空になっていて、聞くと「食べた」と言うが、本当に食べたのはカラスだったかも知れない。

私達は母も車に乗せて、昼食を食べに行く事にした。
姉が「お寿司が食べたい」と言い、私はお寿司は昨日も食べたが、姉が食べたいのならと同意した。

すると母が「食べさ行く前に、ちょこっと姉さんの家さ寄ってぐべ」と言い出した。
姉さんというのは昨夏に亡くなった伯母の事で、葬式に出なかった私にお線香をあげて欲しいと言う。
「行くのはいいけど、突然押しかけたら迷惑では?」
「大丈夫。線香あげたら長居しないですぐ帰っぺし」
伯母の家には伯父もいない。従兄も50代で急死した。
今、伯母の家には従兄のお嫁さんがひとりで住んでいる。だから母は私の帰省でもダシにしなければ、伯母の家に上がりづらいのだった。

私がまだ小学生の頃、伯母の家は市の中心部にあった。私は学校の帰りに時々寄り道をした。
伯父も伯母も勉強や躾にとても厳しく、本当は二人をあまり好きではなかった。
けれども、この家にはたくさんの金魚と鳥がいた。私は九官鳥のキューちゃんと遊ぶのが楽しかった。
伯父は私が来ると「おお、タンポポや、丁度いい時に来た」と笑顔を見せたかと思うと「伯父ちゃんの腰を踏んでけろ」と言って、床にうつ伏せになった。
私の体重が具合いいからと、長時間踏ませるのでウンザリしていた。
そしてたまにはお小遣いもくれたが、50円玉たったの1枚だけだった。
私の名前を付けたのがこの伯父で、会う度に「伯父ちゃんが付けたんだ。いい名前だろう?」と恩着せがましく言われるのも嫌だった。
町なかではなく山の方に、息子夫婦が立派な家を建てた。教育熱心に育て上げた息子は、地元の長者番付にのるほど成功したのだった。
母の実家も父の本家も親戚は皆どこも裕福で、大きな家に住んでいる。
実家も母の商売が順調だった頃は裕福な部類だった。父が、お金を湯水のように賭け事に使いさえしなければ。
私だって賭け事の楽しさは知っている。でも賭け事は遊びで、遊ばれてはならない。
ギャンブルに狂わされた人生の末路ほど、惨めなものはない。

私は初めて、従兄が建てた家に上がった。
ちょうど従兄の娘達が帰省中で、家族水入らずの所にお邪魔したのに快く仏間に通してもらった。
仏壇に飾られた伯父、伯母、従兄の写真は思い出のままの姿で、胸が締め付けられ正視できなかった。
私がお線香をあげている間に、姉は従兄のお嫁さんと世間話をしていた。
従兄の娘達がお茶の用意をしてくれたがそれを辞退して、私達はそそくさと車に乗り込んだ。

「せっかくお茶ッコ出してくれたのに、悪かったかもね。」
「立派な家だったね。」等と言いながら寿司屋に向かった。

私は、お線香をあげられたので安堵した。
昨夏にお葬式に出なかったのは自分で決めた事とはいえ、心の底で澱となっていたのだ。

http://tanpopotanpopo.hatenablog.com/entry/2016/08/14/215720tanpopotanpopo.hatenablog.com


姉が行きたいという寿司屋が臨時休業で、2日連日で運の悪い私達だった。
ここがダメならあそこと姉は車を走らせた。港町だから寿司屋は何軒もある。


すると母が
「おめさんだちさ、おどっつぁんの彼女の家を教えっか」と、突然言い出した。
「何なの?気持ち悪い。やめてよそんな話、聞きたくもない」
姉が気色ばんで声を荒げ、私は呆気にとられていた。
母は「この通りを真っ直ぐ行った信号の所の、右の家」と言った。
信号が青なので停まることなくすうっと通過したのと同時に、その家の玄関が開いて女の人が出て来た。
私が面白半分に「今の人が彼女だったりしてね」と言うと
「あれが、そうだ」と、事もなげに母が言った。


人生は、幾つもの偶然の積み重ねだと思う。
とはいえ、こんな偶然があっていいものだろうか。
予定していなかった、伯母の家への訪問。休みと知らずに向かった寿司屋からの道すがら、ほんの数秒間に父の愛人を目にするなんて。
その一瞬は、まるでフィルムをコマ送りしたかのように数枚の静止画となって、私にインプットされた。
けれどその女性はうつむいていたので、顔の造作や表情までは解らなかった。ただ、愛人をイメージするような華やかさはなく
「ただのお婆さんだったね」と私の感想を言った。

父がその「彼女」を伴って、盛岡の競馬場で派手に遊んでいた。それを見た誰かが、ご丁寧にも母に忠告をしたのは、私が高校生の頃だ。
母はとても悔しそうに、私に何度も愚痴った。父と母がその女の事で口論するのも見てきた。
私は、父が外で遊ぶのが楽しくて不在になるならば、その方がいいと思っていた。
愛人といっても父は半身不随の身体だから、その相手が本気とは思えない。腹違いの兄弟が生まれる可能性もないだろう。
父と母は長い間不仲なのに、嫉妬して怒るなんておかしいと、高校生の私は母に言った。

「嫉妬はしねぇどもさ。そんでも腹は立づべぇが。おれが寝ねえで稼いだぁ金ふん使ってけづがって」

それはそうだと思うけれど、だったら早く別れればいいだけの事。
別れればいいのに、何があろうと別れない。この堂々巡りを何十回、何百回と今まで繰り返して来たのだ。

姉は当時、寮生活をしていたので、この事を知らなかったらしい。
車の中で「ああ気持ちが悪い。本当に不愉快」と、繰り返していた。

 

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三陸丼」と名付けられた海鮮丼がとても美味しかったので、姉は少し機嫌を直した。
その店には茶碗蒸しが無かったので磯ラーメンも頼み、3人で分けて食べた。

私はお気に入りのケーキ屋でケーキを3つ買い、1つをホテルの部屋に持って帰り晩ご飯代わりに食べた。
その夜はいよいよ台風が接近し、雨風が窓に強く打ちつけた。
やっと眠りについたところにスマホから大きな音が鳴り、飛び起きた。
川の水位が上昇して避難勧告が出たのだった。でも、このホテルの場所なら安全だと思う。
実家の母には、姉が付いているから大丈夫だろう。
危険区域が広がる度に緊急速報が何度も鳴ったが、スマホの電源を切るわけにはいかなかった。

もしも地震が起きて、津波警報に気づかなかったら…
ここは津波で漁船や家や車が流れてきて、大勢が亡くなった町なのだから。

 


帰省3日目。

緊急速報が鳴る度にスマホ画面を見ていたので2、3時間しか眠れなかったが、朝には雨がやんでいた。

ロビーで新聞の歌壇欄をチェックした。毎日新聞に私の短歌が掲載されていた。岩手日報は没だった。
少し気を良くしていたら、姉が迎えに来たのでチェックアウトをした。

このホテルのロビーには、自由に飲めるコーヒーが置いてある。
こういうサービスのものは美味しくないと決めつけて、今まで一度も利用しなかった。でも姉と一緒に飲んでみたら、美味しいコーヒーだった。

 

姉の車で父の見舞いに行き

<u>今日、東京に戻ります

</u>と、紙に書いた。
父は表情を変えずに「ああ、そうか」と言い、手をバイバイと振ったので私もバイバイした。
さっさと帰れと言わんばかりの、いつものようにあっけない父との別れ。


実家から駅まで姉の車で送ってもらった。
私が実家から出ていく時に、これがまるで今生の別れであるかのようにするのが、母とのいつもの別れだった。


私は、確信していた。


父は、まだ死なない。

母も、まだ死なない。

これが今生の別れなんかじゃないと。


これは、終わりへの始まりなのだ。
いつか必ずやって来る、看取りの時。

その運命の日までは、きっと途方もなく長いのだろう。そして、その日々は想像を絶するものだろう。
例えこの先どんな事が起きても、全部受け入れなければならないと思っている。


全ての偶然は運命であり、その運命が必然なのだとしたら。

 

 

 

END

 

 

 

 

<追記>


帰省から約2ヶ月、このエントリーを書いている間にも状況がどんどん変わっていき、文章が追い付かない。
父はこの間に3回、転院した。
一時は食事も摂るようになり、リハビリにも意欲を見せた。かと思うとまた厭世感に浸るなど、とても不安定らしい。
内臓にも異常が見つかり、退院の目処は立たない。
そしてこの2ヶ月の間には、義父もケガで入院した。こちらも老々介護でかなり深刻な状況。
ふたつの家族ネタを現在進行形で、延々といくらでも書けそうだが、関係者(特に姉)が許さない。
それに、私の一族のサーガなど面白くも何ともないと気付いたので、ここで最終章とする。

 

誰もがいつか必ず、命が終わる。
私は、親よりも先に死なない事だけを目標に、何とかして生きて行く。

 

 

2018帰省日記

2018/09/11〜2018/10/24

2日目①〜復興の町、老いゆく親

 

これまでに何度も感じた事のある、昨日と今日ではまるで違う世界に来てしまったような感覚。

例えば3.11、あるいは9.11の時のように。

東日本大震災をきっかけに、遠ざかっていた故郷に帰省するようになった。その8度目の帰省中にまさか、今度は北海道が大地震に見舞われるなんて。

盛岡駅近くのビジネスホテルに泊まっていた私はいつものように、自然に眠くなるのを待っていた。

人とたくさん喋った日には寝付きが良くなる事が多いのに、この日のホテルとはどうも相性が悪かったらしい。

空調をつければ寒く、消すと暑い。どこかから聞こえる微かなモーター音が気になる。それでもじきに眠くなるだろうと、ごろごろベッドに転がっていた。

そして午前3時過ぎ。何気無しにスマホを見ていると突然、北海道で地震の文字が現れたのだった。

私は起き上がってテレビを点けた。

また、大地震が起きた。

津波は?余震は?

テレビはさっき起きたばかりの地震の映像を、繰り返し流すだけだ。

私はもう、眠るのを諦めるしかない。こんな時に眠れるわけがない。

気持ちがずるずると堕ちていく。感情が壊れていく。その流れに自分が抗えないのも解っていた。

予定していた11時の列車ではなく、もっと早く盛岡を発つ急行バスの時間を調べた。

中島みゆきの歌のように絶望的観測をするのが癖なので、途中で大地震に遭ったなら、列車とバスではどうなるかイメージしてみた。

その結果は、列車でもバスでも大差ないように思えた。

列車もバスも、携帯の電波の届かないような山奥を走る。どちらにせよ、崖崩れが起きてしまえば一巻の終わりだ。

それなら、少しでも早く家に帰れるバスにしよう。

「今度また津波が来たら、おれは避難しないで家ん中さ居る」

これが母の口癖だった。

体重が28kgになってしまったという母を背負って逃げるのは、私でも容易いだろう。

でも、もう生きなくてもいいのかな。

そうだ、きっと私は逃げずに、母とふたりで家に残るのかも知れない…

 

 

ほんの数時間前、「強い気持ちを持って、これからもちゃんと生きて行こうね」等と、友人達と話したばかりなのに。

 

列車ではなくバスにした事と、到着時間の変更を、姉から母に伝えてもらうようLINEをした。

そして、タクシーで馴染みの食堂に行くようにと、時間を細かく指定した。

駅から歩いて5分の場所にあるその食堂には、偏食で少食な母にも食べられるものがあるのだった。

到着予定時間ぴったりに、バスは駅に着いた。

スーツケースを引いてゆっくり歩いても、約束どおりの時間に間に合うだろう。

バスの荷物置き場からスーツケースを下ろしながら、自分の気持ちを奮い立たせた。

しっかりしろ、自分。

疲れた暗い顔を、母に見せてはだめ。

振り返ると、そこに母が立っていた。

真夏のような陽射しの中で、シルバーカートを押しながら待っていた。

「どうしてタクシーで来なかったの?駅じゃなく食堂って聞かなかった?何分くらいここで待っていたの?」

母にはイライラさせられるけど、あまり怒らないようにと、姉から言われていた。けれど、どうしても尖った言い方をしてしまう。

「30分くらいかなあ」

母はのんきな声でそう言った。私はくらっと目眩がした。

バスの中で少しは眠っておこうとしたが、結局ほとんど眠れなかったのだ。

この後私は、海の見えるホテルに母を連れて行こうとしていた。

前もって提案すれば「ホテルなんか、おれはやんた(嫌だ)」と言うに決まっているから、母には内緒の計画である。

 

これが、老いてますます頑な母との、4日間の始まりだった。

 

2日目②〜老いるとは幼子に戻るということ

 

母と並んでゆっくりと、駅から食堂まで歩いた。

馴染みの食堂は、お昼時なのに空いていた。母は「ああ、久しぶり」と言いながら、小盛りのワンタンを全部食べた。

母は、誰かと一緒にいて好きなものならば少し食べるのを、私達きょうだいは知っている。

食堂を出て、近くの洋菓子店でケーキを2つ買った。

タクシーを呼び、車が着くまで店内で待たせてもらった。

家に帰り、お土産の荷物を広げて母に見せた。全て頂き物の食料品で、母が食べるものだけ置いていき、残りを姉の所に持って行く。

千疋屋の、桃とオレンジとマンゴーのゼリーがあった。母は桃か、オレンジを取るだろうと思っていたのに「マンゴーがいい」と言うので意外だった。

そういえば、40年も前の遥か昔、私の祖母が「これは、うんめえものだが」と言いながら、台所の流し台の前でペリカンマンゴーを食べていたのを思い出した。

当時の私はマンゴーどころかキウイさえ食べた事がなく、見知らぬものを口に出来なかった。

新しいもの好きな祖母だった。母にもそういう面が、本当はあったのかも知れない。

 

居間で休みながら、私は時間を気にしていた。予約していたホテルのチェックインまでに、私はひと芝居打たなければならない。

この日の夕食に母は、私をある料理屋に連れて行きたがっていた。

地元では有名なその料理屋に、姉夫婦が母を連れて食事をした時に

タンポポも、こごさ連れで来ってえなぁ」と、母が何度も繰り返していたと、姉から聞いた。

しかし、その料理屋には行こうと思えばいつでも行ける。だから私は、私の計画を遂行する。

「お母さん、今日の私の夕ご飯はホテルにあるから要らないよ。素泊まりとほぼ変わらない値段の食事付きプランをネットで見つけて、もう予約してあるの」

「何だ、そうか」

「何年か前にホテルのバイキングを一緒に食べたでしょう?あの時とは違うホテルだけど、あんな感じだと思うよ。お母さんも見てみる?」

母は、見たいと言った。私の行く先々が気になって、去年はビジネスホテルの部屋まで覗きに来た母だった。

「でも、おれは泊まれえねえがや」

「いいよ泊まらなくても。お料理を見て、お母さんが食べられそうなら食事だけして、また帰ればいいじゃない」

7年前の帰省で海の側のホテルに泊まった。家には翌日帰ると言ってあるのに、母はタクシーでホテルまで来た。バイキングの夕食を食べてみたいと言うので、一緒に食事をしたのだった。

いくら引き止めても「お父さんさ怒られる」と言って、タクシーで帰って行った。タクシーの往復代で泊まれるというのに。

私はこの時の事を、ずっと後悔していた。父は今、施設にいる。今回を逃せばもう、母をどこかに連れ出す事は出来ないだろう。

姉は、私の計画を聞いて「たぶん無理。お母さんは、他所には泊まれない」と言った。

母はこの頃、粗相をするようになった。それは本人からも聞いて知っていた。

姉の家でも、姉と出かけた先でも立て続けに失敗したので、ホテルに泊まるなんて絶対に嫌がるだろうと姉が言った。

それでも私は、予約をキャンセルしなかった。

綺麗で快適なお部屋で、食事の支度の心配もせずに、好きなだけお喋りをして好きな時にお風呂に入り、眠くなったら眠る。

そんなささやかな楽しみさえ一度もした事がない母を、このまま死なせる訳にはいかなかった。

そう、これは私のエゴイズム。私が後悔したくないだけのエゴイズムだった。

「じゃあ、タクシーを呼ぶからね。でもお母さん、もしもの事があるから着替えは持って」

「着替えは持ってがなくてもいいべ。おら泊まんねえもの」

「泊まらなくても、もし汚したら困っぺすか。この前はデパートだったから姉ちゃんに下着を買ってもらえたけど、海の方さ行けば店がないんだから」

私が強めに言ったので、母はバツが悪そうに着替えの用意を始めた。

その隙に、母の飲み薬をバッグに入れた。母の薬は壁に貼ってある薬入れに、朝昼晩と分けて入れてあった。たぶん、姉かヘルパーさんがやってくれるのだろう。

今日の夜と、明日の朝の分があればいい。「行く時には必ず、薬を忘れないで」と、姉に言われていた。

大判のバスタオル、ケーキの箱、水とお酒と大急ぎで袋に詰め込んだ。

 

タクシーはすぐに来た。

5分もしないうちに海岸沿いの道を走るのだが、去年まではなかった防潮堤がそびえ立っていた。まるで、要塞に閉じ込められたような気持ちになった。

「何だこれ。こんなの、要らないのに。どうして作ったんだろう?こんなもの、どうせまた津波に壊されるのに」

「本当にねえ」

タクシーの運転手は、何も言わない。様々な考えや立場があるのは解っていた。私もこれ以上は黙っていた。

車は急な坂道を上り始めた。曲がりくねった山道の景色を見て思い出したように、母が話し始めた。

「◯◯(弟)の家さ初めて行った時にな、こんな山の中の道を通ってったのや」

私は弟の家に、一度しか行った事がない。だけどもこんな山の中ではなかったはずだ。そう言うと

「あの時は、山の方を通って行ったったのさ。おらは姨捨山さ、なげられっとこだなあと思いながら、乗ってだった」

「ふうん。姨捨山ね。姨捨山って、どごさあんだべね。どごだかわかればなげさ行ぐどもね」

母は、さも楽しそうにアーッハハと笑った。

運転手は、何も言わなかった。

何て酷い娘だと、この運転手は呆れていたに違いない。けれど、このような会話はただの笑い話で、私と母の間では普通の事だった。

 

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2日目③〜今日の母が明日にはいない

海が見えるホテルに着いた。
この辺りでは一番のリゾートホテルで、もうシーズンオフなのに結構客が入っていた。
いつも使うホテルの3倍以上の金額だが、それを気にしたら親孝行の真似事など出来ない。
タクシーを降りると、入り口に車椅子が用意されていた。
これも姉に従い、予め電話で頼んでおいたのだった。
ホテルスタッフに促され、母は大人しく車椅子に座った。
宿泊予約に自分も含まれていると、うすうす気がついたかも知れない。
ロビーの壁は一面ガラス張りで、紺碧の海が見えた。
「海のすぐ側ですね。ここまで津波は…」
私の言葉を遮るように、フロントの女性が言った。
「震災の時、当ホテルは一切被害がありませんでした。そのため避難所として使われたのです」
「ああ、それなら安心だね」
私はゆっくりと車椅子を押し、途中にある装飾物を見て回りながら、最上階にある部屋まで母を連れて行った。
「おめさんは上手だがね。◯◯(姉)は、あっちさこっちさぶつけて、まるで下手だったども」
私は昔、だだっ広いショッピングモールで働いていた時に、車椅子を扱う講習を受けていた。バリアフリー完備の館内を歩き回るなど、容易かった。
それよりも、車椅子に乗るなど頑に拒否すると思っていた母が、すんなり座った事と、母を乗せた車椅子の軽さが悲しかった。

 

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部屋は畳の和室で、大きな座卓と、窓際に小さなテーブルと椅子のセットがある。
海側ではなく松林側の部屋にしたが、松林の向こうに海が見えた。
母は椅子に座り「おらぁまぁ」とか「へえ」と言いながら、部屋の中を見回した。
「おらもこごさ泊まんのか?おらぁ、嫌んたがや。こんな立派なとごさば、泊まれえねえが」
「泊まれない事ないでしょ。お金を払えば、私達だってお客さんだべすか」
そう言いつつ私も、このような部屋に不慣れだった。
あちこちの扉を開けて、何がどうなっているのか確認したり、お風呂とトイレを覗いたり、アメニティをチェックしたりと落ち着かなかった。
「お母さん、どうしても泊まるのが嫌ならご飯だけでも食べようね。私、他のフロアがどんな風かちょっと見て来る」
私はひとりで部屋を出た。そして、大浴場に行ってみた。
入り口までは車椅子を使うとして、脱衣所や浴槽の段差や、床材が滑らないか等をチェックした。
大浴場には客がひとりもいなかった。人目を異常に気にする母を、入れるなら今だ。
しかし、広い浴場は危ないかもしれない。目の調子が悪い私の方が、先に転びそうだった。
大浴場の他、マッサージコーナーやカラオケルームを覗いた。
ゆったりと読書が出来る、素敵なライブラリーラウンジもある。
部屋に戻り「大浴場に誰もいなかったから、入ろうよ」と誘ってみたら、母は首を横に振った。
「そうね。部屋風呂も大きいしね。もうお湯を張ろうか?」
母は、部屋風呂にも入りたくないと言う。
気短な私は、そろそろ面倒になってきた。冷蔵庫に入れておいたケーキを取り出して半分に切り、母に差し出した。
幼い頃からからずっと食べていた、バナナのオムレツケーキ。
「食べたら、夕飯が入らなくなる」と言いながら、母はケーキを食べた。座卓にふたつ置いてあったお饅頭も、母と私で一個づつ食べた。
すると、私は急に眠くなってしまった。
そうだった、昨夜ほとんど眠れなかったのだ。
母は、あれこれと昔の話を始めていた。これも姉から聞かされていた。母の話はエンドレステープのように、何周も同じ事を繰り返すと言う。
真剣に聞けば、つじつまの合わない所が多い。誰か解らない人の名や、固有名詞。確認するのも面倒で、私はふんふんと聞いているフリをする。聞き流しているのがばれそうになると適度に相づちを入れるものの、頭の中は半分以上眠っていた。
この長い長い昔語りには、理由があった。
昨年亡くなった伯母の娘、つまり私の従姉から
「うちの母は、昔の事を何も教えてくれなかった。もっと聞きたかった」
そう言われたらしい。
だから自分が生きているうちに、昔の話を伝えておかねばという使命感を抱いてしまったのだ。
これが非常に迷惑だった。この年齢になるまで知らなかったのだから、一生知らないままで良かった身内の恥を、母は面白可笑しく話して聞かせた。
次々と出て来るくだらない話に、私は心底呆れた。
知らない方が幸せな事もある。伯母の判断は、正しかったのだ。
この傾聴もミッションのひとつだから、何時間でも付き合うつもりでいたが、本当に苦行だった。


夕食の時間になり、母を車椅子に乗せてビュッフェ会場に行った。
ホテルスタッフは皆、車椅子の母に親切だった。母は恐縮し、恥ずかしがって下を向いていた。
「ビュッフェ台を見に、車椅子で回る?それとも歩く?」
母は、歩いてみると言った。三陸の海と山の幸を使った料理が、おちょこのような器に少しづつ盛られていた。これなら母も、何かしら食べるだろう。
雲丹入りの茶碗蒸しや、ひっつみ汁、刺身等、母が食べられそうなものを、せっせと運んだ。
母は生ものを食べず、天ぷらのような思いがけないものをふたつ食べたりした。それでも結局あまり食べないので、残りを私が全部片付ける羽目になった。
食事を終えて部屋に戻ると、布団が二組敷かれていた。
それを見て母は、諦めたように笑いながら「おらも泊まっていくかなあ」と言った。
母の気が変わらないうちにと、私は持参したバスタオルを敷き布団の上に敷いた。
「こうしておけば、気休めになるからね」
痩せすぎで、紙おむつをしていても隙間から漏れてしまうのだと姉から聞いていた。尿漏れパッドや専用の下着をあげても嫌がって使わず、生理用ナプキンで間に合わせているのも知っていた。
「ねえ、スーパーでこんなのを見つけたから、履いてみようよ。そうすれば心配なく眠れるでしょう?」
それは、パンツ型の生理用品だった。伸縮性があり、パンツ型おむつよりも体型にフィットするような気がした。
「トイレが近いから、私も履こうっと」
袋から出してみたら、それは意外と小さなものだった。
「これは、おれが使う。おめさんさば入んねえべ」
母と私は、大笑いをした。
私が大浴場に行っている間、母は風呂に入る気になったらしく、部屋風呂の湯船に湯を張っていた。
しばらくして「ボディソープがどれか解らない」と言うのでお風呂の扉を開けると、湯に浸かっている母の両足だけが目に入った。

まるで骸骨の標本のような、白くて細い足。

私は「ボディソープはこれ、こっちがシャンプー」と言って、急いで扉をバタンと閉めた。
他人が身体をジロジロ見るから嫌だと言う母に、気のせいだと一蹴してきたけれど、あれでは見られて当然だろう。
28kgまで落ちたという、母の身体はいつまで持つのか。

生理用パンツを履いて粗相もせずにぐっすり眠った母は、翌朝とても上機嫌だった。
「こごはいいがなあ。こんな世界があるだなんて、おら知らながったなあ。◯◯(姉)も連れで来ってえなぁ。◯◯(弟)も連れで来ってえなぁ」
「連れで来ってぇって…連れて来たのは私なんですけど」

そうだ、どうして私はもっと早く、こういう事をしてあげなかったのだろう。

「そうだ、おらかお父さんが亡くなった時、皆でこごさ集まって泊まればいいんだ。旦那さん達も、孫達も。それがいい。そうすっぺし」
「そうすっぺしって、そのお金を誰が出すの?普通は言い出した人がお金を出してくれるんだけど?」
私は呆れた。そんなお金がどこにあるのか。
母は、アカカアカカと楽しそうに、無邪気にいつまでも笑っていた。

 

3・4日目〜父と会う①

 

帰省3日目は、夜に中学時代の友人と会う約束があり、それまで実家で雑用をしながら過ごす。

何もないド田舎だったのに、町中にちょっとお洒落な飲食店が増えていた。

友人が予約してくれた店も、新しく出来たばかりのワインバルだった。

カルパッチョ等の、魚介を使った料理が安くて美味しい。私はワイン2杯が限界で、友人は何杯かわからない程グラスをあけた。

 

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ここでも親の介護の話と、嫁いだばかりの娘が心配な話。幾つになっても子供の心配をするのが親なのだ。そう実感する年代…

私なんかと毎年会っていて楽しいのか?という気を回さずに済む程、友人は楽しそうだった。

盛岡で会った友人には話したので、ここでも私の病気をカミングアウトするつもりだった。ふたりには、知っておいて貰いたかった。

でも、話すタイミングを失った。まあいい。大した事ではない。

 

ハンドメイド作家の友人は、会う度に作品をくれる。

家庭科は、彼女より私の方が得意だったのに、もうボタン付けさえしたくない。

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いつものビジネスホテルに泊まるが、眠れない。早朝に市場へ行き、買い物。

今にも降りそうな空だったので、往復タクシーを使ったが結局降らなかった。ホテルの自転車を借りれば良かったと後悔した。

チェックアウトをする頃には本格的に降りだして、またタクシーを呼んでもらった。

つくづく勿体無いと思うが、考えない事にする。お金よりも、この帰省中に倒れない事の方が大事。

母と山田線に乗る。

駅弁をひとつ買って母と食べようと思ったら、今は駅で駅弁を売っていないと言う。

信じられない。

昔「あわび弁当」という安くて美味しい駅弁があったのに、いつの間に無くなったのだろう。

仕方ないので、おにぎりとゆで卵とお茶を買った。

まだ時間はあると思いキオスクでもたついているうちに、列車の席があっという間に埋まっていた。

慌てて席を探すと、4人掛けのボックス席に気難しそうな爺さんがひとりで座っていた。他に誰か来るのか尋ねると、来ないと言うので母とそこに座った。

駅弁が無いより更に驚いたのは、この山田線が1両しかない事だった。

震災の年に帰省した時には、確か2両だったと思う。

山田線が1日4往復しかないのも、信じられない。

皆が本数の多い急行バスを使うので山田線の利用者が減り、運行本数を減らされたのだろう。

乗り心地も、バスの方が断然いい。しかし母は、車内トイレのないバスが嫌なのだから仕方がない。

朝から何も食べていないのに、母はおにぎりをひと口も食べなかった。

ゆで卵を剥いてあげると、それは全部食べた。列車で食べる味付きゆで卵は美味しい。

それにしても、駅弁……

そして今年こそ三陸鉄道に乗って、雲丹弁当を食べるのだと思うばかりで叶わず、それも悔しい。

 

夫と娘に気兼ねして帰省日程を組み、帰れば母親がいる。

私には、半日の自由もない。少し足を延ばせばいいだけなのに、自分で諦めてしまう。そのうち、いつか、来年こその繰り返しだ。

三陸鉄道には、一生乗れずじまいな予感さえする。

 

上盛岡で下車。姉の車で父のいる介護施設へ向かう。

行きたくない。だから嫌な事はさっさと済ませてしまいたい。楽しい事しかしたくない。

「私、お父さんの所には今日だけ行けばいいよね?」

姉の表情が不穏になる。

「それは、貴女の気持ち次第」

デスヨネーと内心思う。一年も実家問題を姉任せにしておいて、たった一度だけ顔を見せて済まそうと言うのだから不機嫌になるのも当然だった。

私は、盛岡でやりたかった事も諦めた。病気の身でもあるので、ハードスケジュールをこなせそうにない。

 

母がゆで卵しか食べていないので、回転寿司に行った。

お寿司よりも、揚げたての鯵フライが美味しかった。しかし、母はここでも茶碗蒸ししか食べないのだった。

 

 

これを書きながら、今頃になって気付いた。母は茶碗蒸しが好物なのではなくて、嚥下できるものを選ぶのだと。

 

 

4日目〜父と会う②

 

どうしてそれ程までに父親を嫌うのかと、人によく聞かれるが、嫌なものは嫌としか言いようがない。

父と関わろうとすると、忽ち拒絶反応が起こる。

鳥肌が立つ。動悸がして、血圧も上昇する。

それは子供の頃からだった。

外で遊んでいて家に帰る途中、父の車を見かけた。

私は咄嗟に物陰に隠れた。それを父にしっかり見られていて、帰宅するなりそれはもうこっ酷く怒られた。外で何か悪い事でもしてきたから、コソコソ隠れたのだろうと決めつけていた。

確かに、そのように思われても仕方がない。どうして隠れたか問い詰められても、自分の体が勝手に隠れたのだから、説明のしようがなかった。

父の説教はいつも、1時間や2時間では済まなかった。本当に叱られなければいけない事など、一度もしていないのに。

こんな育ち方をすれば誰だって、父親を嫌うのではないだろうか。

私は未だに、男の大声が怖い。他人の怒鳴り声を聞いたり喧嘩を見たりすると、呼吸が苦しくなる。それは、姉も同じだった。

 

 

とにかく、父と面会をしなければならない。

今は餡子のお菓子に嵌っていて、姉が行く度に「明日も饅頭を持って来い」と言う父。たくさん持って行くと施設に注意されるので、ひとつかふたつだけ置いて来るのだと言う。

父は饅頭が食べたいのではなく、姉に毎日来て欲しいのだ。

私は、帰省する前に明治座で、人形焼きを買ってきた。

「お父さんは高級品よりも、その辺で売っているような田舎饅頭の方がいいっけよ」と姉から聞いていたので、安いものにした。

面会時は、手を消毒したり、住所氏名を書かされたりが煩わしかった。頻繁に通う姉はもう、顔パスでいいらしい。

「先にひとりで行ってみて。お父さんがタンポポと解るかどうか」

父の名札が掛かった部屋に入ると、誰もいなかった。

ちょうど昼食時間の終わる頃で、まだ食堂にいるのかも知れない。

食堂に行ってみると、大勢の人が食事を終えて寛いでいた。談笑している人達とは離れた場所にひとりポツンと、父らしき人が座っていた。

「あの人かな?」

「そうそう。あそこがお父さんの指定席なの」

父はカウンターテーブルの席にいて、上を向いて呆けていた。上に何があるのかと、上を見たが何もなかった。虚空を見つめるとはこの事かと思いながら、私は父に近づいた。

 

もう、父が恐ろしくなかった。

 

父の肩を、ぽんと叩くと「おお」と、解ったような解らないような声を上げたので、隣の椅子に座った。

「お元気だった?」と聞くと、少しの間の後に

「◯◯(姉)も来たが?」と言った。私は頷いた。

「かがさまも、来たが?」と言った。また頷いた。

 

「どうだった?」と言いながら、姉が近づいて来た。

「◯◯も来たかって言うんだから、解ったんじゃないのかな」

そこに、介護施設の職員が近付いて来た。

後ろ姿の私を姉だと思っていたら、本物の姉が向こうから歩いて来たので心底驚いたようだった。これには皆で大笑いをした。

「お部屋に移動しましょう」と、職員が父を部屋に連れて行き、車椅子からベッドに移してくれた。

父は、私の顔を見ながら、上機嫌だった。そして、大きな声で

「何だぁ、おめぇは、20年ぶりだなあ」

と言うので、椅子からずり落ちそうになった。

ホワイトボードに『去年も 会いました』と書くと、また少しの間を置いた後に

「ああ、そうか」

と言った。

母は家から持って来た箱を、父に手渡した。それは、市から贈られた米寿祝いの記念品だった。父が包みを解いた。

中に入っていたのは、合成樹脂の小物入れだった。私はその記念日の、あまりの安っぽさに絶句したが、父は悦に入っていた。

昔なら「こんなぁ、けぇねぇ(価値のない)物を」と激しく罵るはずの父だった。

父はそれに何を入れようというのか、手の届きやすい場所に置いた。

人形焼の箱を見ても喜んでいた。

姉が『これは日持ちしないから、半分うちで貰うからね』とボードに書くと、父は少し残念そうに頷いた。

それから父は母に何か話しかけて、母は頷いたり首を横に振ったりしていた。いちいちボードに書かなくても、話が通じているのだった。

「以心伝心…」

私は姉に目配せした。姉も同じように憮然としていた。

呆れた。

この親の不仲に、私達がどれだけ泣かされてきたか。この人達は、覚えていないのだろう。

「もう行こうよ。際限がないもの」

「そうだね。行こうか」

「じゃあね。お父さん。バイバイ」

私は手を振って、施設を後にした。(全く、とんだ茶番だよ)と思いながら。

 

 

4日目〜姉の家・弟の家

 

父が入所している介護施設と姉の家は、それほど遠くない。

姉の家で少し休憩してから、弟の家に行く事にした。

「おやつにしよう」と、姉がコーヒーを淹れてくれた。

母が人形焼を手に取って、しげしげと眺めていた。

「可愛くないよね」

 

私が最初に就職した先の最寄り駅には、大きなアーケード商店街があった。その中に重盛という人形焼の店があり、とても繁盛していた。

私も買ってみようと思ったが、人形焼という名前にしては何だか怖い顔をしている。

結局一度も買わずじまいで、30年以上も過ぎた。

明治座の土産屋で人形焼きを見つけたのは、偶然だった。あの重盛のも売っていたので、舞台を見ながら食べた。

 

土産に買って来た人形焼を食べてみると、これも不味くはないけれど、重盛の方が餡子たっぷりで美味しい。

そんな事を考えながらコーヒーを飲もうとしたら、母が

「おれのコーヒーはや?」

と言うので、姉と私は同時に「えーっ?」と驚いた。飲まないものだと思って、姉はふたつしか淹れていなかった。

「コーヒーなんて飲めるの?」

「飲みてえ」

私達は目を丸くした。母はお茶の類いが好きではなくて、コーヒーを飲んでいるところを今まで一度も見た事がない。

姉は慌てて自分の分を母に差し出し、再びお湯を沸かした。

母は事も無げにコーヒーを啜り、人形焼も葡萄も食べていた。

誰かしら一緒に居れば母は、食べられるのだろう。

買い物や、作って食べるのが億劫なだけかも知れない。

私達の誰かが母を引き取るか、施設に入れる……等と思いを巡らすものの、言えない。

母が東京に来ないのはわかりきっているし、施設も頑なに拒否するだろうから。

 

弟の家に行くと、留守だった。

母が鍵を持っているので、中に入る。

前回この家に来た時は、ロシアンブルーがいた。あの猫は行方不明になって、代わりに別の猫がいた。子猫を拾ったとは聞いていたが、もう成猫になっていた。

私は名前も性別も知らないこの猫を、追いかけ回して遊んだ。猫は、面倒くさそうに相手をしてくれた。

 

この日、姉と私は雫石のホテルに泊まる事になっていた。

母も誘ったが「◯◯(弟)の家で猫と居るのが、一番だ」と言う。

姉の車でデパートに行き、デパ地下で食料を調達した。

「さあ、今夜は飲もう!」

姉が、やたらと高いシャンパンを買った。

弟の家に戻り、買ってきたお惣菜を台所に置いて出かけようとしたら、入れ違いに弟が帰って来た。

大きな買い物袋をふたつ下げていた。

母はいつものように、しばらく弟の家に居座るつもりなのだろう。

私達は、雫石に向かった。

宿泊先の雫石プリンスホテルには、弟がゴルフコンペの賞品に貰った宿泊券で泊まる。

姉はここで何度か食事をしたり、泊まった事があるらしい。

「大きなホテルだけど、もう建物が古いし、お部屋もどうかなあ」

それでも私は、ホテルに到着すると気分が高揚した。帰省以外で、宿泊する旅行をあまりした事がないからだ。

姉にとっては、親の心配をせずに済む、束の間の休息日だった。

姉がチェックインしている間、私はロビーの辺りをふらふら歩き回った。すると、一枚のポスターに気付いた。

 

『夜の空中散歩 星空ツアー』

 

(えっ?星空ツアーって?何だろう……)

私の目が釘付けになった。ホテルは標高の高い場所にある。ここなら夜は真っ暗闇になって、綺麗な星空が見られるだろう。

「ああ、それに行きたいの?」

「行きたい行きたい。ロープウェーで山頂に上って、星を観るんだって。凄いね」

「だって、ホテルのすぐ側がスキー場だもの」

「そういう事か」

私は岩手の沿岸育ちなので、スキーをした事がない。姉は結婚してからこのスキー場に、家族で何度も来ていると言う。

「行きたいのなら行ってもいいよ。山頂は寒そうだけど」

(どうしてわざわざ星なんか見たいのか、解らないけれど)

姉はきっと、そう思っていた。そして、私がどうしてこれ程までに星に執着するのか、姉は知らない。

 

(これは、巡り合わせに違いない)

私はいつも、自分の直感だけを信じて生きてきた。当てにならない直感ではあるけれど。

 

4・5日目〜満天の星は雨雲の向こう

 

雫石プリンスホテルの星空ツアーが実施されるかどうかは、天候次第だった。

ホテルに到着した時から曇天で、このぶ厚い雲が夜には消えて欲しいと願った。

例え雲が消えなくても、頂上の空模様はここと違うかも知れないと、浅はかな期待もした。

雨雲は地上何メートルにあるのだろう。雨雲の向こうまで行けば満天の星が見られるのだろうか。

しかし、夜になると本格的に雨が降りだして、私はやっと諦めがついた。

「また、来ればいいじゃないの」

「そうだね」

 

残念ではあったけれど、星が見られると知らずに来たのだし、望みを持てたのが嬉しかった。

長年の願いを叶える事は、私が思っていたよりもずっと容易かったのだ。

生きていて、手を伸ばしさえすれば、私の星空はすぐそこにある。

 

tanpopotanpopo.hatenablog.com

 

こんな夢を見るたびに、いちいち鬱ぎ込んでなどいられない。

本物の天の川を見るのだ。いつか必ず。

 

私達は、買ってきたオードブルとワインを空けた。それでも10時過ぎにはお腹が空いた。

レストランに行くと、500円でお茶漬けが食べられるセルフバーがあった。

「こんな時間だし、少しにしようね」と言いながら、お出汁が美味しくてお代わりまでしてしまった。

体が温まってよく眠れると思ったが、そうはいかなかった。

それが姉であっても、人の気配がするだけで眠りが浅くなる。

私の睡眠は、途切れ途切れを合わせて3時間ほどで、姉も同じようなものらしい。

私達は、早朝から温泉に浸かり、朝食のビュッフェでもかなりの量を食べた。

せっかくのダイエットが、水の泡だ。それでも今この時は、二度とない時間だと思えば後悔しない。

 

 

ホテルから、父の施設へと向かった。

父は自分のベッドにいた。

 

『今度、見舞いに行った時(中略)父に聞いてみようと思う。』

 

私が書いたエッセイの最後には、この一文がある。

それを聞いてみたいとは、最早思わなかった。

去年会っている事すら覚えていない父に、今さら聞いても意味がない。

父は機嫌が良かったが、早々に引き上げたくて堪らない私は

『東京に帰ります。お元気で』

と、ボードに書いて父に見せた。

すると、父の目が寂しさをたたえたので、私はほんの一瞬だけ怯んだ。

「なんだあ、そうか。はぁけえんのが」

つまらなさそうに父が言っても、私は素っ気なくした。

「じゃあね。バイバイ」

「ほんでば、気いつけで、けえれ」

私と姉は、思わず顔を見合わせた。

 

「からださ、くれぐれも、気いつけろよ。だなさまがどうも、わらすがどうも、おめぇがどうも」

 

父の前で私達は、あからさまに動揺した。

これ以上ここに居て父に泣かれては厄介なので、急いで施設を後にした。

「あんなぁさべこど、生まれて初めて聞いたがね」

「今のはいったい何?あれがうちの親父のさべこどだーべーが?」

それは、人並みの親ならば普通の言葉、人として当たり前な、労りの言葉だった。

傲慢な父が、人に対して一度も発した事のないような言葉だった。

子どもを連れて帰省しても、虫の居所が悪ければ

「なぁしてけえってきた。小遣い銭せびりに来たぁのが」

と言い、帰る時には

「はぁけえって来なくてもいいが。出はってった者さば用はねえが」と、怒鳴るのが常であった。

私はもう、父の言葉に傷ついたりしない。けれども、これを娘には聞かせたくなかった。

だから、売り言葉に買い言葉の大喧嘩を最後に、帰省するのを止めたのだった。

「脳疾患を繰り返して、最後に穏やかな性格に変わった人の話を聞いたけれど、父も、それなのかな」

「だとしても、私達がこれまでに言われ続けてきた暴言を絶対に許せない。忘れたり、水に流すなんて出来ない」

「そうだよね……」

県内に住む姉は、自分の子供達を父に会わせていた。

父の様子を伺いながら、祖父と孫の関係を上手く繋ぎ合わせる事に配慮してきた。父に、祖父としての責任を何が何でも果たしてもらう。それが、姉の思いだった。

姉は、ごく普通の父娘を、子供達の前で演じ続けてきた。父のいる施設でも、外見は『いい娘さん』であろうとしていた。

それなのに、反抗と無視を続けてきた私と同じかそれ以上の深い恨みが、姉の中に沈澱しているのだった。

 

この後は姉の家に行き、姉の着物を見たり、デパートで買い物をしたり、美味しいラーメン屋さんに連れて行ってもらったりした。

車で盛岡駅に向かいながら、ぼんやりと考えていた。私の帰省は、雨降りばかりだと。

だから、三陸の海と空はいつだってグレーだし、満天の星は見えないし、散々である。

まるで私の人生を暗示しているかのように、この先もずっと、雨なのかも知れない。

 

そしてこれは、ただの日記。

 

 

アヒル

2017/01

 

弟が生まれた当時の事を、鮮明に覚えている。

男子の誕生とはこれ程までに大人を喜ばすのかと驚く程、弟は周囲からの祝福を受けていた。父はたいそう上機嫌で、母も満面の笑顔を見せていた。

5歳の私と2つ上の姉は、弟が出来た事はもちろん嬉しいのだが、暫くの間は蚊帳の外にいる気分だった。それでも弟のおかげで冷えきった家の中が明るくなり、普通の家庭のようで嬉しかった。

何しろこの家は、物心ついた頃から普通ではなかった。父は酒ばかり飲んで働かず、家にいれば不機嫌で黙っているか怒鳴っているかだ。夫婦喧嘩で母が暴力をふるわれるのを私達は震えながら見ているしかなかった。そして、常に父に怯えて暮らしていた。

弟の名前は何がいいかしらと、姉と私で赤ん坊の名前をあれこれと考えるのが楽しかった。でも名前はことごとく却下され、いつの間にか決まっていた〇〇という名前を私達は気に入らなかった。

そして赤ん坊のいる暮らしは母を更に忙しくさせ、私達に我慢を強いた。皆が弟ばかりをチヤホヤするので、だんだんそれが面白くないのだけれど、弟は本物の天使のように愛らしかったので仕方ないと思った。

憧れていた、温かで幸福な家庭が、確かにそこにあった。

だけどそんなものは、一瞬で過ぎ去った。

 

 

 

私の家では母が商売をしていたが、父はそれをほとんど手伝わない。そのくせ売り上げが少ないと母を詰っていた。

生活が苦しいので、母は別の場所に店を出すための準備をした。

そして、弟が生まれて1年が過ぎた冬のある日、母はどこかに出かけてしまい、私と姉と弟が家に残された。

私達は父が苛つかないよう、大人しくしていなければならない。

母がいなくて心細くなった私は、姉に何度も「お母ちゃんはどこ?お母ちゃんはまだ帰って来ない?」とべそをかいた。

私があまりにもしつこく言うので、姉はすっかり困ってしまった。もし私が大きな声で泣きだせば、妹を泣かせた罪で父にこっ酷く怒られるのだ。

「お母ちゃんを捜しに行こうか」と、姉が言い、

父と弟は昼寝をしていたので、起こさないようにふたりでそっと家を出た。

メソメソしていた私は、歩いているうちに気が紛れてきた。

けれども二人で母が行きそうな場所を捜し回っても、母は見つからなかった。

「お母ちゃん、もう家に戻っているのかもね」という姉の言葉に頷いて、私達は家に帰った。

母は家にいなかった。そして、弟の姿もなかった。

胸いっぱいに不吉な予感が拡がる。

今までにないような大きな異変が起きたのだと、子ども心に感じとった。

殺気だった父が、玄関で仁王立ちになり

「お前達は今までどこで何をしてきたのか」と怒鳴ったので

「お母ちゃんを捜しに行った。タンポポがお母ちゃんがいないって泣いたから」

そう姉が言うと、父は憎々しげに私を睨みつけた。

 

暫くすると、母が弟を抱いて家に帰って来た。

弟の手には真っ白い包帯がぐるぐると巻かれている。そして今までに聞いたことがない程の大きな声でギャンギャン激しく泣き叫んでいた。

その泣き声に負けない大声で、父は怒鳴り続けた。

「お前のせいだ。どうしてくれるのか。お前が〇〇を置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」

私と姉がいない間に目を覚ました弟は、石油ストーブの上で湯煎をしていた哺乳瓶を取ろうとして転び、火傷を負ったらしい。

ちょうどその時父は、客が来たので店に出ていたのだと言う。

本当の事なのかどうか解らない。

誰もそれを見てはいないのだから。

弟の火傷した手は真っ赤にただれ、包帯を替える度に泣き叫んでいた。

昔の、田舎の治療であるから、チンク油という白いベタベタしたものを塗りたくるだけであった。

「〇〇痛くても我慢してね。これを塗っていれば、きっと元通りの手に治るからね。」

私がそう言っても母は黙っていた。そして暴れる弟を押さえつけチンク油を塗った。

父の怒号は何ヵ月も毎日続き、この先何年も何十年も事ある毎に続く。

母は、弟のケガは自分のせいと自分を責め続けた。

私も、あの時私が我儘を言わないで留守番していたら…と自分を責めた。

もし私と姉がいる時に、ほんの少し目を離した隙にこの事故が起きていたならば、私達は父からどんな酷い目に遭わされただろう。

父は弟を溺愛していた。そしてこの事故の責任を、自分ではない何者かになすり付けずにはおれないのだった。

弟の手の治療は長くかかり、ケロイド状の火傷の痕が大きく残った。

ただれた皮膚が指と指を癒着させて、完全に開かなくなってしまった。

私はよく、弟が寝ている間にその手を触ってまじまじと見た。そして「可哀そうに。ごめんね、ごめんね」と心の中で謝っていた。

「くっついた指を病院で切ってもらおうよ。そりゃ血は出るしまた痛がるだろうけれど。」

母は「そうだなぁ」とだけ言って、悲しそうにするだけだった。

 

手に大きな傷痕を残したものの、通院の必要が無くなった頃、弟は保育園に預けられた。

母が更に長時間働くためだった。

弟は保育園に預ける度に大泣きするので母も辛いのだが、生きるためには仕方がなかった。

こんなに小さいのに預けるなんて可哀そうだと、私も思った。

それでも弟は次第に保育園生活に慣れて行った。利発で可愛い弟は、保母さん達の間でも人気者であった。

母は度々保育園のお迎えに間に合わなかったので、私が保育園まで弟を迎えに行った。

当時の私は小学校低学年で、今思えば私の親はネグレストだった。

保母さん達からは「えっ?お姉ちゃんがお迎えなの?大丈夫かな?」と言われたが、何故そう言われるのか解らなかった。

弟の帰り支度を待つ間、廊下に張られた園児たちの写真を眺めた。

何かの行事の写真なのだろう。壁にびっしりとある写真には、弟がたくさん写っていた。

弟のアップ写真が他の子達よりもやたらと多いのだ。

私が学校行事でメインになる事は皆無であったから、私の写真はケシ粒のような私が写ったのが2,3枚あるくらいだったので驚いた。

それを母に伝えると

「そうなのよねぇ。いつも保母さん達がね、〇〇をいっぱい撮ってくれるから写真代も高くなって。」

とまんざらでもなさそうに言った。

やっぱり顔が可愛いのは得だ。世の中平等ではないのだ。私も姉も不細工なのに、どうして弟だけがこんなに可愛いんだろう?と不思議であった。

私と姉は醜いアヒルの子。きっと、いつかはきれいな白鳥に…

 

なれるとは到底思えなかった。

 

 

続く

 

 

 

 

私が母の代わりに保育園にお迎えに行くと、弟は必ず不機嫌になって泣いた。

タンポポは嫌だ。お母ちゃんがいい。」

「お母ちゃんは忙しくて来られないの。だから我慢して。」

「嫌だ嫌だ。お母ちゃんでなきゃ嫌だ。」

ぐずる弟を引き摺るようにして、私は弟を連れて帰った。言い聞かせても手に負えないので、作り話をして弟の気を惹いた。

「〇〇が欲しがっていた仮面ライダーのオモチャをね。お母ちゃんが買いに行ってるの。だから、早く家に帰ろうね。」

「えっ?そうなの?」

弟は、大きな目を輝かせた。  

保育園児の足で30分かかる道のりを、弟はご機嫌で歩いてくれた。もちろん私は良心がほんの少しだけ咎めた。

家に着いて嘘がバレると、弟は火が付いたように泣いて暴れた。それでも私は無事に弟を連れて帰りさえすれば、後はどうでも良いのだった。

オモチャ作戦は、3度目には効果が無くなった。

私の作り話は次第に、演技力と巧妙さを増していく。

「今日は、〇〇の誕生日だよ。知らなかった?お母ちゃんが大きなケーキを買って来るって。あ、〇〇にはまだ内緒だった。」

「えっ?今日は僕の誕生日なの?やったー!」

「ケーキ楽しみだね。早く帰ろう。私から聞いたって言っちゃダメだよ?」

「うん。言わない。」

もちろん家にケーキなどあるはずがない。床にひっくり返って大泣きする弟を母が

「明日ケーキを買って来るからね。」と言ってなだめ

「全く、タンポポは適当な事ばかり言って」と睨むのだが

「仕方ないでしょ。こうでもしないと、お母ちゃんでなきゃ嫌だって泣くんだから。」と開き直っていた。

そのうち弟にも知恵がついて、オモチャ作戦も、誕生日作戦も効かなくなった。

それからは私が読んだ本の話をしてあげた。その頃の私は戦争や原爆の本を読んでいたので、学童疎開とか配給とか自分も知らない世界なのに、弟に解る易しい言葉で話して聞かせた。

「戦争中は食べるものがなくて、皆がお腹を空かせていたんだって。」

「そうなの?」

「布団の中で、お家に帰りたいって泣いていたんだって。」

「可哀そうだね。」

「クウシュウケイホウが鳴ると、ボウクウゴウっていう穴に逃げるんだよ。そこは狭くて中が真っ暗なの。」

「ボウクウゴウに入るの、怖いなあ。」

そんな話をしているうちに、家に着いてしまうのだ。

年長になるとぐずる事も少なくなり、自分から「何かお話をして。センソウの話がいい。」等と言うようになった。

私は物語を適当にアレンジして、30分興味が続くように話を盛った。

私の嘘が上手いのは、このお迎えの作り話で上達したのだと思う。

それから、弟が保育園から持ち帰る絵本を家で読んであげるのも、私の仕事だった。

弟はあっという間に平仮名とカタカナの読みを覚えてしまったので、カレンダーの裏を使って書き方も教えてみた。すると、それもすぐに書けるようになった。

弟が賢い事を母に伝えると、母はとても嬉しそうにして

タンポポは教え方が上手だね。〇〇に算数も教えてあげて頂戴。」

と言った。

私が6年生の時、弟が小学校に入学した。

この一年間だけ私は弟と一緒に登校したが、下校時間は別々だった。これ程の年齢差があると、放課後に外で一緒に遊ぶ事はなかった。

 

 

家庭の中は相変わらずで、絵に描いたようなちゃぶ台返しをする父がいる限り、平穏はなかった。荒んだ家の中で、私達きょうだいの心はそれぞれ少しずつ蝕まれていく。

母の商売はとてもうまく行き我が家は少し裕福になっていたが、父はそのお金でギャンブルにのめり込んだ。

母は早朝から働きづめに働いて、身体を壊してもまだ働いた。

ある時母は何かの手術をして床に臥せっていたが、何の病気なのか聞いても絶対に言わなかった。本来ならば入院すべきところを、家をあけられないと言って家で寝ていたのだった。

そして、少し元気になればまた働いた。

ほったらかしにされる私達は、周りの友達より多めのお小遣いを貰った。でも弟は更に特別扱いだった。

私には安物しか買ってくれないのに、弟が欲しがれば驚くほど高価なブランドのスニーカーでも買ってあげるのだった。

そういえば、弟が保育園に入った頃から母は、弟にだけはいくらでも玩具を買い与えていた。

だから家には弟の玩具が山のようにあった。それは、母の後ろめたさがそうさせたのかも知れない。

成績優秀な弟は、父の自慢でもあった。

自分は高等小学校しか出ていないのに「〇〇は俺に似て頭が良い」と、得意になって人に言いふらしていた。

そして勉強も運動もパッとしない私と姉は、弟と比較されて𠮟られた。

私は読書感想文や、写生コンクールでいつも表彰されていたが、父に褒めてもらった事は一度もない。

それどころか私が絵を描いたり本を読んだりしていると

「そんな事は何の役にも立たない。勉強しろ。弟より劣る成績で恥ずかしくないのか。」

と延々と説教をするので、私は祖母や従妹の家に逃げこんで、そこで好きな事をしていた。

 

私が高3の年に、弟は中学生になった。

そしていつの頃からか弟は、家の中で無口になった。

思春期だから、男の子だからそういうものだと思っていた。

母は30代後半で弟を産んだが、苦労の分だけ年齢よりも老けて見えた。

弟がまだ小学生の時、参観日に母が弟の教室に入ると

「〇〇んちは、お婆さんが来たな。」と言われたらしい。弟はそれが余程恥ずかしかったのか

「学校にはもう二度と来るな」と言い、母は酷く落ち込んだ。

学校行事の度に来るなと言うので、母は行きたくても行かれない。

男の子の反抗期って大変だなと、私は思った。保育園の時にはお母ちゃんでなきゃ嫌だと泣いていたくせに。

弟は学校の話をほとんどしなくなり、聞いても煩いと嫌がった。

放っておけばいいものを、母はやたらと知りたがり、私にまで「〇〇に学校の様子を聞いてみてくれ。」と頼むのだった。

当時、日本中で校内暴力が問題となり、姉と私が在学中には平穏だった中学校でも警察沙汰になるような事件が起きた。弟はその渦中にいた。

私が聞いても弟は何も言わなかった。その時何か問題を抱えていたとしても、母や姉になど話すわけがない。

成長した姉も私も弟も、お互いの事を全く気にしていなかった。弟は優等生だが大人し過ぎるわけでもない。不良達には関わらず上手くやっているのだろうと思った。

私はこの家からどうやって逃げ出そうかと、自分の事だけしか考えていなかった。

 

私が就職で上京した数年後、姉も結婚して家を出た。

高校生になった弟一人だけが、あの親と暮らすのは地獄であっただろう。

けれども私は上京してから殆ど実家に帰らず、弟と接する機会が無くなっていた。

 

 

 

続く

 

 

 

 

私が実家を出てから弟に会ったのは、姉の結婚式、そして私の結婚式の時だけだった。大学受験を控えていた弟はますます暗く、話しかけてもろくに返事もしない。

弟は父に反発し、父との溝はかなり深まっていた。だけど実家を出てしまった姉と私には、最早どうする事も出来なかった。

家庭内での悲惨な事件が報道される度に、私は他人事と思えず不安に陥った。

弟が父に逆ギレをして、あるいは母が、長年の恨みが積もり積もってニュースに流れるような事件をいつか起こしかねない…

自分だってあの家にまだいたならば、何をしたか解らなかった。だからこそあの家を出たかったのだ。

私は、遠く離れた実家の悪夢を見て目覚めては、憂いに沈んだ。

 

受験した弟は、超難関の大学に合格した。

大学の入学式には父と母が揃って上京し、私も案内役として付き添った。

桜の花びらが降りしきる、少し風の強い日だった。青く澄んだ空がとても美しかった。

両親は晴れやかな笑顔で「○○は凄い。本当に大したものだ。よくやった、よくやった。」と、大喜びした。

父も母も、私や姉の結婚式よりもずっと嬉しそうだった。そんな二人の様子を見て、私も幸せな気持ちになれた。

 

こんな日が訪れるなんて、まるで夢のようだ。

 

私は弟に心から感謝した。

もしかしたら、父と母はこの幸せのままで、穏やかに余生を暮らしてくれるかも知れない。

 

弟は私が住んでいた隣の区に部屋を借りて、大学生活を始めた。

私は娘が生まれ、育児に追われた。

近くに住んでいても私達は、殆ど行き来をしなかった。

夫の弟が大学生だった頃、義弟は隣の県で一人暮らしをしていたが、時々うちに来て私の作った晩御飯を食べたり、泊まっていったりした。

でも弟は人付き合いが苦手で、誘っても絶対に来なかった。

理由は忘れてしまったけれど、たった一度だけ弟がうちに来た事がある。

当時住んでいた狭いアパートで、弟は娘と初めて対面した。最初は乳幼児をどう扱っていいのか解らずに戸惑っていたので

「オモチャで遊んだら?」と言うと、二人は一緒に積み木遊びを始めた。

ぎこちない様子で少しはにかみながら、娘の相手をする弟。

私は笑いたいのを堪えながら、二人が遊んでいる姿をカメラに収めた。この写真を母に送ってあげたらきっと喜ぶだろう。

弟が積み木を高く積み上げるのを見て、娘は目をらんらんとさせた。やがて積み木はバランスを崩し倒れてしまう。

積み木が飛び散って大きな音をたてると、娘はキャーと大喜びした。そして

「もう一回ね。」と、弟に催促した。

娘が弟に積み木をひとつづつ渡し、弟が高く積み重ねていく。やがて崩れて「もう一回」を何度も何度も繰り返した。

弟は私に「これいつ終わるの?」と聞いたので「終わらないよ。永久に。」と言うと「マジで?」と絶望の色を浮かべたので、ますます可笑しかった。

 

そして私も、一度だけ弟のアパートに行った事がある。

弟の留年が危ぶまれ、心配した母が私に弟の様子を見てくるよう言ってきたからだった。

私は「部屋が汚い」と文句を言いながらその辺に座り込み、それとなく大学の講義や試験、サークル活動等、生活の様子を訊ねたが、弟は相変わらず話したがらない。

やっと合格した憧れの大学なのに、どうやら弟は真面目に通っていないのだった。

私は雑然とした部屋の中に不似合いな、可愛いオルゴールを見つけた。すると弟は、しまったという顔をした。

「何これ可愛い。大事なもの?」

弟は最初は口ごもっていたが、それは高校の時に彼女から貰った物だと白状した。

私は、弟に彼女がいた事にかなり驚いたが、平静を装ってあれこれと聞いた。

その彼女とはそれほど長くは続かなかった事、今は誰とも付き合っていない事が解った。

「フーン。じゃあこれ貰ってくね。」と言うと、弟は躊躇していた。

「だってもう別れたんでしょ?いらないよね?前の彼女の物をいつまでも残しておいてもしょうがないし。もしかして、まだ好きなんだ?」

「それはないけど…」

「貰おうっと。」

私が娘にオルゴールを渡すと、娘は無邪気に喜んだ。それを見て弟は

「まぁ、いいか」と観念した。

そして、私も大学の様子が見てみたかったので、もうじき開催されるという学園祭に連れて行くよう迫った。弟はそれもあまり乗り気ではなかったのだが、強引に約束を取り付けた。

 

学園祭は想像以上に賑やかで楽しかった。サークルが出す模擬店がたくさん並び、お祭り騒ぎの学生達。

弟は、このノリについていけないのだろうか。

漫研のブースを覗くと個性的なファッションの女子学生が似顔絵描きをやっていた。娘を描いてもらうと、短時間でサラサラと可愛く描いてくれた。

広々としたキャンパス。歴史と風格のある校舎。

「いいね大学って。どこでもいいから私も入りたかったなぁ。」

私は思わず呟いて、すぐに

「ま、私の成績じゃどこにも入れないけどね。」

と笑った。

ベビーカーを押しながらのんびりと歩いていると、女子の学生集団とすれ違った。彼女達はこちらを横目で見ながらヒソヒソと何だか嫌な感じだった。

「今の、私達の事を勘違いしてるよね?」

「きっとそうだ。うわぁ…」

弟は、今までに見た事がないほど狼狽えた。私は笑い転げながら内心(子連れはまずかったかな…)と思った。

今であれば学生結婚など少しも珍しくないだろうけれど、当時はあまりいなかったかも知れない。それに私達は、れっきとした姉と弟である。

私はキャンパスの雰囲気に満足し、早々に帰ることにした。別れ際に

「ちゃんと卒業してよ。せっかく入ったのだから。」と言って。

弟は、何とか大学を卒業出来た。

希望していた東京での就活は面接で上手くいかず、地元での就職だった。

 

 

それから私は自分の生活に追われ、実家をあまり顧みなくなる。

体を壊し心も病んだ私は、一日づつを必死に生きているうちに長い歳月が過ぎた。

本当に、あっという間だった。

そして、東京で勤務していた姪の結婚が決まり、東京で式が行われる事になった。

奇しくも結婚式会場は、弟が卒業した大学の最寄り駅にあった。

弟は、変わってしまった風景と、変わらずにあるものを見つけては懐かしそうに眺めていた。

弟に会うのは大学の卒業式以来であった。私も弟も、お互いの変貌ぶりに驚愕し、腹を抱えて笑った。

この時、娘は二十歳になる直前だった。娘は弟を「この人は誰?」と、不思議そうに見ていた。

積み木で遊んだあのチビすけが、いつの間にこんなに大きくなったのかと、すっかりオッサンになってしまった弟が目を細めて笑っていた。

 

 

 

 続く

 

 

 

何が起ころうと、父と母の修羅は終わらなかった。

いくら私達が、小さな積み木を積むようにして家族の歴史を重ねても、父はそんなものと言わんばかりにぶち壊し、全てを台無しにした。

この修羅はきっと、二人の命ある限り続く。どちらかが逝った後にも残った親が、私達の足枷となって生きていく。

諍いを母から聞かされる度に、私はストレスで具合を悪くしていた。それは、姉も同じだった。

でも弟がどんな気持ちでいたのか、私達には知る由もない。

 

足が不自由な父は姪の結婚式に来られず、父以外の親族が東京に集まった。

その4か月後に、東日本大震災が起きた。

生まれ育った町も激しく揺れ、大津波が何度も容赦なく襲う。

河口近くの川沿いにある実家は恐らくもうダメだと、私は覚悟を決めていた。

母は、足の悪い父を置いて逃げたりはしない。

テレビを食い入るように見ながらなす術もない私に、姉からメールが来ていた。

「どこもかしこもメチャクチャで、まるで原爆でも落ちたかのよう。今から車で実家に向かう。」

実家に向かう?やめて、やめて。

東京でさえ、まだこんなに揺れているのに。

その後、弟からもメールが届いた。4か月前にメアドを交換して、これが初めてのメールだった。

「家は無事、父も母も無事」

 

父も母も、無事…

 

私は、床にへたり込んだ。

私は弟に「姉も家に向かっている」と返信した。すると

「国道が崖崩れで通行止めだから、引き返せと連絡して。」という返事が来た。

仕事の関係で弟は、いち早く被災地入りして実家の前を通り、安否確認が出来たのだった。

けれども、姉からはしばらく返信がなかった。姪からは

「お母さんと連絡がつかなくなった」と、泣き声で電話をしてきた。

「大丈夫。通行止めで沿岸の方には近づけないみたい。もうすぐ戻って来るから。」

姉の携帯は、電波が届かなかっただけだった。姉は実家に向かうのを諦めて自分の家に戻り、弟からの報告に安堵した。

 

 

それにしても姉と弟はこんな時、真っしぐらに親の元へと向かうのだ。私にはそれが衝撃であった。

暗い山道を、車で2時間も走らなければならないのに。大きな余震が続いていて、無事にたどり着けるかどうかさえ解らないのに。津波にのまれるかも知れないのに。

 

あんな親なのに。

 

故郷は甚大な被害を受け、知人が津波に流されて亡くなった。それなのに父は、自分の生き方を省みる事なく、傍若無人な振る舞いを続けた。

犠牲になった人を侮辱するような言葉まで吐くのだと母から聞き、父を心の底から軽蔑した。

東京の知人達は、実家の無事を喜んでくれたが

「うちは無事じゃない方が、良かったの。」

私はそう口走っていた。それを聞いた知人達が呆れて、私を軽蔑しても構わなかった。

 

震災の後、私は思うところあって、ずっと帰らなかった実家に年に一度は帰省すると決めた。そして弟の休みが合えば、実家まで車を出してもらったり、ご飯を奢らせたりした。

それまでの私達は、互いの距離の置き方が解らなかった。

皮肉な事にあの震災が、私達は家族だったと気づかせてくれたのだ。

そして、昨夏に帰省した時の事だった。

母と弟と私とで外食に行った。頼んだものが出来上がるのを待つ間、弟が唐突に手を差し出して私に見せた。それも、火傷をした方の手を。

「俺、この手を手術した。」

「えっ?そうなの?」

弟が自ら手を見せたのは初めてだった。私は動揺し、差し出されたその手を直視出来なかった。

今の形成外科学でも、この程度なのか。ケロイドはまだ残っていて、すっかりきれいに治ったね等とはとても言えない。

弟は見た目ではなく、癒着していた指と指が離れた事に満足していた。そして、癒着により曲がっていた指が、少し伸ばせるようになった。でも、完全に真っ直ぐには伸ばせないのだと悔しそうに言った。

弟は、火傷の痕をずっと気にしていたのだった。

手に大きな傷痕があっても、弟は勉強も運動も出来て器量も良い。世の中にはハンデのある人が大勢いるけれど、弟の手は機能していて出来ない事は何もなかった。

だから、弟はこの傷痕を受容しているものと思い込んでいた。

昔、手術の話を持ちかけると「手術は絶対に嫌だ。このままでいい。」と泣いたのは、子どもだったから怖かったのだろう。

弟が成長してからは

「〇〇の手が可哀そう。手術してあげなさいな。年頃になって女の子と手をつなぐ時に恥ずかしくないように」等と、伯母が母に言った。

それを聞いた私は憤慨した。

何も恥ずかしくなんかない。反対側の手を繋げばいいじゃないの。それよりも、あんな手だからと繋げないような相手なら、こっちからお断りだ。

母は何度も手術の話をしていたが、弟は頑なに拒んできたのだった。

 

弟は今も独身で、一人で暮らしている。

母の関心事は、弟の結婚だけだ。

なぜ結婚しないのか、結婚したいような相手がいるのかいないのか、自分が聞くと怒られるからタンポポから聞いてみてと、煩くて仕方がない。

数年前までは

「どうしてだろうね。お付き合いした人は何人かいたみたい。だけど、なかなか結婚までには至らないねぇ」等と話し相手をしてあげたが、何年も繰り返すこの話題にウンザリした。

「もういい加減に諦めたら?結婚なんか今更しなくても、独身貴族でいいじゃない。別れる人も多いのだし、別れないで長年不幸な人がここにいるでしょう?」

と、皮肉を言っても通じない。

「どうして結婚しないのかなぁ。私とお父さんがいるから出来ないのかなぁ。」

と言うので

「そうね。それが一番の理由だろうね。」と言ってやった。

そうすると、タンポポは冷たい。姉もきつい。やっぱり〇〇が一番可愛いと周りに言いふらすのだった。

実の娘でさえあんな父とは一緒に居られないのに、お嫁さんと上手くいくはずがない。弟はきっと、お嫁さんの苦労が目に見えているから結婚に踏み切れないのだろう。

家庭の築き方が解らないのかも知れない。或いは、父親になりたくないのかも知れない。

私がそうだ。結婚しても家族関係が上手くいかず、理想の親にもなれなかった。

でも母は諦めきれずにいた。

ある時「見てご覧」と言って、真珠のネックレスを私に見せた。

「これは、商売で儲かっていた頃に買っておいたもの。」

「フーン。それを私にくれるの?」

「とんでもない。これは、いつか〇〇のお嫁さんにあげるんだから。」

私は少々苛ついた。

「あっそう。私、持っているから要らないし。お嫁さんだってもっと良いものを持っているかもね。それにお嫁さんって、全然当てもないのに。」

「これをお嫁さんにあげるまで、私は死ねない」と言って、母は笑っていた。

 

実家の父と母には殆ど会話がない。沈黙か、父の罵声があるだけだ。私は母が認知症にならないよう、時々電話で話すようにしている。

先日もまた弟の結婚の話になって、私はそれを遮った。

「そういえばさ、〇〇が保育園に入ったの何歳?」

私はこの頃、昔の記憶が定かではない。でも母は、昔の事ならばよく覚えているのだ。

「2歳と9か月だった。本当はあと3か月、3歳までは預からないと言われたけれど、無理にお願いして入れたの。私がどうしても働かなければならなかったから…」

「そう。」

「私はね。たくさんの失敗をしてきたの。失敗だらけの人生。タンポポに全部教えるから、そのお話を書いて頂戴。」

「うーん。取りあえず聞かせてみて。」

すると母は、堰を切ったように昔の事を話しだした。

弟が保育園に入って、初めてのお遊戯会。開始時間は11時なのに、母は1時からと勘違いをした。

弟のお遊戯を見るのがとても楽しみだった。きちんとお化粧もして着飾って、まだかまだかと時計を見ながら待ちかねて保育園に行ってみると、もうお遊戯会は終わっていた。

弟は保母さんの膝にチョコンと座り、母が来るのを待っていた。そして保母さんが

「〇〇ちゃんは、とっても上手にお遊戯をしましたよ。」

と、母に言ったそうだ。

(なんて馬鹿なんだろう)と思ったが、黙って聞いていた。

「それから、あの火傷の時も…」と母は続けた。

私は、あの日の事はよく覚えているので、あまり聞きたくなかったのだが。

母が病院に駆け込んで、医者に弟の手を見せた。すると

「親指以外の4本の指を、切断する事になるかも知れません。」と宣告された。

それを聞いた母は膝がガクガクと震えて、立っていられなかった。

「そうだったの。でも、切断にならなくて良かったね。」

母は、そこにいた看護婦に酷い言葉を浴びせられたらしい。その事が今でも悔しくて、憎くて仕方がないのだと言った。

タンポポは知っていた?〇〇が、あの火傷の手で苛めにあっていた事を。」

「そうなの?知らない。〇〇を苛める子がいたの?」

母も、全く知らなかったのだ。

弟の通う中学校が荒れて事件が起きた時、緊急の保護者会が開かれた。

あまり学校に行かなかった母も、その会には出席した。そして、同級生のお母さんから当時の話を聞かされ初めて知ったのだった。

 

弟が小学5年か6年の頃だと言う。

学校から帰るといつも外に遊びに行っていたのに、何故か家の中でゴロゴロとしている日が続いた。おかしいと思い、どうして遊びに行かないのか聞いたけれども、弟は理由を話さなかった。ちょうどその頃に、苛められていたのだ。

 

縄跳びの紐で体を縛られ、廊下を引きずり回されていたらしい。

ヒル、アヒルとあざけって… 

 

苛めっ子は、嫌がる弟に「手を見せろ」と迫った。

指と指の間が薄い皮膚でくっついているのがまるで水かきのようだから、アヒルなのだと。

 

私は悔しくて、涙がぼろぼろと落ちた。

どうして弟は何も言わないのだ。そんなに頼りにならないのか。

その頃の私は高校生で、学校から帰るとすぐに自分の部屋に籠っていた。姉は実家から離れ寮生活をしていた。

もしもあの頃に苛めの話を聞いていたならば、私がそのクソガキをぶっ飛ばしてやりたかった。

悔しい。許せない。苛めた子が。自分自身が。

 

私はこの話を自分の心だけにしまっておけず、すぐに姉にも電話をした。

「なんて酷い事を…」と、姉は絶句し、きっと泣いていた。

 

私は今でも家族というものが解らない。

家族の作り方が解らない。

あの家は歪で脆く、家族とも言えないものだと思う。

それでも私達は、家族なのだ。

どんなに逃げ出したくても、無い事にしたくても、消えない家族。

よろよろぶざまな、アヒルの家族。

 

今度の帰省でも私はまた、あの家と対峙する。

母からどんな話を聞かされても、これからは決して涙を見せたりしない。

 

 

 

END