なりたかったものに、なぜなれなかったのか考えた事は何度もある。
その度に私は、自分以外のせいにしたと思う。親のせい、田舎のせい、貧乏のせい、運がない?
なりたいものになんか、殆どの人がなれないものさ。そんな風にうそぶいてみたりもした。
私はずっと、何者かになりたかったわけではない。
生活に追われてパート生活をしていた頃は、日々のやり繰りと、子供の教育しか考えていなかった。
そんな中、帰省した地元で同級生にばったり出会った。
中学卒業以来だった。
懐かしさよりも、地元では誰にも会いたくない気持ちの方が強かったので、早々に立ち去りたかったが、同級生はしきりに懐かしがって私にこう言った。
「小説は書いているの?」
「えっ?どうして?」
「私、タンポポは絶対に小説家になると思っていたから」
私は返答に困ってしまった。ああ、中学時代の私はきっと、恥ずかしげもなくそんな話をしたのだろう。
自分でもすっかり忘れていたのに、さほど仲良しでもなかった彼女が覚えていたと思うと、穴があったら入りたい。
逃げるように別れて、こう思った。
小説家になんか、簡単になれるわけないじゃないの。
昔と変わらず可愛らしい笑顔でそんな事を言うなんて、何の皮肉のつもりだろうか?
そうではなかった。
あれから何年も経って、東日本大震災で被災した人達に彼女が行った支援の話を人づてに聞いた。
昔から彼女は自分よりも先に、周囲の幸せを願う人だった。
彼女の言葉には、ほんの少しの悪意もなく、私がひねくれているだけなのだ。
大人になってからの私は、小説家になろうとした事が一度もない。
想像して書く長い文章よりも、その日の小さな出来事や、何かに触発されて書いた短めの文章を、私はテレビやラジオ、新聞、雑誌への投稿という形で小銭に替えた。
謝礼の図書券や商品券は使いきれないほどたまったけれど、私の心は満たされなかった。
長い年月だけがあっという間に過ぎ、私はもう何者になれなくても構わない。
子供には、夢を叶えられるだけの教育を受けさせた。子供が幸せになりさえすれば、それで満足と思っていた。
なのに、子供が人生に躓いて自己否定し始めた時、それまで私がやっと保っていたものがガラガラと崩れていった。カウンセラーには
「お子さんがそんな風になったのは、あなたがあなたの人生を生きていないせい」と言われた。
そんな事、今更言われてもどう生きればいいのか、私は途方に暮れた。
私は、誰にも読まれなくていい散文を書き始めた。書けば、震える心が次第に落ち着いてゆくのがわかった。誰のためでもない、自分のための文章だから何と思われても平気だ。息を吐くように書き続けた。短歌や詩、エッセイ等、よく書けたと思うものは新聞に投稿した。
そして昨年末、突然目が見えなくなった。
せっかく自分を取り戻す方法を得たというのに、それすら奪われるのかと愕然とした。
罹患する人が少なく、完治する方法のない病。
幸い薬が効いたので、日常に不便がない程度には回復した。
誰にも読まれなくていい雑文だけれど、自分で手書き出来るのは今だけかも知れない。
そう思って公募に出した。恥晒しでもいい。やらなかった事を後悔するよりも、ずっといい。
私はもう、何者にもなれなくて良かった。
酷い人生だと思っていたけれど、案外楽しい事もあった。
公募に入選するとは思わないけれど、作品集に掲載されるという約40編の中にはどうしても入って欲しかった。それに入らないようならば、もう文章など書くのをやめようと思っていた。
そして先月、入選の知らせが届く。
神様はいないと思っていたけれど、神様は本当にいて、時々とても酷い事をする。
私は鏡の前で自分の頬を叩いた。痛い。夢ではない。
涙がぼろぼろ落ちた。それは決して嬉し涙などではなかった。
神様は酷い。
私を病気にした罪滅ぼしのつもりだろうか?今頃になって、こんな事をするなんて。