あめゆきをとって

仮題と下書き

アヒル

2017/01

 

弟が生まれた当時の事を、鮮明に覚えている。

男子の誕生とはこれ程までに大人を喜ばすのかと驚く程、弟は周囲からの祝福を受けていた。父はたいそう上機嫌で、母も満面の笑顔を見せていた。

5歳の私と2つ上の姉は、弟が出来た事はもちろん嬉しいのだが、暫くの間は蚊帳の外にいる気分だった。それでも弟のおかげで冷えきった家の中が明るくなり、普通の家庭のようで嬉しかった。

何しろこの家は、物心ついた頃から普通ではなかった。父は酒ばかり飲んで働かず、家にいれば不機嫌で黙っているか怒鳴っているかだ。夫婦喧嘩で母が暴力をふるわれるのを私達は震えながら見ているしかなかった。そして、常に父に怯えて暮らしていた。

弟の名前は何がいいかしらと、姉と私で赤ん坊の名前をあれこれと考えるのが楽しかった。でも名前はことごとく却下され、いつの間にか決まっていた〇〇という名前を私達は気に入らなかった。

そして赤ん坊のいる暮らしは母を更に忙しくさせ、私達に我慢を強いた。皆が弟ばかりをチヤホヤするので、だんだんそれが面白くないのだけれど、弟は本物の天使のように愛らしかったので仕方ないと思った。

憧れていた、温かで幸福な家庭が、確かにそこにあった。

だけどそんなものは、一瞬で過ぎ去った。

 

 

 

私の家では母が商売をしていたが、父はそれをほとんど手伝わない。そのくせ売り上げが少ないと母を詰っていた。

生活が苦しいので、母は別の場所に店を出すための準備をした。

そして、弟が生まれて1年が過ぎた冬のある日、母はどこかに出かけてしまい、私と姉と弟が家に残された。

私達は父が苛つかないよう、大人しくしていなければならない。

母がいなくて心細くなった私は、姉に何度も「お母ちゃんはどこ?お母ちゃんはまだ帰って来ない?」とべそをかいた。

私があまりにもしつこく言うので、姉はすっかり困ってしまった。もし私が大きな声で泣きだせば、妹を泣かせた罪で父にこっ酷く怒られるのだ。

「お母ちゃんを捜しに行こうか」と、姉が言い、

父と弟は昼寝をしていたので、起こさないようにふたりでそっと家を出た。

メソメソしていた私は、歩いているうちに気が紛れてきた。

けれども二人で母が行きそうな場所を捜し回っても、母は見つからなかった。

「お母ちゃん、もう家に戻っているのかもね」という姉の言葉に頷いて、私達は家に帰った。

母は家にいなかった。そして、弟の姿もなかった。

胸いっぱいに不吉な予感が拡がる。

今までにないような大きな異変が起きたのだと、子ども心に感じとった。

殺気だった父が、玄関で仁王立ちになり

「お前達は今までどこで何をしてきたのか」と怒鳴ったので

「お母ちゃんを捜しに行った。タンポポがお母ちゃんがいないって泣いたから」

そう姉が言うと、父は憎々しげに私を睨みつけた。

 

暫くすると、母が弟を抱いて家に帰って来た。

弟の手には真っ白い包帯がぐるぐると巻かれている。そして今までに聞いたことがない程の大きな声でギャンギャン激しく泣き叫んでいた。

その泣き声に負けない大声で、父は怒鳴り続けた。

「お前のせいだ。どうしてくれるのか。お前が〇〇を置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」

私と姉がいない間に目を覚ました弟は、石油ストーブの上で湯煎をしていた哺乳瓶を取ろうとして転び、火傷を負ったらしい。

ちょうどその時父は、客が来たので店に出ていたのだと言う。

本当の事なのかどうか解らない。

誰もそれを見てはいないのだから。

弟の火傷した手は真っ赤にただれ、包帯を替える度に泣き叫んでいた。

昔の、田舎の治療であるから、チンク油という白いベタベタしたものを塗りたくるだけであった。

「〇〇痛くても我慢してね。これを塗っていれば、きっと元通りの手に治るからね。」

私がそう言っても母は黙っていた。そして暴れる弟を押さえつけチンク油を塗った。

父の怒号は何ヵ月も毎日続き、この先何年も何十年も事ある毎に続く。

母は、弟のケガは自分のせいと自分を責め続けた。

私も、あの時私が我儘を言わないで留守番していたら…と自分を責めた。

もし私と姉がいる時に、ほんの少し目を離した隙にこの事故が起きていたならば、私達は父からどんな酷い目に遭わされただろう。

父は弟を溺愛していた。そしてこの事故の責任を、自分ではない何者かになすり付けずにはおれないのだった。

弟の手の治療は長くかかり、ケロイド状の火傷の痕が大きく残った。

ただれた皮膚が指と指を癒着させて、完全に開かなくなってしまった。

私はよく、弟が寝ている間にその手を触ってまじまじと見た。そして「可哀そうに。ごめんね、ごめんね」と心の中で謝っていた。

「くっついた指を病院で切ってもらおうよ。そりゃ血は出るしまた痛がるだろうけれど。」

母は「そうだなぁ」とだけ言って、悲しそうにするだけだった。

 

手に大きな傷痕を残したものの、通院の必要が無くなった頃、弟は保育園に預けられた。

母が更に長時間働くためだった。

弟は保育園に預ける度に大泣きするので母も辛いのだが、生きるためには仕方がなかった。

こんなに小さいのに預けるなんて可哀そうだと、私も思った。

それでも弟は次第に保育園生活に慣れて行った。利発で可愛い弟は、保母さん達の間でも人気者であった。

母は度々保育園のお迎えに間に合わなかったので、私が保育園まで弟を迎えに行った。

当時の私は小学校低学年で、今思えば私の親はネグレストだった。

保母さん達からは「えっ?お姉ちゃんがお迎えなの?大丈夫かな?」と言われたが、何故そう言われるのか解らなかった。

弟の帰り支度を待つ間、廊下に張られた園児たちの写真を眺めた。

何かの行事の写真なのだろう。壁にびっしりとある写真には、弟がたくさん写っていた。

弟のアップ写真が他の子達よりもやたらと多いのだ。

私が学校行事でメインになる事は皆無であったから、私の写真はケシ粒のような私が写ったのが2,3枚あるくらいだったので驚いた。

それを母に伝えると

「そうなのよねぇ。いつも保母さん達がね、〇〇をいっぱい撮ってくれるから写真代も高くなって。」

とまんざらでもなさそうに言った。

やっぱり顔が可愛いのは得だ。世の中平等ではないのだ。私も姉も不細工なのに、どうして弟だけがこんなに可愛いんだろう?と不思議であった。

私と姉は醜いアヒルの子。きっと、いつかはきれいな白鳥に…

 

なれるとは到底思えなかった。

 

 

続く

 

 

 

 

私が母の代わりに保育園にお迎えに行くと、弟は必ず不機嫌になって泣いた。

タンポポは嫌だ。お母ちゃんがいい。」

「お母ちゃんは忙しくて来られないの。だから我慢して。」

「嫌だ嫌だ。お母ちゃんでなきゃ嫌だ。」

ぐずる弟を引き摺るようにして、私は弟を連れて帰った。言い聞かせても手に負えないので、作り話をして弟の気を惹いた。

「〇〇が欲しがっていた仮面ライダーのオモチャをね。お母ちゃんが買いに行ってるの。だから、早く家に帰ろうね。」

「えっ?そうなの?」

弟は、大きな目を輝かせた。  

保育園児の足で30分かかる道のりを、弟はご機嫌で歩いてくれた。もちろん私は良心がほんの少しだけ咎めた。

家に着いて嘘がバレると、弟は火が付いたように泣いて暴れた。それでも私は無事に弟を連れて帰りさえすれば、後はどうでも良いのだった。

オモチャ作戦は、3度目には効果が無くなった。

私の作り話は次第に、演技力と巧妙さを増していく。

「今日は、〇〇の誕生日だよ。知らなかった?お母ちゃんが大きなケーキを買って来るって。あ、〇〇にはまだ内緒だった。」

「えっ?今日は僕の誕生日なの?やったー!」

「ケーキ楽しみだね。早く帰ろう。私から聞いたって言っちゃダメだよ?」

「うん。言わない。」

もちろん家にケーキなどあるはずがない。床にひっくり返って大泣きする弟を母が

「明日ケーキを買って来るからね。」と言ってなだめ

「全く、タンポポは適当な事ばかり言って」と睨むのだが

「仕方ないでしょ。こうでもしないと、お母ちゃんでなきゃ嫌だって泣くんだから。」と開き直っていた。

そのうち弟にも知恵がついて、オモチャ作戦も、誕生日作戦も効かなくなった。

それからは私が読んだ本の話をしてあげた。その頃の私は戦争や原爆の本を読んでいたので、学童疎開とか配給とか自分も知らない世界なのに、弟に解る易しい言葉で話して聞かせた。

「戦争中は食べるものがなくて、皆がお腹を空かせていたんだって。」

「そうなの?」

「布団の中で、お家に帰りたいって泣いていたんだって。」

「可哀そうだね。」

「クウシュウケイホウが鳴ると、ボウクウゴウっていう穴に逃げるんだよ。そこは狭くて中が真っ暗なの。」

「ボウクウゴウに入るの、怖いなあ。」

そんな話をしているうちに、家に着いてしまうのだ。

年長になるとぐずる事も少なくなり、自分から「何かお話をして。センソウの話がいい。」等と言うようになった。

私は物語を適当にアレンジして、30分興味が続くように話を盛った。

私の嘘が上手いのは、このお迎えの作り話で上達したのだと思う。

それから、弟が保育園から持ち帰る絵本を家で読んであげるのも、私の仕事だった。

弟はあっという間に平仮名とカタカナの読みを覚えてしまったので、カレンダーの裏を使って書き方も教えてみた。すると、それもすぐに書けるようになった。

弟が賢い事を母に伝えると、母はとても嬉しそうにして

タンポポは教え方が上手だね。〇〇に算数も教えてあげて頂戴。」

と言った。

私が6年生の時、弟が小学校に入学した。

この一年間だけ私は弟と一緒に登校したが、下校時間は別々だった。これ程の年齢差があると、放課後に外で一緒に遊ぶ事はなかった。

 

 

家庭の中は相変わらずで、絵に描いたようなちゃぶ台返しをする父がいる限り、平穏はなかった。荒んだ家の中で、私達きょうだいの心はそれぞれ少しずつ蝕まれていく。

母の商売はとてもうまく行き我が家は少し裕福になっていたが、父はそのお金でギャンブルにのめり込んだ。

母は早朝から働きづめに働いて、身体を壊してもまだ働いた。

ある時母は何かの手術をして床に臥せっていたが、何の病気なのか聞いても絶対に言わなかった。本来ならば入院すべきところを、家をあけられないと言って家で寝ていたのだった。

そして、少し元気になればまた働いた。

ほったらかしにされる私達は、周りの友達より多めのお小遣いを貰った。でも弟は更に特別扱いだった。

私には安物しか買ってくれないのに、弟が欲しがれば驚くほど高価なブランドのスニーカーでも買ってあげるのだった。

そういえば、弟が保育園に入った頃から母は、弟にだけはいくらでも玩具を買い与えていた。

だから家には弟の玩具が山のようにあった。それは、母の後ろめたさがそうさせたのかも知れない。

成績優秀な弟は、父の自慢でもあった。

自分は高等小学校しか出ていないのに「〇〇は俺に似て頭が良い」と、得意になって人に言いふらしていた。

そして勉強も運動もパッとしない私と姉は、弟と比較されて𠮟られた。

私は読書感想文や、写生コンクールでいつも表彰されていたが、父に褒めてもらった事は一度もない。

それどころか私が絵を描いたり本を読んだりしていると

「そんな事は何の役にも立たない。勉強しろ。弟より劣る成績で恥ずかしくないのか。」

と延々と説教をするので、私は祖母や従妹の家に逃げこんで、そこで好きな事をしていた。

 

私が高3の年に、弟は中学生になった。

そしていつの頃からか弟は、家の中で無口になった。

思春期だから、男の子だからそういうものだと思っていた。

母は30代後半で弟を産んだが、苦労の分だけ年齢よりも老けて見えた。

弟がまだ小学生の時、参観日に母が弟の教室に入ると

「〇〇んちは、お婆さんが来たな。」と言われたらしい。弟はそれが余程恥ずかしかったのか

「学校にはもう二度と来るな」と言い、母は酷く落ち込んだ。

学校行事の度に来るなと言うので、母は行きたくても行かれない。

男の子の反抗期って大変だなと、私は思った。保育園の時にはお母ちゃんでなきゃ嫌だと泣いていたくせに。

弟は学校の話をほとんどしなくなり、聞いても煩いと嫌がった。

放っておけばいいものを、母はやたらと知りたがり、私にまで「〇〇に学校の様子を聞いてみてくれ。」と頼むのだった。

当時、日本中で校内暴力が問題となり、姉と私が在学中には平穏だった中学校でも警察沙汰になるような事件が起きた。弟はその渦中にいた。

私が聞いても弟は何も言わなかった。その時何か問題を抱えていたとしても、母や姉になど話すわけがない。

成長した姉も私も弟も、お互いの事を全く気にしていなかった。弟は優等生だが大人し過ぎるわけでもない。不良達には関わらず上手くやっているのだろうと思った。

私はこの家からどうやって逃げ出そうかと、自分の事だけしか考えていなかった。

 

私が就職で上京した数年後、姉も結婚して家を出た。

高校生になった弟一人だけが、あの親と暮らすのは地獄であっただろう。

けれども私は上京してから殆ど実家に帰らず、弟と接する機会が無くなっていた。

 

 

 

続く

 

 

 

 

私が実家を出てから弟に会ったのは、姉の結婚式、そして私の結婚式の時だけだった。大学受験を控えていた弟はますます暗く、話しかけてもろくに返事もしない。

弟は父に反発し、父との溝はかなり深まっていた。だけど実家を出てしまった姉と私には、最早どうする事も出来なかった。

家庭内での悲惨な事件が報道される度に、私は他人事と思えず不安に陥った。

弟が父に逆ギレをして、あるいは母が、長年の恨みが積もり積もってニュースに流れるような事件をいつか起こしかねない…

自分だってあの家にまだいたならば、何をしたか解らなかった。だからこそあの家を出たかったのだ。

私は、遠く離れた実家の悪夢を見て目覚めては、憂いに沈んだ。

 

受験した弟は、超難関の大学に合格した。

大学の入学式には父と母が揃って上京し、私も案内役として付き添った。

桜の花びらが降りしきる、少し風の強い日だった。青く澄んだ空がとても美しかった。

両親は晴れやかな笑顔で「○○は凄い。本当に大したものだ。よくやった、よくやった。」と、大喜びした。

父も母も、私や姉の結婚式よりもずっと嬉しそうだった。そんな二人の様子を見て、私も幸せな気持ちになれた。

 

こんな日が訪れるなんて、まるで夢のようだ。

 

私は弟に心から感謝した。

もしかしたら、父と母はこの幸せのままで、穏やかに余生を暮らしてくれるかも知れない。

 

弟は私が住んでいた隣の区に部屋を借りて、大学生活を始めた。

私は娘が生まれ、育児に追われた。

近くに住んでいても私達は、殆ど行き来をしなかった。

夫の弟が大学生だった頃、義弟は隣の県で一人暮らしをしていたが、時々うちに来て私の作った晩御飯を食べたり、泊まっていったりした。

でも弟は人付き合いが苦手で、誘っても絶対に来なかった。

理由は忘れてしまったけれど、たった一度だけ弟がうちに来た事がある。

当時住んでいた狭いアパートで、弟は娘と初めて対面した。最初は乳幼児をどう扱っていいのか解らずに戸惑っていたので

「オモチャで遊んだら?」と言うと、二人は一緒に積み木遊びを始めた。

ぎこちない様子で少しはにかみながら、娘の相手をする弟。

私は笑いたいのを堪えながら、二人が遊んでいる姿をカメラに収めた。この写真を母に送ってあげたらきっと喜ぶだろう。

弟が積み木を高く積み上げるのを見て、娘は目をらんらんとさせた。やがて積み木はバランスを崩し倒れてしまう。

積み木が飛び散って大きな音をたてると、娘はキャーと大喜びした。そして

「もう一回ね。」と、弟に催促した。

娘が弟に積み木をひとつづつ渡し、弟が高く積み重ねていく。やがて崩れて「もう一回」を何度も何度も繰り返した。

弟は私に「これいつ終わるの?」と聞いたので「終わらないよ。永久に。」と言うと「マジで?」と絶望の色を浮かべたので、ますます可笑しかった。

 

そして私も、一度だけ弟のアパートに行った事がある。

弟の留年が危ぶまれ、心配した母が私に弟の様子を見てくるよう言ってきたからだった。

私は「部屋が汚い」と文句を言いながらその辺に座り込み、それとなく大学の講義や試験、サークル活動等、生活の様子を訊ねたが、弟は相変わらず話したがらない。

やっと合格した憧れの大学なのに、どうやら弟は真面目に通っていないのだった。

私は雑然とした部屋の中に不似合いな、可愛いオルゴールを見つけた。すると弟は、しまったという顔をした。

「何これ可愛い。大事なもの?」

弟は最初は口ごもっていたが、それは高校の時に彼女から貰った物だと白状した。

私は、弟に彼女がいた事にかなり驚いたが、平静を装ってあれこれと聞いた。

その彼女とはそれほど長くは続かなかった事、今は誰とも付き合っていない事が解った。

「フーン。じゃあこれ貰ってくね。」と言うと、弟は躊躇していた。

「だってもう別れたんでしょ?いらないよね?前の彼女の物をいつまでも残しておいてもしょうがないし。もしかして、まだ好きなんだ?」

「それはないけど…」

「貰おうっと。」

私が娘にオルゴールを渡すと、娘は無邪気に喜んだ。それを見て弟は

「まぁ、いいか」と観念した。

そして、私も大学の様子が見てみたかったので、もうじき開催されるという学園祭に連れて行くよう迫った。弟はそれもあまり乗り気ではなかったのだが、強引に約束を取り付けた。

 

学園祭は想像以上に賑やかで楽しかった。サークルが出す模擬店がたくさん並び、お祭り騒ぎの学生達。

弟は、このノリについていけないのだろうか。

漫研のブースを覗くと個性的なファッションの女子学生が似顔絵描きをやっていた。娘を描いてもらうと、短時間でサラサラと可愛く描いてくれた。

広々としたキャンパス。歴史と風格のある校舎。

「いいね大学って。どこでもいいから私も入りたかったなぁ。」

私は思わず呟いて、すぐに

「ま、私の成績じゃどこにも入れないけどね。」

と笑った。

ベビーカーを押しながらのんびりと歩いていると、女子の学生集団とすれ違った。彼女達はこちらを横目で見ながらヒソヒソと何だか嫌な感じだった。

「今の、私達の事を勘違いしてるよね?」

「きっとそうだ。うわぁ…」

弟は、今までに見た事がないほど狼狽えた。私は笑い転げながら内心(子連れはまずかったかな…)と思った。

今であれば学生結婚など少しも珍しくないだろうけれど、当時はあまりいなかったかも知れない。それに私達は、れっきとした姉と弟である。

私はキャンパスの雰囲気に満足し、早々に帰ることにした。別れ際に

「ちゃんと卒業してよ。せっかく入ったのだから。」と言って。

弟は、何とか大学を卒業出来た。

希望していた東京での就活は面接で上手くいかず、地元での就職だった。

 

 

それから私は自分の生活に追われ、実家をあまり顧みなくなる。

体を壊し心も病んだ私は、一日づつを必死に生きているうちに長い歳月が過ぎた。

本当に、あっという間だった。

そして、東京で勤務していた姪の結婚が決まり、東京で式が行われる事になった。

奇しくも結婚式会場は、弟が卒業した大学の最寄り駅にあった。

弟は、変わってしまった風景と、変わらずにあるものを見つけては懐かしそうに眺めていた。

弟に会うのは大学の卒業式以来であった。私も弟も、お互いの変貌ぶりに驚愕し、腹を抱えて笑った。

この時、娘は二十歳になる直前だった。娘は弟を「この人は誰?」と、不思議そうに見ていた。

積み木で遊んだあのチビすけが、いつの間にこんなに大きくなったのかと、すっかりオッサンになってしまった弟が目を細めて笑っていた。

 

 

 

 続く

 

 

 

何が起ころうと、父と母の修羅は終わらなかった。

いくら私達が、小さな積み木を積むようにして家族の歴史を重ねても、父はそんなものと言わんばかりにぶち壊し、全てを台無しにした。

この修羅はきっと、二人の命ある限り続く。どちらかが逝った後にも残った親が、私達の足枷となって生きていく。

諍いを母から聞かされる度に、私はストレスで具合を悪くしていた。それは、姉も同じだった。

でも弟がどんな気持ちでいたのか、私達には知る由もない。

 

足が不自由な父は姪の結婚式に来られず、父以外の親族が東京に集まった。

その4か月後に、東日本大震災が起きた。

生まれ育った町も激しく揺れ、大津波が何度も容赦なく襲う。

河口近くの川沿いにある実家は恐らくもうダメだと、私は覚悟を決めていた。

母は、足の悪い父を置いて逃げたりはしない。

テレビを食い入るように見ながらなす術もない私に、姉からメールが来ていた。

「どこもかしこもメチャクチャで、まるで原爆でも落ちたかのよう。今から車で実家に向かう。」

実家に向かう?やめて、やめて。

東京でさえ、まだこんなに揺れているのに。

その後、弟からもメールが届いた。4か月前にメアドを交換して、これが初めてのメールだった。

「家は無事、父も母も無事」

 

父も母も、無事…

 

私は、床にへたり込んだ。

私は弟に「姉も家に向かっている」と返信した。すると

「国道が崖崩れで通行止めだから、引き返せと連絡して。」という返事が来た。

仕事の関係で弟は、いち早く被災地入りして実家の前を通り、安否確認が出来たのだった。

けれども、姉からはしばらく返信がなかった。姪からは

「お母さんと連絡がつかなくなった」と、泣き声で電話をしてきた。

「大丈夫。通行止めで沿岸の方には近づけないみたい。もうすぐ戻って来るから。」

姉の携帯は、電波が届かなかっただけだった。姉は実家に向かうのを諦めて自分の家に戻り、弟からの報告に安堵した。

 

 

それにしても姉と弟はこんな時、真っしぐらに親の元へと向かうのだ。私にはそれが衝撃であった。

暗い山道を、車で2時間も走らなければならないのに。大きな余震が続いていて、無事にたどり着けるかどうかさえ解らないのに。津波にのまれるかも知れないのに。

 

あんな親なのに。

 

故郷は甚大な被害を受け、知人が津波に流されて亡くなった。それなのに父は、自分の生き方を省みる事なく、傍若無人な振る舞いを続けた。

犠牲になった人を侮辱するような言葉まで吐くのだと母から聞き、父を心の底から軽蔑した。

東京の知人達は、実家の無事を喜んでくれたが

「うちは無事じゃない方が、良かったの。」

私はそう口走っていた。それを聞いた知人達が呆れて、私を軽蔑しても構わなかった。

 

震災の後、私は思うところあって、ずっと帰らなかった実家に年に一度は帰省すると決めた。そして弟の休みが合えば、実家まで車を出してもらったり、ご飯を奢らせたりした。

それまでの私達は、互いの距離の置き方が解らなかった。

皮肉な事にあの震災が、私達は家族だったと気づかせてくれたのだ。

そして、昨夏に帰省した時の事だった。

母と弟と私とで外食に行った。頼んだものが出来上がるのを待つ間、弟が唐突に手を差し出して私に見せた。それも、火傷をした方の手を。

「俺、この手を手術した。」

「えっ?そうなの?」

弟が自ら手を見せたのは初めてだった。私は動揺し、差し出されたその手を直視出来なかった。

今の形成外科学でも、この程度なのか。ケロイドはまだ残っていて、すっかりきれいに治ったね等とはとても言えない。

弟は見た目ではなく、癒着していた指と指が離れた事に満足していた。そして、癒着により曲がっていた指が、少し伸ばせるようになった。でも、完全に真っ直ぐには伸ばせないのだと悔しそうに言った。

弟は、火傷の痕をずっと気にしていたのだった。

手に大きな傷痕があっても、弟は勉強も運動も出来て器量も良い。世の中にはハンデのある人が大勢いるけれど、弟の手は機能していて出来ない事は何もなかった。

だから、弟はこの傷痕を受容しているものと思い込んでいた。

昔、手術の話を持ちかけると「手術は絶対に嫌だ。このままでいい。」と泣いたのは、子どもだったから怖かったのだろう。

弟が成長してからは

「〇〇の手が可哀そう。手術してあげなさいな。年頃になって女の子と手をつなぐ時に恥ずかしくないように」等と、伯母が母に言った。

それを聞いた私は憤慨した。

何も恥ずかしくなんかない。反対側の手を繋げばいいじゃないの。それよりも、あんな手だからと繋げないような相手なら、こっちからお断りだ。

母は何度も手術の話をしていたが、弟は頑なに拒んできたのだった。

 

弟は今も独身で、一人で暮らしている。

母の関心事は、弟の結婚だけだ。

なぜ結婚しないのか、結婚したいような相手がいるのかいないのか、自分が聞くと怒られるからタンポポから聞いてみてと、煩くて仕方がない。

数年前までは

「どうしてだろうね。お付き合いした人は何人かいたみたい。だけど、なかなか結婚までには至らないねぇ」等と話し相手をしてあげたが、何年も繰り返すこの話題にウンザリした。

「もういい加減に諦めたら?結婚なんか今更しなくても、独身貴族でいいじゃない。別れる人も多いのだし、別れないで長年不幸な人がここにいるでしょう?」

と、皮肉を言っても通じない。

「どうして結婚しないのかなぁ。私とお父さんがいるから出来ないのかなぁ。」

と言うので

「そうね。それが一番の理由だろうね。」と言ってやった。

そうすると、タンポポは冷たい。姉もきつい。やっぱり〇〇が一番可愛いと周りに言いふらすのだった。

実の娘でさえあんな父とは一緒に居られないのに、お嫁さんと上手くいくはずがない。弟はきっと、お嫁さんの苦労が目に見えているから結婚に踏み切れないのだろう。

家庭の築き方が解らないのかも知れない。或いは、父親になりたくないのかも知れない。

私がそうだ。結婚しても家族関係が上手くいかず、理想の親にもなれなかった。

でも母は諦めきれずにいた。

ある時「見てご覧」と言って、真珠のネックレスを私に見せた。

「これは、商売で儲かっていた頃に買っておいたもの。」

「フーン。それを私にくれるの?」

「とんでもない。これは、いつか〇〇のお嫁さんにあげるんだから。」

私は少々苛ついた。

「あっそう。私、持っているから要らないし。お嫁さんだってもっと良いものを持っているかもね。それにお嫁さんって、全然当てもないのに。」

「これをお嫁さんにあげるまで、私は死ねない」と言って、母は笑っていた。

 

実家の父と母には殆ど会話がない。沈黙か、父の罵声があるだけだ。私は母が認知症にならないよう、時々電話で話すようにしている。

先日もまた弟の結婚の話になって、私はそれを遮った。

「そういえばさ、〇〇が保育園に入ったの何歳?」

私はこの頃、昔の記憶が定かではない。でも母は、昔の事ならばよく覚えているのだ。

「2歳と9か月だった。本当はあと3か月、3歳までは預からないと言われたけれど、無理にお願いして入れたの。私がどうしても働かなければならなかったから…」

「そう。」

「私はね。たくさんの失敗をしてきたの。失敗だらけの人生。タンポポに全部教えるから、そのお話を書いて頂戴。」

「うーん。取りあえず聞かせてみて。」

すると母は、堰を切ったように昔の事を話しだした。

弟が保育園に入って、初めてのお遊戯会。開始時間は11時なのに、母は1時からと勘違いをした。

弟のお遊戯を見るのがとても楽しみだった。きちんとお化粧もして着飾って、まだかまだかと時計を見ながら待ちかねて保育園に行ってみると、もうお遊戯会は終わっていた。

弟は保母さんの膝にチョコンと座り、母が来るのを待っていた。そして保母さんが

「〇〇ちゃんは、とっても上手にお遊戯をしましたよ。」

と、母に言ったそうだ。

(なんて馬鹿なんだろう)と思ったが、黙って聞いていた。

「それから、あの火傷の時も…」と母は続けた。

私は、あの日の事はよく覚えているので、あまり聞きたくなかったのだが。

母が病院に駆け込んで、医者に弟の手を見せた。すると

「親指以外の4本の指を、切断する事になるかも知れません。」と宣告された。

それを聞いた母は膝がガクガクと震えて、立っていられなかった。

「そうだったの。でも、切断にならなくて良かったね。」

母は、そこにいた看護婦に酷い言葉を浴びせられたらしい。その事が今でも悔しくて、憎くて仕方がないのだと言った。

タンポポは知っていた?〇〇が、あの火傷の手で苛めにあっていた事を。」

「そうなの?知らない。〇〇を苛める子がいたの?」

母も、全く知らなかったのだ。

弟の通う中学校が荒れて事件が起きた時、緊急の保護者会が開かれた。

あまり学校に行かなかった母も、その会には出席した。そして、同級生のお母さんから当時の話を聞かされ初めて知ったのだった。

 

弟が小学5年か6年の頃だと言う。

学校から帰るといつも外に遊びに行っていたのに、何故か家の中でゴロゴロとしている日が続いた。おかしいと思い、どうして遊びに行かないのか聞いたけれども、弟は理由を話さなかった。ちょうどその頃に、苛められていたのだ。

 

縄跳びの紐で体を縛られ、廊下を引きずり回されていたらしい。

ヒル、アヒルとあざけって… 

 

苛めっ子は、嫌がる弟に「手を見せろ」と迫った。

指と指の間が薄い皮膚でくっついているのがまるで水かきのようだから、アヒルなのだと。

 

私は悔しくて、涙がぼろぼろと落ちた。

どうして弟は何も言わないのだ。そんなに頼りにならないのか。

その頃の私は高校生で、学校から帰るとすぐに自分の部屋に籠っていた。姉は実家から離れ寮生活をしていた。

もしもあの頃に苛めの話を聞いていたならば、私がそのクソガキをぶっ飛ばしてやりたかった。

悔しい。許せない。苛めた子が。自分自身が。

 

私はこの話を自分の心だけにしまっておけず、すぐに姉にも電話をした。

「なんて酷い事を…」と、姉は絶句し、きっと泣いていた。

 

私は今でも家族というものが解らない。

家族の作り方が解らない。

あの家は歪で脆く、家族とも言えないものだと思う。

それでも私達は、家族なのだ。

どんなに逃げ出したくても、無い事にしたくても、消えない家族。

よろよろぶざまな、アヒルの家族。

 

今度の帰省でも私はまた、あの家と対峙する。

母からどんな話を聞かされても、これからは決して涙を見せたりしない。

 

 

 

END