あめゆきをとって

仮題と下書き

朝の方言詩⑩

「白鳥」


むがーし むがし
オラ まるーで やせひんがりで
背も まるーで とぺんこで
学校では 
いるんだが いんねんだが
わがんねーよーな ワラスだった
外で遊ぶのも 好ぎでなくて
休み時間には 教室でひとり
絵っこ描いでだった
きかねえワラスに 悪口されて
泣ぎっつめ けーでばーりだった
そんなオラさ おっかぁは
いっつも こう さべってだった

悲しいときには 上を向げ
悔しいときには 空を見ろ

誰の歌ッコの歌詞だあべ
次の日も 学校で泣きたぐなって
言われだ通り 上を向いたども
涙は さっぱり止まんなくて
なーどもなんながったあ

大人になって
東京さ行って
泣きたぐなって 空ー見だーども
東京の空は スモッグでまるーで汚なくて
ますます泣きたぐなったったー

東京暮らしも ゆるぐながった
オラ 岩手さ帰って来た
40年ぶりの岩手の空 
キレイだなぁって 見上げでだっけば
いっぺぇ 白鳥が飛んで来たった

悲しいときには 上を向げ
悔しいときには 空を見ろ
白鳥も 頑張って 飛んでだぁが
おめさんも 負げねぇで 頑張っとがん
って
おっかぁの声が 聞こえだった
 

 

白鳥/ひと粒の種

2024/03/12 IBC radio 朝の方言詩 (OA)

 

大好物の餅のこと

今週のお題「餅」

 

自分よりも餅好きな人を知らない。

餅は大好物だ。

個包装の餅を常備している。

(サ◯ウのあれとかね)

 

偏食で少食だった子供時代にも、餅ならば5つ6つペロリと食べていた。

実家の餅は、父の本家に貰いに行くのが年末の恒例。

本家は山奥にある農家で、広い田んぼと畑があり牛と馬と鶏、吠える犬と懐かない猫がいた。大きな臼と杵で、何升搗いただろうか。父の兄弟姉妹は8人もいて、一族分の餅を搗くのだから本家とは大変なものである。

父が餅をつくのを見た記憶はないので、たぶん父は搗かずに他の兄弟にやらせたのだろう。私は伯母が搗きあがった餅を丸めてお鏡にしたり、のしたりするのを見ていた。

温かくてふにゃふにゃな餅を貰って帰っても、すぐには食べられない。

翌日か翌々日、餅が冷えて固くなると、包丁で切るのが父の仕事だった。東北沿岸北部の餅は、切り餅である。妙に几帳面な父は、きっちり大きさを揃えて切る。

切った餅は箱に並べて、暖房のない廊下に置かれる。私はそれを好きな時に、ストーブの上で焼いて食べるのだ。

餅は膨らみバリッと割れても目いっぱい膨らませてから醤油皿にジューと付ける。

海苔を巻いてもう一度、さっと炙る。

この香ばしい海苔餅をおやつ代わりにいくつも食べて、晩ご飯は要らなくなって、よく叱られた。

 

母のお雑煮は、鶏肉に牛蒡、人参、大根など根菜と三つ葉の入った醤油仕立ての汁に焼き餅を入れる。そして、摺った黒胡麻や胡桃の甘いタレに、雑煮の餅をつけて食べる。

私はこれが気に入らなくて、お雑煮の餅は汁の味で食べたいし、胡麻や胡桃の甘いタレは焼いた餅につけて食べていた。

本来の食べ方も美味しいと思ったのは、かなり歳をとってからだった。

 

 

まだ10才になる前の事、祖母と母と私のきょうだいとで年末年始に湯治に行った。

お湯が良いのか知らないが、大勢の湯治客で賑わっていた。

しかし温泉の他には本当に何も無く、電波も届かない山奥の湯治場だった。

食事は共同のかまどで自炊。材料の調達も大変だったかも知れない。豆とか山菜を煮たものとか、偏食の私には食べられないものばかり。

ここで我儘を言ってもどうにもならないと悟った頃、私は発熱した。

(体の弱い私を)連れてこねえばよかったなぁとか、困ったなぁ、帰ったらおどっつあん(父)さ怒られるなぁと言って、母はおろおろしていた。祖母はどこからか調達した苦い薬を私に飲ませた。

せっかくの旅を台無しにしている自覚はあったが、自分ではどうにもならなかった。

私は生まれつき扁桃腺が大きく腫れていて、そのせいで食が細く年中熱を出していたのだ。

熱がやっと下がり食欲も出てきた頃、母が何か白くて四角いものを煮ているのを見た。

私はそれが餅だと思い込んで喜び、出されたものが高野豆腐の煮物だったので落胆し、めそめそ泣いたのだった。

 

何のオチもない餅の話ばかりで申し訳ないので、そろそろ終わりにしようと思う。

 

結婚して、義母の作ったお雑煮を初めて見た時は衝撃的だった。

これは、手抜き?それとも気に入らぬ嫁(私)への嫌がらせか?と内心穏やかでなかった。

お澄ましに白い丸餅、柚子が一片。

それが、夫の家(というか、この地方)のお雑煮なのだった。

夫の親族がしつこく聞くので、実家のお雑煮について話したら、暫くの沈黙の後、あれやらこれやら具材が入ることに全員が批判的であった。

品がない、とか田舎くさい、とまでは言わないものの、奥歯にものが挟まった言い方をした。

(ふん、嫌な感じ!上品ぶりやがってさ‥)

 

こんな私でも、干支を5周もすればようやく、やっと解った事がある。それは

焼かない白い丸餅も

こんがり焼いた角餅も

どちらも正しくて、どちらも美味しいという事。

私は、元旦には婚家風のお雑煮を

2日には実家のお雑煮を作っていたが、次第に面倒になり、両方をミックスしたオリジナルに変えていった。

美味しかったよ?

めでたしめでたし

 

とはならずに結婚生活は破綻したけどな!

 

 

 

 

紅白?

まるで違う環境と文化で育つのだから、うまくいくわけないじゃんケッコンなんてさ。

うまくいくのは、どっちかが我慢しているか両方が我慢しているか、相手方の文化をちゃんと尊重してあげられるかどうかだよ。

うちはアタシが我慢していました!

たぶんあっちは何一つ我慢なんかしていなかった。いや、少しはしたのだろうけどほんのちょっぴりだろアタシはむちゃくちゃ我慢した!我慢して我慢して我慢して我慢してブッチーンした結果がこのザマよ。

 

なぜいきなりこんなに荒れてるかって?

酔ってるから。

雪っこひと缶でベロンベロンになる女だよアタシは。

雪っこ最高〜!

何だっけ‥そうそう、我慢ね。

 

(元)夫の家系図はとても複雑で、私はこれを何となくは理解したが自分の親には理解不可能だろうし、ムダに心配かけるだけだから言わない方がいいと思った。実母が心配するから話すなと義母からも実際に言われたし。今思うと、テイのいい口止めだな。

面倒だから省略するが、〇〇家の養女だった義母が急死してから、義父や(元)夫が〇〇家の相続人の地位を失うまで、本当にあっという間だった。

私はこうなる未来を予測して、(元)夫と義父に幾度も忠告したのだけれど、ふたりは全く意に介さなかった。

私達が〇〇家を追われた直接の原因は、義父が再婚したからだが、例え義父が再婚をしていなくても私達は、〇〇家から縁を切られるのは必至であった。そして私は(元)夫や義父が正当な法定相続人として祖父の遺産を受け取れるように、嫁の努めを果たしたつもりでいたが、全く足りず全くの無意味であった。

(元)夫は義父と再婚相手のせいだと言い、義父は私達のせいにして親子関係は破綻した。

何億円も入るわけじゃなし醜い相続争いの末、僅かな金額を受け取った(元)夫はヤケになって、その金を中古マンションの頭金にした。

ずっと祖父から「家はお前にやる」と言われて育ったのに、風流な茶室に庭園まであるその家は、ハイエナの如く集まってきた親類のものとなったのだ。

義母は、私から見ても我慢の人だった。

〇〇家の祖父母に対し、養女である義母は痛々しいほど気を使っていた。

義父とは社内恋愛で、〇〇家への婿入りが条件で結婚を許された。

厳格な祖父母と奔放な義父は折り合いが悪く、義母は心労が絶えなかったのであろう。

書いて辛くなったのでもう止める。

私とはもう関係のない人たち。もうこの世にはいない人たちの事だから。

そうだお題。

紅白といえば、私はこの数年間、たったひとりで紅白を見ていた。

(元)夫は大晦日から元旦にかけて、どこのバカな店か知らないが、コロナ禍の営業自粛の時でも密かに開けていたスナックで年越しをしていた。

娘は友達とカウントダウン&元朝詣り。

私は寂しかったんだ。

普段は見ないNHKをつけて、テンプレートのような歌合戦をぼんやり見ていても、正月気分は年々薄れてゆくばかりだった。

と、ここまで書いて、お題が紅白歌合戦ではなく鍋合戦である事に気づく。

何だよ鍋合戦って!(# ゚Д゚)

鍋はフグが好きでした(過去形)。

すっぽんも、美味しかったな。

 

 

 

 

 

 

今週のお題「紅白鍋合戦2023」

喫茶 ひと粒の種

NHK短歌10月号の「うたびと横丁」というページに、私のお店も開店させていただきました。

 

これは読者が、1/3ページを自由に使って短歌のお店を開くという、一風変わった企画なのでした。

何しろどのようなお店にしても、オーナーの自由との事なので、私は文字数の許すかぎりの歌を連作にして載せたいと考えました。

連作は10首ほどを詠みましたが、前書きと7首で文字数いっぱいでした。

なので7首自選し、あとは編集のほうで数首はカットされるのだろうと思いましたが、全て掲載されていたので良かったです。

 

連作「喫茶 ひと粒の種」は、私が18歳の実景を歌にしたものです。

上京した私は直ぐに穢れていきましたので、本当は無かった事にしたい過去ですが、忘れる事も美化する事も出来ず今に至ります。

数年前、その場所はもうすっかり変わってしまったのを確認したのに、亡霊のような記憶がどうしても消せないのです。

さびれた商店街、長い長いアーケード、古の昭和‥

歌にすれば昇華してくれるかも知れない‥

一縷の望みをこめました。

店名がどうしても決められず、何なら実在した店名そのままつけたろか‥とも思いましたが、無難に筆名にしました。

気まぐれに筆名がたくさんあるのも困ったものですが、今回は役に立ちました。

 

 

 

 

喫茶 ひと粒の種

 

1980年代、東京のとある商店街に実在した、喫茶店の歌を詠みました。いつしか商店街は寂れ、店は無くなりましたが、色褪せた記憶が今も私を苦しくさせるのです。

 

不倫する人が呼び出す喫茶室うすい珈琲ソファーは合皮

 

テーブルにある占いの丸いやつ百円ぽっちの恋の顛末

 

ソーダ水の中はなんにも通らずに偽物色のチェリーがひとつ

 

禁煙じゃないから店は臭くってナポリタンだけは美味しかったね

 

どの顔も仮面をつけて舞踏会バブルの波に乗れない人も

 

古のインベーダーが半世紀生き延びている茶店のテーブル

 

懐かしくはなくてただただ恥ずかしいだけの昭和がまだ此処にある

 

NHKテキスト「NHK短歌」10月号P50 掲載

 

 

ありがとうはてな

私がブログを書く理由は、書きたいからとしか言いようがない。

つまり、誰かに読んで欲しいとか、誰かに何かをお届けしたいとか、一切思っていない。

だからアクセスが一桁でも、どうして読んでもらえないのムキーと憤る事もないし、何かの悪戯で大量アクセスがあると、恐ろしくて震えてしまう。

そんな誰にも読まれなくても構わないブログを、何故書くのか。

それは、自分の「書きたい欲」を満たすため。ただそれだけのために書いている。

以前は、特定されないように書こうとか、知り合いに迷惑がかからないように等と、ブレーキをかけていた。

父を蔑んで書いた文章を、推敲して公募に出したら受賞した事がある。

母に謝ると

「なぁーに、書いてもいいが。親父の悪口でばおらもいっぺぇ書きてぇ事があんが」

と笑った。

しかも、その受賞した文章を、父に読ませようとしていた。

その頃父は入院していて、認知の方も怪しくなっていたから、読んでもどうせ内容はよくわからない。受賞した事はたぶん理解して、喜ぶだろう。と母は言った。

そんな母も父も、もう死んだ。

書いて良かったな‥

読んでもらえて、良かった。

今ならば、そう思う。

 

公募に出す文章は、読んでもらうための文章だ。

小学校で、学年で一番小さく何の取り柄もなくて目立たない私が、作文だけは褒められた。

それから私は学校で、作文の上手な子として生きるために、小さな小さな作家になった。

太宰治が学生の頃、作文の束の中から太宰の書いたものを抜き出して、廊下で読みながら教師は職員室に戻ったという逸話があるが、私の作文でも似たような事があった。

でも子供時代が終わると、作文を書く機会はなくなってしまう。

そうだ、私はまた作文が書きたかったのかも知れない。

先生からの花丸はもらえないけれど、それでもいい。

読者からスターやコメントが付かなくてもいい。

アンチはガン無視で。

書きたい。

書きたい。

ただ書きたいんだ。

 

さて、現在私は出奔中で、離婚調停の真っ最中である。

「実録、離婚裁判」

 

‥‥‥‥‥面白くないわけないよね?

 

書きたい私がいるのだけれど、SNSも禁止されているのに、ブログなんてもってのほか。

‥‥‥‥‥‥‥なのだけれど。

書くよねー。

いつかね。

誰にも読まれなくても構わないブログだけれど、ほんのたまに「この文章に出会えて良かった」と言ってくれる人がいる。

「書いてくれてありがとう」と言ってくれる人がいる。

素直に嬉しく思う。

でも、そんな奇特な人達のためではなく私は、私のために。

書いておいてよかった

書いてくれてありがとうね昔の私

と思う、私のために書こうと思う。

誰にも読まれなくても構わない、このブログを。

 

ありがとうはてなブログ

 

 

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

映画「君たちはどう生きるか」を観て思うこと

せっかく観たのだからいつものようにネタバレなしのお気持ちブログでも書こうと思ったが、世の中はもうネタバレだらけで今更感。

 

君たちはどう生きるか』(きみたちはどういきるか)は、1937年の吉野源三郎小説。(Wikipedia

 

先日会った姪っ子の長男君が13歳で、親が海外赴任のため今はとある国に住んでいるのだが、かなりの秀才らしいのだ。

実は秀才家系なウチ。私はボンクラだけどな。

で、ボンクラおばちゃん何度でも言うが出奔なうで金がない。

しかし投稿戦士なので謝礼の図書カードをたくさん持っている。なので、おこづかいとしてカードをあげる。

これで「君たちはどう生きるか」を買いなさい。そして、日本にいる間に映画も観ていきなさい。

と、言ったのだ。

姪っ子の長男君は、本を買うのは乗り気ではないが映画は観てもいいかなあという態度だった。まあいい。あげたものの使い途など本来どうこう言うものでもない。

娘が中学生の時にも薦めたから、(出てきた)家の本棚にもこの本がまだあると思う。そして娘に薦めたからには私も先に読んだはずなのだが、どんな内容だったか忘れてしまった。(いろいろ酷い)

そして、映画。

 

あまり早いと混んでいるだろうし早く行かないとネタバレを見てしまう‥とモタモタしていたら、先に娘が観てしまった。

娘「ネタバレするかね」

私「やめい」

 

そして、観てきた私の感想もほぼこれであった。

コペルくんどこ行ったん‥

 

感動は‥しなかったかな‥

飽きずに最後まで楽しめたけどね‥

コペルくん、どこ、行ったん‥

 

 

映画「銀河鉄道の父」を観て思うこと

銀河鉄道の父』を観てきたのだけれど、映画とはあまり関係ないことを書く。

映画は面白かった。私の「面白い」は最後まで飽きなかったという意味である。(つまらないと映画館の椅子に座っていられなくなる)

とてもよく出来ていたと思う。きっと今年度の映画賞を総なめにすると思う←なに目線(笑)

だから皆も観に行くといいよ。

公開からまだひと月も経っていないのに、平日とはいえ岩手であの客の入はないだろう。劇場で映画を観ようキャンペーン。姉にも娘にも絶賛しておいた。

ところで、お気付きの方もいるでしょう(いないか)このブログのタイトルは、宮沢賢治「永訣の朝」からとっている。はてなブログを始める時にブログタイトルとidを決めねばならないのだが、その時何故かあめゆじゅとてちてけんじゃの他に何にも浮かばず無理くり付けた。

「永訣の朝」は、中学か高校か忘れたが国語の教科書に載っていて、だから私にとって宮沢賢治といえば「永訣の朝」なのであった。

しかし学校で習っても、生まれ育ちが岩手であっても「あめゆじゅとてちてけんじゃ」この言葉は不可思議だ。

あめゆじゅ=あめゆき

とてちて=とってきて

と習ったと思う。でも私達は、そのような言葉を使わない。

けんじゃとは?

下さい?賢治や?兄を呼び捨てに?

解る人!誰か!

と長年の謎だったので、このシーンが見られたのは良かった。でも、結局はよく解らなかった←

 

 

小学生の頃、私は消極的で目立たない子どもだった。なのに5年生か6年生‥忘れてしまったが高学年の時、これも何故なのか忘れてしまったが、低学年の教室で私が音読をしなければならなかった。

その時に読んだのが宮沢賢治の「注文の多い料理店」そして「銀河鉄道の夜」であった。

私は教師から本を渡されるまでその二つの物語を知らなかった。

私は音読が嫌いではない。初見の本でもわりとすらすら読めた。台詞などはほんの少し感情を込めて読んだりもした。

しかし、宮沢賢治の文章には知らない単語や難しい言い回しも多く、登場人物の名前もやたらと長くて風変わりだから、私はつっかえ無いよう読むのに精一杯で、どんな物語だったのか全く思い出せない。

覚えているのは教師があまりにも長時間、私ひとりに音読させるのでとても疲れてしまい、かと言って抗議する勇気もなく、ふーとため息をついてひと休みしてみた。すると教師は

「続けて」

と、冷たく言い放った。

抵抗虚しく、私は続きを読んだ。チャイムが鳴って解放されるまで読んだ。

本当にあれは何の嫌がらせだったのだろう。朗読ならば教師がするべきではないのか。

低学年の生徒達は終始静かに聴き入っていたが、あの難解な物語が解ったのだろうか?読んていた私自身がよく解らなくて、変なお話だと思っていたのに。

この不可解で嫌な経験が、宮沢賢治の童話から私を遠ざけたのだった。

あれから半世紀の時を経て、宮沢賢治ゆかりの地に暮らすなんて、想像もしなかった。

そして、映画化された賢治の物語に触れ、賢治の物語をまた読んでみようと思うだなんて。

人生は解らない。

でもいつかは全てが線で繋がるんだね。星が星座を作るみたいに‥

などと、美しい夜空のシーンを観ながら思いましたとさ。