あめゆきをとって

仮題と下書き

母がいない

 


生まれて初めて詩を書いた日|夢沢那智|note

フォロワーさんからのツィートで、このエントリーを読んだ。すると、昔の記憶がよみがえり、いろんな事を思った。娘と私のこと。私と母のこと…

昔、小学生だった娘の夏休みに、俳句の宿題が出た。宿題だから、親の私が詠むわけにはいかない。

私は娘に出来るだけたくさんの句を詠ませた。10や20ではない。娘は平凡なつまらない句ばかり、半べそをかきながら詠んだ。100近くの中からましなものを私が選び、提出した。そして娘の句はコンクールで入選した。同じやり方で毎年入選するので、親が作っているのでは?と保護者の間で噂されたが、気にしなかった。

大人になった娘は今、一切の文芸をやらない。

それは、私のせいかも知れないし、私がダメと捨てた中にこそ、優れた一句があったかも知れない。

 

 

 

 

私は勉強が出来なかったし、運動能力も壊滅的だったけれど、文芸では度々表彰された。父は無関心どころか不機嫌になり

「そんなもの何が嬉しいのか。文芸など役に立たない。勉強をしろ」

と怒鳴ったが、母はとても喜んで、私を褒めてくれた。

母を喜ばせるために、私に出来る唯一の事が文芸だった。

けれども、母親の言葉に心をえぐられるような思いをしたことが、一度だけある。

 

国語の授業で作文を書いた、その日のテーマが「昨日の夕食」だった。

私は硬直して、一文字も書けなくなった。昨晩は…昨日の…家の…夕食は…

両親が激しい喧嘩をして、それは我が家では珍しい事ではなかったけれど、担任と同級生には知られたくなかった。お膳は滅茶苦茶になり、おかずは何だったのか、何をどう食べたのか覚えていない。たぶん、何も食べていない。「残り時間10分」の声ではっと我に返り、急いで家族団らんの夕食をでっち上げた。チャイムと同時に書き終えて、私はほっとした。

そして、その作文の評価は四重丸だった。作文はいつも、五重の花丸なのに…

でも書きあげただけまし、私はそう思った。時間内に書き終えなければ宿題になる。国語の成績も下がる。私は返却された作文を、ランドセルのポケットに隠した。そして、書いた事もすっかり忘れた頃、その作文が母の目に触れてしまう。

「おめさんは、ホラマゲ(嘘つき)だぁがね」

母がため息をついた。

「学校の作文にあんな嘘並べて…」

ああ、あれの事か。私は母の顔も見ずに

「嘘じゃないもん」

と言った。

「嘘だべすか。おらあんな夕御飯の日、知らねえがや」

嘘じゃないもん。

嘘じゃないもん。

嘘じゃないもん。

嘘…

あれが嘘だと言うならば、私が作り話をしたのは何故だと思う?

誰のせいなの?

私は言葉の全てをのみ込んだ。悔し涙も出なかった。

そして、今度はもっと上手に書きたいと思った。

上手くなりたい。

上手くなりたい。

本当以上に本当の嘘を。誰にも嘘と解らないような、本当よりも本当の嘘を。

書きたいと、強く思った。

 

詩歌やエッセイを、私は自分のためだけに書いてきた。誰にも読まれなくても構わない、吐き出したいだけの雑文を、何十年も、書いては捨ててきた。

活字になれば母が喜ぶから、時には公募に出した。活字にならない悔しさと、活字になる嬉しさを知った。

けれども、母がいない。

何を書いても、何に載っても、喜ぶ母はもういない。