義父も死んだ。
2020年に母が死に、父も死んで、昨日、義父が死んだ。
母と義父は同じ歳だから、長生き組である。大往生である。悲しくはない。
悲しくはないけれど、私は実の父よりも、義父を父と慕っていたので寂しい。
その義父との思い出が、この10年分ポッカリと、無い。
それは、私が昨年の大病で記憶障害になったから…だと思っていた。
退院して東京の家に戻り、私は娘に聞いたのだった。
「そういえば、松江のジイはどうしているの?ヨメが死にかけてたっていうのに、何故見舞いにも来ないのさ?」
娘は心底あきれ果てた顔をして、こう言った。
「はあ?何言ってんの?ジイは入院中でしょう?施設にいて具合が悪くなって、病院に移されたんでしょう?」
言われてみれば、そんな気もする。それに義父は認知症だから、私の事などとうに忘れてしまっただろう。こんな事さえ覚えていられない、私の方こそ認知症である。
義父が入院している病院から義弟へ、義弟から夫へ、これまでに何度も危篤の報せがあったのだ。
いよいよかと心の準備をしていると、持ち直したという報せが来た。
あまりにもそれを繰り返すので、夫は義弟からの電話を信じなくなった。オオカミ少年現象、現実逃避である。父親の死という一大事に、向き合いたくないのだ。
先月も電話があり、流石にもうダメなのだろうと思って喪服の準備をした。
白いシャツを新調し、黒いネクタイとネクタイピン、数珠…とまとめて置いたら夫が怒り出した。
「死んでから準備しろ!」
と。
ごもっともだ。せめて見えない所に置けばよかった。
でも、そう遠くないうちに必要になるものを準備して何が悪いのか、私には理解できないが、消耗したくないので黙っている。
喧嘩をすれば、義父よりも先に逝きかねない私なのだから、我ながら温厚になったものである。
そして昨日、深夜というのか朝方というのか、午前3時に義父は逝った。
夫と娘が葬儀のために島根に向かった。私は犬と留守番である。
うちの犬は2匹ともに高齢で、こちらも先が短いので他所には預けられない。私も葬儀ではまた、倒れる予感しかしない。
私が行かなくても義父は、たいして気にはしないだろう。孫娘さえいれば、満足だろう。
私は東京で、義父の冥福を祈ろう。
すると、ホテルにチェックインした夫からLINEが入り、数珠を忘れたと言う。
知るか。私はちゃんと全部揃えて出して置いた。そして、それが早過ぎると叱られたのだ。
思い返してみると、大昔のことならばいくらでも思い出せる。
義父と初めて会ったのが二十歳の頃だから、いい事も悪い事も、思い出が山のようにある。
なのにどうしてだろう。この10年の出来事が思い出せない。
私は少し焦ってしまった。次の検診日には、記憶障害をもっと強く訴えなければならない。
10年で変わった事はいろいろとあるのだけれど、義父との関係が壊れたことが私にとって大きい。
その壊れた関係が、修復されないまま終わってしまったのがとても寂しく、残念である。
私は義父が好きだった。自分の父親よりも好きだった。
義父は何でもできて、社会的地位も人望もあって、博識で、ユーモアもあって、子供が好きで、私の父親にないものばかり義父は持っていた。
私はその義父と、何度も大喧嘩をしたから、義父は私が嫌いだったかも知れない。
でも私は自分の父親に、言いたいことが何も言えない境遇で生きてきたから、本音で言い合える義父が、本当に好きだったのに、義父には伝わらなかったと思う。
義母が亡くなってすぐに再婚を決めた義父を、私達はどうしても理解出来なくて、私達が理解しなくても再婚した義父の、その相手をどうしても受け入れられなくて、家族関係は崩壊した。
娘だけが、義父と私達との唯一の鎹だった。
娘には高価なピアノも買ってくれたし、学費も出してくれた義父。
義父を言いなりにする娘の事を、再婚相手の人は忌忌しく思っただろう。
10年前の2011年3月、東日本大震災と原発事故に日本が大混乱する中、娘は予定していた卒業旅行に島根へ飛んだ。
義父はそれはそれは喜んで、娘と娘の友人達を手厚くもてなした。
観光地を巡る運転手を買って出て、地元の高級料亭にも連れて行ってくれたそうだ。
しかし、再婚相手の人は嫌なら来なければいいのに付いて来て、始終不機嫌だったらしい。
娘は辟易して、鎹の役などもう御免だと思ったのだろう。孫娘として祖父に甘えたのは、これが最後となった。
そして、私は心も身体も病んで、煩わしい物事を一切シャットアウトしなければ到底生きていけなかったから、いい嫁のフリをやめて義父母をも拒絶した。
義父と再婚相手の人は、関係が次第に悪化した様子だった。私は(それ見たことか)としか思わなかった。
人生の10年は、短くてあっという間のようで、こんなにも変わるものなのか。
10年前にはあんなに元気溌剌で、校長職を退職後も地元の子らに勉強と習字を教え、書物と書と園芸と、地域活動に熱心だった義父。スポーツマンで体格の良い義父が延命装置に繋がれた結果、まるで枯れ木のように痩せ細り、骨と皮になって、死んだ。
義父の父も母も長寿の家系で百近くまで生きたから、義父もまだまだ長く生きるだろうと思い込んでいた。
「呆けて、チューブに繋がれて、長く生きるのは嫌だ」と、語っていた生前の義父。
そうまでして生きていたくはないと言っていた、正にその姿になってしまった。
だから義父は、亡くなって、チューブを外された顔は穏やかで、あの優しい目を瞑ったまま、もう何も語らないから寂しいけれど、悲しくはない。
お義父さん、お疲れさまでした。
馬の骨の産んだ娘を、たくさん愛してくれてありがとうね。
大喧嘩もしたけれど、本当は好きでした。お義父さん。
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」