あめゆきをとって

仮題と下書き

コッペパン

I君のことは、いつかどこかで書いたはずだ。けれども見つからないのでまた書く。

I君は、小学一年の時同じクラスだった。

昔の写真や文集の類を全部捨ててしまったので確かめようが無いが、入学式の写真の記憶が残っている。

I君と私は前列で、二人とも不安そうな表情をして写真に収まっていた。後方には保護者も並び、I君のお母さんは着物姿だったと思う。

二年か三年か、はたまた四年生かもしれない。申し訳ないけれども覚えていない。

I君のお母さんが亡くなった。

I君は二週間くらい学校を休んだ。

私達は自分の母親が突然いなくなる事を想像し、心の底からI君を気の毒に思った。

元々大人しかったI君は、学校に戻ってからも元気がなかった。

聡明な、または気の利く一部の女子が、I君にそっと励ましの声をかけるのを見たが、私は何もしなかった。

全校生徒が千人を超える、マンモス小学校だった。土地柄なのか、時代のせいか、男子と女子が仲良く遊んだりはしない。

楽しそうに話すだけで、アベックだ、アベックだと囃し立てるような風潮があった。

そして六年の時、I君が登校拒否になった。当時の担任は、学校一厳しいと噂のK先生だった。

私達の学年は荒んでいて、毎年どこかのクラスが学級崩壊を起こしていた。

四年生の時は、女の担任だった私のクラスが荒れた。五年生では別の女教師が担任で、私への苛めを放置された。

だから、K先生が担任になり「K先生ならば安心」と、母が喜んだ。姉も

「怖いけどいい先生だよ。言う事を聞かない男子にはものすごく怒るけど、女子には優しいから大丈夫」

と言った。実際に先生は、とても厳しくとても優しかった。そして前年までの男子の授業妨害や陰湿な女子の苛めが、嘘のように消えた。

ただ、I君だけが学校に来ない。

当時は誰かが欠席すると、家の近い子が給食のパンを届ける事になっていた。

I君の住む官舎に一番近いのは、私だった。

タンポポちゃん、頼むよ」とすまなそうに笑いながら、K先生は私にコッペパンを託した。

私は、無知で世間知らずな子供であったから、官舎というものを理解していなかった。

四角く白い謎の物体が並んだ不気味な建物よりも、小さくても一戸建ての方が偉いような気がしていた。

暗号のような部屋番号を頼りにチャイムを押すと、きれいな女の人が出てきてパンを受け取った。

奥に人のいる気配はするけれど、I君は玄関に出て来なかった。

母と従業員達は、暇さえあれば噂話ばかりしているのだが、それを子供の耳に入れない事に関しては徹底していた。

だから私が

「I君ちに女の人がいたの。きっと、新しいお母さんだよね」

と言うと、母は驚きもせず少し困ったような顔をして

「まだ小さい妹さんもいるから、I君のお父さんは、子供達に母親が必要だと思って再婚したんでねえべかなぁ」

とだけ言って、私を追い払った。

母達の話に耳をそばだてていると、相手と歳が離れているだの再婚するのが早過ぎるだのと姦しかった。

そして、妹の方は新しい母親にすぐ懐いたのだが、反抗期のI君がかなり大変だという事情がうっすらと解った。

私のパン配達は、どれくらい続いただろう。

「いつもごめんね」と、応待していたお母さんの顔から、笑みが消えた。

ある日、お母さんではなくお父さんが出てきたので驚いた。お父さんは、大きな声でI君を呼びつけた。

「お前のためにわざわざ持って来てくれるんだ。出てきてお礼を言いなさい」

I君は、恐る恐る隣の部屋から顔を出した。

「‥ありがとう」

「聞こえないだろう。もっと、ちゃんとしなさい!」

激昂するお父さんに怯えるI君と、やめてやめてと懇願し泣き出すお母さん。

お礼なんかいいのに。私は先生に言われて来ているだけなんだから。

何だ何だここは地獄ですかと思うけれど、怒鳴り散らす父親なんか、自分の家で見慣れている。

見慣れているはずなのに、この地獄は私の知らない修羅だった。

怖かった。

この事は友達にも、先生にも、母親にさえも言えなかった。

その翌日「もうI君にパンを届けなくてもいい」と、K先生が私に言った。

I君の親から私に申し訳ないと連絡があったらしい。

タンポポちゃん、今までご苦労だったね」

私はほっとした。

「もう行かなくていいんだね。よかったねえ」

「全くもう。最初からパンなんか届けてやらなくてもいいのにね」

「あんな不味いパン、休んでる日に誰も食べないよ」

と、クラスの女子達が口々に言った。皆が私を可哀想と思っていたのだった。

パンを届けなくてもいいとなると、I君の存在は次第にクラスから消えてしまった。

それまでは、昨日はどうだった?会えた?などと様子を聞かれていたのに、誰もI君を話題にしなくなった。

先生が私にパンの配達をまた頼んでくれたら、思い切ってI君に話しかけてみようか。

私だって学校は好きじゃないけれど、ずっと家にいるよりはましだと思う。

学校においでよ。誰もI君を嫌な目に合わせたりしないよ。それはK先生が、絶対に許さないから。

学校に、行こうよ‥

私は一人で何度も練習してみた。

私なんかが誘っても、きっと来ないだろうな‥と思いながら。

 

その後、I君はお父さんの転勤でどこかに転校した。

最後の日にI君は、両親と共に登校し、私達にお別れの挨拶をした。

少しはにかんで、でも真っ直ぐに前を向き、大きな声で挨拶をしていたからK先生の目に光るものがあった。

I君のお母さんも、泣いていた。

それっきり、I君の事は何も知らない。

あの官舎に住んでいたのは、所謂エリートの家族だと知ったのは、ずっと後になってからだった。

 

 

 

 

 

不登校君に届けコッペパン明日は来てねと言えないままで(タンポポ

 

第6回 氷川短歌賞選評会 テーマ詠「パン」