あめゆきをとって

仮題と下書き

連れて行かれそうになる

一年前に母が死んで、それから半年後に父も死んだ。

そして今、義理の父の死期が迫っている。

 

夫の親族とは過去に色々あり過ぎて、ずっと疎遠にしていたのだが、年末、義理の弟にだけ喪中葉書を出した。一枚の葉書で母と父の訃報を報せたのだから、弟夫婦は慌てただろう。すぐに香典が送られてきた。気を遣わせてしまって申し訳なく思い、私も大急ぎでお返しを手配した。弟の子供達が気に入りそうな模様のタオルセットを、銀座三越で選んだ。

そして年明け早々、弟夫婦から電話がかかってきた。お返しが届いたという連絡だと思ったが、そうではなかった。

老人介護施設にいる義父が発熱し、施設から病院へと移された。容態があまり良くないので、近親者への連絡と、延命治療を希望するかどうかの確認があったとの事。

 

父親の死期が迫っていると聞いても、夫は少しも動揺しなかった。

その理由を問うと「そろそろ危ない」という電話はこれまでにもあったけれど、義父はいつも持ち直したと言う。

延命治療をすれば、義父はまだまだ生きられるだろう。義父の親兄弟も皆、長生きをした。百まで生きる家系だ。でも義父の両親は認知症で、同居の家族はとても大変そうだった。

延命治療をしなければ、義父はすぐにも死ぬのだろうか。

義父は私の母と同い年だ。だからもう十分長生きした。

でも、また1月に?それとも2月?

冬に逝くのはもうやめて欲しい。せめて、春まで持ちこたえてくれと思う。

義母が死んだのも、31年前の2月。義母はまだ52歳だった。

くも膜下出血で倒れ、数時間後に亡くなった。

夫と義弟と私はすぐに羽田へ向かったものの、到着の出雲上空が吹雪のため、羽田で足止めをくらった。

「早く飛行機を飛ばせ」と、搭乗口で声を荒げる夫を心底哀れに思った。

私は飛行機が苦手なので、悪天候の中を飛ぶより陸路が良かったが、1分1秒でも早く帰りたい夫と弟にそうは言えない。

私達は臨時便の小さなプロペラ機を乗り継いで、米子空港に着陸した。

その義母の葬儀で、私は尋常でない胸の痛みを初めて経験したのだった。

痛みは少しの間、安静にしていたら治まった。だから、それは結婚して間もない婚家での葬儀、しかも義母の急死というショックからだろうと思いこんだ。

その後も誰かの葬儀に参列すると、過呼吸を起こした。

あまりにも周りに迷惑をかけるので、参列する人に香典を托し、自分は控えてきた。

 

父の葬儀にはコロナ禍で、帰省さえ出来なかった。

父の葬儀には出たくないのが本音だから、コロナ禍は私にとって好都合だった。けれども葬儀という儀式は、人にとって余程大事なものなのだろう。私は今も父がまだ施設に居るような気がしてならない。父の死を認識出来ていないのだから。

岩手が雪と知れば、お父さん寒くないかななどと思う。父はもう、死んだのに。生きていた頃には、心配ひとつしなかったのに。

 

義父はもうすぐ死ぬのだろう。

私は義父が好きだった。

自分の父親よりも優しい、立派な義父を尊敬していた。

でも義父は、私が嫌いだったかも知れない。最初に会った日には「どこの馬の骨」と言われたし、私との結婚も大反対した義父だった。

育ちが良く大卒で美人の、義弟の嫁の方がお気に入りであっただろう。

それでも私は、娘に愛情を注いでくれた、あの義父だけが娘の祖父なのだと思って生きてきた。

義母が死んですぐに、義父が再婚した相手と私達は折り合いが悪く、本当にいろいろな事があって私達は疎遠になった。

義父と最後に会ったのはいつだったか、もう忘れてしまった。

コロナ禍でなければ、真冬でなければ、せめて最後にもう一度、義父に会いたい。

そうしないと私は父だけでなく、義父の死も認識できないまま生きていく事になりそうだから。

義母、母、父、祖父母、伯父、伯母…

たくさんたくさん亡くなった。私や娘に連なるひと達。

次は義父の番。それとも、私?

眠れぬ夜には、亡くなったひと達を想う。

そしてまた、あの痛みが起こり、私は向こう側の世界へ連れて行かれそうになる。