あめゆきをとって

仮題と下書き

アサガオ(仮題)

昨年、母と父が亡くなった。

死因はコロナではない。

コロナ感染防止対策のため、父の入居する介護施設は面会禁止となった。

母の四十九日の法要の後、姉と弟と一緒に着替え等を届けに施設に立ち寄ったが特例はなく、面会は叶わなかった。

結局、母の葬儀が父との最後の面会となり、父は身内の誰にも看取られずに亡くなった。

痴呆の父は、コロナ禍を理解していなかっただろう。

子に見捨てられたと思っただろう。

父がもう、そのような思考さえも出来なくなっていたならば、痴呆は寧ろ幸せなのかも知れない。

 

 

私も大病して、いろいろな事を忘れ、忘れたくない事は忘れたままで、思い出したくない事を思い出している。

母の死に顔を見たから、母の死は理解している。

けれども私の記憶は、施設のコロナ対策で父との面会を断られた所で止まったままだ。

だから他所の介護施設でコロナが発生したニュースを見る度に、父は大丈夫かと思ってしまう。

もう父も、母もいないのに。二人とも死んだのだ。母は冬に、父は夏に。

 

そういう歌を詠んで新聞に載り、Twitterにもあげたら驚くほど拡散された。

 

https://twitter.com/sinjirarenetion/status/1425650345649217541?s=21

 

 

コロナでも、コロナでなくても、もし今ひとが亡くなれば、お別れも出来ない。

離れて暮らすお互いを気遣っているうちに、身内を失った人がこんなにいるとは‥

だからといって、会えるうちに会いたい人に会うべきだとは、もう言えない。

東京は医療が崩壊しており、受け入れ先のない救急車がたらい回しだという。

この国が、これほどまでも無能だとは知らなかった。

私達は虫のわいたマスクと、10万円ぽっちをただ一度配られて目眩しされて、明日にも死屍累累のひとつになるだろう。

オリンピックは感動した。嘘ではない。けれどもやはり、やるべきではなかった。

感染爆発、医療崩壊と引き替えにしてまで、やる事ではなかった。

何が平和の祭典だ。後の祭り。笑っているのはカネの亡者と死神だけ。

ああ、私はこんな事を書きたいのではなかった。

私はオリンピック会場に並べられたアサガオの、あの萎れた花を見て、思い出した事があった。

私はただ、アサガオの話をしたかったのに。