あめゆきをとって

仮題と下書き

犬がしんだ。ただ、それだけのこと

2016/01/25〜2016/02/01

 

犬が死んだ。

犬がいなくなればいいと言っていた私に、罰を与えるかのように

本当に、犬が死んだ。

 

犬が死んだらどうしようといつも考えていた。

考えておかないとそうなった時どうしていいか解らないだろうから。

そして、いつも考えていたのに実際に犬が死んだらどうしていいのか解らなかった。

私は犬が死んだ時の事を、すぐに忘れてしまうだろう。

もう既にいくつかの記憶が曖昧になっている。

忘れる事で、自分を守ろうとしているのだと思う。

だから、記録のためにここに書いておく。

犬の事を忘れてしまいたくないから。

 

 

Lを我が家に連れて来たのは、2006年6月。

時々消耗品を買いに行っていたペットショップが明日で閉店、在庫一掃をしていると知り、買い物に出かけた。

ドッグフードやペットシーツだけでなくガーデニング関連も扱っていたので、安い鉢花をたくさん買おうと思った。

そのショップでは、春頃からパピヨンの牡と牝が売られていた。どちらも可愛い顔立ちをした兄妹で、牝の方は早々に売れてしまった。

残った牡犬を「買いませんか」と行く度に言われ、夫はその気になりかけたが、先住犬との相性を見ようとして近づけたら牡がすぐに咬みついてきた。

驚いた先住犬は店の外に飛び出して逃げ、店員に捕獲されなければ危うく車に轢かれるところだった。

こんな凶暴な犬などいらない。私はずっと反対した。

でも、勝手にLという名前を付けたこの牡犬が売れたかどうかが気になって、ショップに行く度に確認するようになっていた。

閉店の前日、どうか、もういませんようにと祈る気持ちで見に行くと、Lがまだいたので落胆した。

Lは店内に放たれて、落ち着きなくビュンビュンと走り回っていた。

店にはLの他に犬が5、6匹と猫が10匹位まだ売れ残っている。

幾組みかの家族が犬猫を見ながら、どれを飼おうかと検討していた。

Lも大人しくさえしていれば可愛いいのに。あんなガチャガチャした犬、誰も飼おうとは思わないだろう。

 

「もう帰る」と言っても、夫は「Lを連れて帰ろうよ」と言う。

玩具が欲しいと言って聞かない幼児と同じである。

何時間そこにいたか解らない。牝の甲斐犬が売れ、残っているのはLと、猫が数匹だけになった。

驚いた事に「お金はいくらでもいいので、どうかLを連れて帰って下さい」と、店長さんに頭を下げられた。

「いくらでもいいって…もし、うちが連れて帰らなければ、この犬はどうなってしまうのですか?」

店長は黙っていた。そして

「親会社に突然『閉店する』と言われて、自分達も明日からどうなるのか全く解らないのです」

と答えた。

だから、売れ残った犬の行き先など知る由も無いのか、それとも言えないような行き先だという意味なのか、私には解りかねた。

「3万円位でいいのなら…」

と言うと

「いいですいいです。良かったな〜L。あ〜本当に良かった」

 

 

こうしてLは我が家の犬になり、それから9年半、あっという間に月日が流れた。

本当に、あっという間だった。

 

 

先住犬の里親になった時とは比べ物にならない程、Lは我が家の生活をかき乱した。

夫はおっとりして静かな牝の先住犬よりも、ガチャガチャしたLの方が犬らしくていいと可愛がった。

「男同士ふたり旅だ」

と言って、突然キャンプに出かけたり、ドッグスポーツに参加したりした。

でもその後、牝の捨て犬を保護してからはそちらばかりを可愛がった。捨て犬も、拾ってくれた夫にだけよく懐いた。

いつの間にか、私がLの担当になっていた。

Lは家でも外でも喧嘩ばかりした。私は、公園やドッグランでいつでも謝って回らければならなかった。

どの犬も静かにしているドッグカフェに、Lが入っただけで店内が騒然となった。

『素敵で楽しい、犬との暮らし』から、どんどん遠ざかっていく。

ダメな飼い主だと後ろ指をさされているようで、オフ会にも行けなくなった。

けれども、Lは朝から晩まで私にベッタリのマザコン犬だった。次第に私も、Lが可愛いと思うようになった。

 

あんなに連れて帰るのが嫌だったのに。

連れて帰った事を、毎日後悔ばかりしていたのに。

祖母が元ヤクザの末っ子を、一番溺愛したのと同じように私も、ビビリなくせに猛犬で、手に負えない程おバカなLが可愛くて可愛くて仕方の無い、バカ飼い主になっていた。

 

 

犬が死んだ。

 

 

治療に軽い麻酔をかけるため、半日入院となった。

夕方、夫の車で迎えに行くと「重篤な状態」と言われ、気が動転した。

Lは前足に点滴の管を付けられ、それを口で外さないようにエリカラを付けていた。

私が来たのが解ると、少し興奮気味に足をばたつかせた。

「暴れちゃダメ!点滴が取れちゃうよ」

私は急いで車に戻り、Lが今日帰れない事、命に関わる病気で危険な状態な事を、夫にまくし立てた。

夫は訳が解らない様子でなかなか車から降りようとせず、私を苛つかせた。

Lは、夫の前でお座りをして見せた。

エリカラ姿のLを見て「生きているじゃないか」と夫が言い、私を更に苛つかせた。

「元気そうに見えるだけで、本当はそうじゃないんだって…」

私の不安が伝わらないように、明るい声でLに励ましの言葉をかけ、早々に病院を後にした。

連れて帰れないのに、ここから出して出してと暴れるLを正視出来なかった。

Lは気が強く、大型犬にも咬みつきに行くほど凶暴だったが本当はびびりで、病院が大嫌いなのだ。

1歳になる前の、去勢手術で余程痛い目にあったらしい。

予防接種に連れてきても、病院の入り口を見ただけでブルブル震え、ヒャンヒャンヒャンヒャンと情けない声で鳴き続ける犬だった。

Lちゃん。怖いだろうな。

もし治せない病気なら、どうせ、どうせ死んでしまうのなら

連れて帰ろう。家で看取ろう。

きっとLも、そうして欲しいと思っている。

明日は何時から面会なのだろう?

朝になったらすぐに病院に電話をして、退院させよう。

泣けて泣けてどうしようもなかった。まだ死んでもいないのに。

 

翌日、夫は仕事で車を出せなかった。

私は自転車で迎えに行く事にした。

病院に置いてきたキャリーは自転車の前かごに入れて、Lは寒くないように抱っこ紐で抱いて、ゆっくり歩いて帰ればいいだろう。

出かける準備をしていると、私の携帯が鳴った。

病院からだった。

余程の事がない限り、病院から電話がかかってくる事はない。

覚悟を決めて、電話に出ると

「あまり良くない。すぐ会いに来て下さい」と、院長が言った。

私は慌てて持病の薬を流し込み、家を飛び出した。

家に帰ろう。母ちゃん今行くよ待っててL。

病院まで自転車だと30分はかかる。

慌てふためき急いで走っていたが、次第に疲れてきてペダルを漕ぐのがゆっくりになる。

荒川の土手の上を走りながら、山茶花の枝に緑色の鳥の尾が見えた。

私は、自転車を止めた。

ウグイス?それともメジロ

顔を見なければ解らない。鳥は奥の方に潜り込んだ。数羽が蜜を吸っているようで、あちこちの枝が揺れていた。

そうだ、鳥など見ている場合じゃない。急がなければ。

帰りにここで、Lと一緒に鳥を探そう。Lもきっと、鳥が見たいだろう。

私はまた自転車を漕いだ。

 

病院に着くと、受け付けの女性が、私をLのいる場所へと急き立てた。

Lは、横たわっていた。昨日よりもぐったりとして。

「危険な兆候があったのでお呼びしたのですが、今やっと落ち着いています。このまま3、4日、治療に耐えてくれれば持ち直す。それは、この子次第です。

しかし、脳出血が疑われる症状が出ています。非常に厳しい状況なのです」

そして「側にいてあげて下さい」と言われた。

Lは、ここで死ぬのだろうか?私はここで、Lの死を看取るのだろうか?

嫌だ。家に連れて帰る。そう思っても、口には出せなかった。

Lは眠そうにゆっくりと目を閉じかけては、ハッと目を見開いた。足は力なく伸びたままで、立つ事も座る事も出来そうになかった。

これではキャリーに入らない。抱っこ紐にも入れられない。

明後日まで頑張ってくれたら、夫の車に乗せて帰れる。

「もういいよ。苦しいのは嫌だよね。ゆっくり眠っていいんだよ」と思っても、目を見開いて私を凝視するLは、まだ死にたくないのだと思った。

そして、どうしてこんな目に遭っているのかと、私以上に混乱しているに違いない。

私が見えているのか、声が聞こえているかも解らない。いつものLの表情ではなくなっていた。

私は、Lの肉球をずっと触っていた。

Lは肉球を触られるのが嫌いで、いつもならヤメテと言わんばかりにすぐに足を引っ込めたが、それすらもうしなかった。

きっと声は聞こえているだろう。何か話そうとしても、声はかすれ、震えて泣き声になった。

ダメだダメだこんなんじゃ。Lが怯えてしまう。

Lの下の檻には、大きな黒いレトリバーが横たわっていた。あまりにも動かないので心配になり暫く見ていると、お腹が微かに動くのでホッとした。

Lの隣はテリア系の中型犬で、そいつが絶えず動き回りギャンギャンギャンと吠えていた。

これじゃあLが怖がるよね。家に帰ろう。

母ちゃんがずっとずっと付きっきりで面倒を見るよ。

 

そう考えていた時に、私の携帯が鳴った。

ブロガーイベントの参加依頼だった。急なキャンセルがあって、その替わりらしい。

とても行ける状態ではないので、丁重にお断りした。

ちょっと勿体無かったね。でもいいんだよ。

私の代わりはいっぱいいるもの。でもLの母ちゃんは、私だけだからね。

電話になんか、出なきゃよかった。

 

そうこうしているうちに、午前の面会時間が過ぎていた。

別の犬を診に、女医が入ってきたので

「連れて帰れません…か?」

と聞くと、とんでもないと一蹴された。

私は午後の面会時間まで、昼食と携帯の充電をするため病院を後にした。

「面会時間ぴったりに来るから、待っててね」

 

Lちゃんはまだ、若いもの。運動神経抜群のアスリート犬だったもの。

きっと、この山を乗り越えられるはず。

そう信じて疑わなかった。

犬が死んだ。

犬が死んだ。私のせいで。

 

まさか こんなに あっけなく

Lが 死んで しまうなんて

大好きな

大好きな

大好きな

私のLが 死んでしまうなんて

 

 

 

 

どうして あの時 気付いてやれなかったんだろう

 

ううん 本当は 気が付いていた

いつもと違う って感じていた

 

 

でも大丈夫 いつものLだよねって言うと

大丈夫だよ母ちゃん ほらほらいつもの僕だよって

Lはいつもと同じように悪戯をした

椅子に座る私の膝にも 軽々と飛び乗った

 

ごはんも頑張って食べたのだけれど…

 

 

3日連続で、少し残していた。

ついこの間まで、真っ先に全部平らげ、他の犬のごはんを奪いに行くような犬だったのに。

そのお陰で捨て犬は、Lに取られないようフードを丸呑みするようになり

先住犬は自分の皿を奪いにきたLと、毎晩壮絶な喧嘩をした。

ひっくり返って床中にばら撒かれたフードを、先住犬とLが喧嘩している間に捨て犬がせっせと拾い食いする。

そんな殺伐とした食事風景が、日常であった。

それなのに、食べるのが一番遅くなり、先に食べ終えた先住犬がLの皿を虎視眈眈と狙うようになった。

急にどうしたの、Lや。

フードをぬるま湯でふやかすと食べたが、翌日はそれも食べなくなった。

缶詰のビーフを混ぜてやると、よく食べた。

美味しいのなら食べるのか。ただの我儘だね。

これからフード代が大変だなぁと思いながら、Lにだけビーフを大盛りにしていたら

「Lばかり贔屓して」と、夫と娘に文句を言われた。

「Lちゃんは痩せっぽちだから、栄養つけなきゃ」

そう言って、他の犬に邪魔されないように付きっきりで食べさせた。

Lは、もりもりと食べてくれた。

もう少しで完食というところで、器に真っ赤な血が付いた。

私は驚いて夫を呼んだ。夫がLの口を開けてみると、下の前歯から出血していると言った。

 

そういえば…

 

1週間前位から、犬の毛布や床や椅子にぽつんと血痕があった。

最初は牝の生理が始まったのかと思っていた。

Lはよく咬みつく犬だったから「喧嘩でもして口の中を切ったのだろう」と夫が言った。

でも、ここ数日のLは大人しかったし、私も体調不良で家にこもっていて、そんな激しい喧嘩を見ていなかった。

ザワザワと、不吉な予感が襲ってくる。

「明日、病院に連れていくから」

 

半年前、Lは全身麻酔で歯石取りをして、グラグラな歯を抜いたばかりだった。

またそれをやるとなれば、3万円かかる。嫌だなあ、でも仕方ない。治さないとLがごはんを食べられない。

Lはいつも、私の布団の横で寝ていた。

「今夜はケージに入れた方がいいんじゃないか?布団に血が付くぞ?」

「付いたら洗うからいいの」

そして、朝になった。

毎晩2回は必ず、犬達のトイレで目を覚ますのに

この日に限って犬も私も、朝になるまで目覚めなかった。

Lは私の横に座り、ションボリしていた。

母ちゃんゴメン、汚しちゃった…

という目で私を見ていた。

起き上がった私は、悲鳴をあげた。

掛け布団が、大量の血で真っ赤に染まっていた。

 

すぐ病院に行こう。一番目に診てもらおう。

夫は一日中予定が入っていた。念のために聞いてみたが、やはり私が連れていくしかなかった。

ペットキャリーにフリースの毛布を敷いて、Lを入れた。

入れてから(服を着せないと寒いかも…)と心配になったが、あまり動かして出血させるより一刻も早く連れて行こうと思った。

Lはフサフサな毛皮を着ているんだもの、大丈夫だよね。

母ちゃん、頑張って急いで走るからね。

キャリーを自転車の荷台に括り付け、病院に向かった。

やはり冬の朝は寒い。

私は必死にペダルを漕いでいるから寒くはないけれど、Lはきっと寒かった。

 

どうしてあの時、Lの服を取りに戻らなかったのだろう。

どうしてあの時、タクシーを呼ばなかったのだろう。

 

「タクシーを使えば」と夫が言うのに、シートを血で汚してしまったら大変だからと聞かなかった。

Lが不安にならないよう荷台に声をかけながら、自転車を漕いだ。

Lちゃんは、元気な子。絶対絶対大丈夫〜♪

と、適当な歌を歌って励ました。

そして、私にしてはスムーズに病院に着く事が出来た。

いつもなら曲がる道を間違えて、迷い彷徨うのが常だったから。

 

待合室には犬と猫が1匹づつ、順番を待っていた。

Lは、ぶるぶる震える事もなく、ヒャンヒャンと泣きもせず、キャリーの中に座っていた。

いつものLじゃない。

早く、早く、Lを診て欲しい。

Lの番になり、キャリーの蓋を開けてもLは出てこなかった。

いつもなら蓋を開けろ開けろと大騒ぎして、開けるとすぐに診察室の外へ逃げようとするのに…

呼んでも出てこないので、キャリーの天蓋を外した。

抱きかかえて診察台に乗せると、Lは四つ足で踏ん張って立ち、あまり動かなかった。

「体重3.2キロ」と、院長が言った。

口から出血した事を伝えると、院長はLの口の中を見た。

「どこだろう?どこからの出血かな?ああ〜、これだな」

 

院長は、奥歯から出血していると言った。

 

…奥歯?昨日は前歯だと夫が言ったのに。

 

どうして私はこの時、院長にそう言わなかったのだろう。

 

最初の犬を飼ってから10年間、この病院にかかっていた。

我が家からはかなり遠かったが、他の区からも患畜が来る程、評判の良い病院だった。

だから、夫の見立ての方が間違っていたか、奥歯からの血が前に回ってそう見えたのだろうと思い、黙っていた。

「この奥歯を抜いて、他の歯もクリーニングしましょう。軽い麻酔をかけてやりますので、夕方迎えに来て下さい」

 

Lはここで去勢手術と歯石取りをして、これまでに3回麻酔をかけている。

今回も大丈夫だろう。これでもう安心だ。

 

私は、スーパーに寄って買い物をし、夕食を作り、血で汚れた布団カバーを洗濯して夕方まで過ごした。

そろそろLのお迎えに行こう。早めに行かないと、ますます寒くなってしまう。

出かけようとしていたら、夫が帰宅した。

予定よりも早く、仕事が終わったのだった。

私は夫の車に乗り込んで、病院にLを迎えに行った。

 

 

2016年1月22日 午後3時過ぎ

 

病院からの連絡を受けて、王子駅前からバスに飛び乗る。

逆方向からのバスに乗ったのは、初めてだった。病院近くのバス停で降車したはずなのに、病院がどこか解らなかった。

四つ角に立ち、360度ぐるりと見回した。

見えない何かの力に導かれるように走ると、見覚えのある通りに出た。

 

Lちゃん。母ちゃん来たよ。

 

 

受付の女性が私を見ておろおろしながら「直ぐ中に」と言った。

ドアを開けると、診察台の上に犬がいた。でも、その犬は別の犬だった。

 

あれ、Lは?Lはどこ?

 

診察室の奥にあるICUに、院長とLがいるのが見えた。

院長は目で私に(早く入るように)と促した。

 

Lちゃん!

 

 

そこには、戦慄の光景があった。

Lの四肢はぴんと伸びきって、宙に浮いていた。

背骨が、こんなになるかしらと思うほど弓なりに反り返り

見開かれた両眼は、眼球が今にも飛び出そうだった。

けれどもその目はもう、何も見えてはいないようだった。

口を大きく開き、歯を剥き出しにして

その口元に透明の酸素マスクが、院長の手によって嵌められていた。

Lは、ハッハッ、ハッハッと荒い呼吸をしながら苦しみ悶え、とても正視できるものではなかった。

それでも今ここで、私が目を背けるわけにはいかない。

 

「先程、容体が急変して、心臓が止まったのです。

でも『お母さんが今来るぞ。頑張れ』と言って処置をし、L君は蘇生しました。

それから直ぐにご連絡したのです」

 

 

 

サッキ シンゾウガ トマッタ?

 

 

私の心臓こそ止まりそうになった。

Lちゃん、お前ったら、一度死んじゃったのかい?

バカだね。それでまた戻ってきたの?

母ちゃんに、お別れを言うために…

 

スゲーなお前…

 

でもLの姿は、生き返りたくて生きているとは到底思えないものであった。

医学の力で無理矢理に生かされている、そんな気がした。

これでも生きていると言える?

こんなLは、Lじゃない。

可哀想。

Lが、可哀想だ。

 

あん…らく………

 

心の中を、そんな言葉がよぎった。

まるでその心の中が聞こえたかのように、院長が強い口調で言った。

 

「ここから治っていく子も、いるのですよ。この、辛い治療を乗り越えてくれさえすれば…

L君は、頑張っている。生きようと しています」

 

そうだよね。

安楽死を選択するなんて、出来ない。

私が終わりにするなんて、出来ない。

頼めばこの院長ならきっと、言う通りに処置してくれるのだろう。

しかし夫はともかく、娘がそれを許してくれない。

Lだって、このまま死にたくはないだろう。

せっかく戻って来てくれたのだもの。

Lちゃん。頑張れ。

頑張れ。

 

「苦しそうなのは、高濃度酸素を目一杯送り込んでいるからなのです」

院長が、ゆっくりと様子を見ながら酸素マスクをLの口から離した。

Lはハアハアしていたが、険しかった表情がほんの少しだけ穏やかになった。

 

「よし、これから一般病室に移します。お母さんは側にいてあげて下さい」

 

Lは二人のナースに運ばれて、午前中にいた檻とは別のところに寝かされた。

周りには猫がいたようで、時おりニャーとか細く鳴いた。

檻の蓋は開けたままで、Lを触る事が出来た。

Lはごろんと横たわり、目の焦点が合っていない。きっと、何も見えてはいないのだろう。

声をかけても反応しなかった。

呼吸はしているものの、ハァッ…ヒッヒッ…ハァッ…と不規則であった。

 

Lちゃん。

苦しいね。

これじゃ、今夜も病院にお泊まりだね。

母ちゃん今日は帰らないで、ずっとLちゃんとここにいようかな。

ダメって言われちゃうかな?

Lちゃん。

 

頑張れと励ますのは辛かった。

これ以上、これ以上Lがどう頑張ればいいと言うのだろう?

頑張らなければならないのは、自分の方だった。

涙でLの姿が見えなくならないように。

声が、震えてしまわないように。

 

 

 

この静かな時間は、長くは続かなかった。

突然、Lの表情がハッと正気に戻ったようになった。

体勢をお座りにしたいかのように身体を捻らせたが、起き上がるには力が足りない。

2、3度起き上がろうとして上手くいかず、Lは足をバタつかせた。

 

あっ、Lどうしたの?起きたいのかい?

暴れないで

 

Lが前足をバタバタバタと、走り出すような動き方をしたので

私は、Lが元気になってきたのだと勘違いをした。

でもそうではなかった。

Lの身体の中で何かが起きて、Lはまた苦しみだしたのだ。

 

Lが…Lが…

 

誰かを呼ばなくてはと思う間もなく、ナースと院長が飛んできた。

Lは全身を痙攣させ、踊るようにゆっくりと変な動き方をした。

まるで、Lに悪霊が乗り移ったように。

 

ああ、Lが

Lが死んでしまう。

こんなに苦しみ悶えて、Lが死んでしまうの?

全く、神も仏もありゃしない。

Lが一体、何をしたというのか?

 

あまりの惨たらしい有り様に、私は怯んだ。

でも目を背けてはダメだ。

Lの最期を、見届けてあげなければ。

 

Lは何度も大きく痙攣し、ああもうダメだと私はここで諦めてしまった。

Lちゃん。

死んじゃうんだね。

もう、お別れなんだね。

母ちゃんを置いて、逝っちゃうんだね。

そんな怖い顔…やめてよ…

 

 

安らかに、眠るように逝くものだと思っていたのに

Lは両目をカッと大きく見開いて、大きな口を開けていた。

呼吸が止まり、口から長く伸びた舌が、ダラリと力なく垂れ下がった。

 

Lちゃん!

 

 

院長はLに聴診器を当てて、苦しそうな声を絞り出すようにして

「心臓が、止まりました」

と言った。

そして

「蘇生を、させますか?」

と聞いた。

私は首を横に振った。

「もういいです。もう、Lを早く家に連れて帰りたい」

 

心臓が止まり、臨終を告げられた後もLの身体は時々大きく動いて

私はそれが心底恐ろしかった。

Lの体内に残っている薬品の成分によって、亡くなった後も少し身体が動くのだと

院長が言った。

 

「L君を助けてあげられず、申し訳ありません」

院長は、私に深々と頭を下げた。

私はもう何もかもが信じられない。

院長の辛そうな言い方も、嘘臭く聞こえた。

マニュアル通り、通り一遍だと思った。それでも

「最期に立ち合わせていただき、ありがとうございました」

とだけ言って頭を下げた。

 

それは、本心からの感謝の言葉であった。

もしもLの今際の際を見ていなかったら、私は取り乱し、何をしでかしたか解らない。

 

 

Lが死んだ

私の大切な大切な大切な

大切なLが死んだ

 

私はLを連れて、1秒でも早く此処から立ち去りたかったが

「L君をどうやって運びますか」と院長に聞かれ、途方に暮れた。

 

どうしよう…

 

退院の時、入れて帰るつもりだった、犬用のショルダーバッグ。

このバッグを斜めがけにして、自転車を漕いだ。

バスや、電車に乗る時にも使った。

これがお出かけ用なのを知っていたから、犬達はこのバッグを見たただけで大騒ぎになった。

Lは真っ先に飛んできて、ちゃっかりバッグの中にもぐり込んだ。

そして「母ちゃん、早く!早く行こうぜ!」と、私を急かすのだった。

 

死んでしまい、ダラリと伸びたLの身体が、これに入るだろうか…

 

院長がバッグの底にフリースの毛布を敷いて、Lの手足を上手い具合に収めてくれた。

その間に、会計の手続きをした。

明細も見ずに、カードで支払った。

早く、早く此処を出て行きたかった。

 

でも……

 

「死んだ犬をどうしたらいいのか解らない」と言うと、受付の女性がペット葬儀のパンフレットをくれた。

それを手提げバッグにぐしゃっと押し込み、Lの入っているバッグを斜めがけにした。

そんな私を見て、受付の女性が狼狽えた。

「箱も、ご用意出来ますが…」

「要りません。自転車だから運べないし」

「ええっ?自転車で帰るのですか?お車の手配をしましょうか?」

悲痛な顔をして女性がそう言ったが、私は大丈夫ですと辞退した。

それは、Lの安定を慮っての言葉だったかも知れない。

でも私には、もう何もかもが白々しくて胡散臭くて、猿芝居を見せられているような気持ちだった。

 

病院の出入り口で誰かが見送ってくれたが、振り返りもせず自転車を漕ぎ出した。

 

Lちゃん。家に帰れるよ。

少しだけ、我慢していてね。

 

私はふらふらとよろけながら、一生懸命にペダルを漕いだ。

慎重に走ろうと思うのに、Lの入ったバッグが振動で揺れた。

バッグの中で、Lはどんなになっているのだろう。

ごめんね。ごめんね。

痛くないよね?苦しくないよね?

だって、もう

だって、もう

しんで

 いるん だ

       もの

 

 

とてつもない喪失感に、打ちのめされていた。

もう、戻らない

どんなにどんなに、望んでも

Lはもう、戻らない

 

大切なものを失う前の時間に戻れたら、どんなにいいだろう。

過ぎ去った時間は、巻き戻せない。

Lがいた日々には、もう二度と戻れないのを知っていた。

 

L

可哀想なL

私のせいだ

私のせいだ

ごめんね

ごめんね

私のせいでLが

Lが

Lが

 

荒川の長い土手の上を、私はギャーギャー泣きながら走った。

暖かな陽射しが川面を照らして、眩しく光っていた。

Lと、花火を見た土手。

L、起きてよ。

起きないと、もう花火も見れなくなっちゃうよ?

遠くに散歩をしている犬が見えた。

ふと(Lも、バッグから出してあげたい)と思ったが、やめた。

(死んだ犬を抱いた女がふらふらと歩いていたら、気持ち悪いだろうな……)

 

Lは眠っているだけ。

家に帰ったら、目を覚ますかも知れない。

そんな事、起こるはずがない。

いろんな思いが頭の中をグルグルと駆け回っていた。

 

Lを飼い始めてまだ間もない頃。

夫が犬達をドッグランに連れて行った。

その日私はパートに出ていた。休憩の時に、夫からのメールを読んだ。

 

『Lが大型犬と衝突して倒れた。口から泡を吹いて、意識がない』

 

私は(バカじゃないの…)と、夫にもLにも呆れてしまった。

Lらしい死に方だなぁと思い、涙も出なかった。

寧ろ相手の大型犬に、ご迷惑をかけて申し訳ないと思った。

帰宅すると、Lはぴんぴんしていた。私は、それを見て拍子抜けした。

Lは病院に向かう車の中で意識を取り戻し、病院でもケロリとしていたらしい。

結局、ただの脳震盪だったが「倒れた時は、もうダメだと覚悟した」と、夫が言っていた。

 

不死身のLちゃん

今度もまた…

なんて無理だよね。

さっきまでの事が、悪い夢ならいいのだけれど…

 

現実を受け入れようとする私と拒絶する私が鬩ぎ合う中で、受け入れる私がハッと気付いた。

 

この土手のずっと先の方に、Mちゃんの家があるはず…

 

 

犬を飼い始めた10年前、私は犬ブログを書いていた。

犬とあちこちに出かけた事や、日常の出来事を面白おかしくふざけて綴った。

私の同僚と、田舎の友人家族が読者だったが、2011年の震災以降に更新を止めた。

被災して大変な時に、犬と遊び歩いている話は不愉快だろうと思ったからだ。

そのまま放置していたブログに、一昨年の12月、コメントが入っていた。

ペットショップでLと一緒の檻にいた、兄妹犬Mちゃんの飼い主さんからだった。

私のブログを偶然見つけ、兄妹犬に間違いないと確信し、ぜひ会いたいという内容であった。

 

そして、昨年の4月、LとMちゃんの再会が実現した。

誰かれ構わず咬みつくLが、Mちゃんを咬まないだろうかと心配したが、大丈夫だった。

Mちゃんの飼い主さんも「よその犬に匂いを嗅がれるといつも怒るのに、Lには怒らない」と、驚いていた。

LとMちゃんは顔立ちがよく似ていて、2匹が並ぶととても可愛らしかった。

その1度きりしか会っていないのだが、SNSでは繋がっている。

 

Lの死を知らせたら、Mちゃんの飼い主さんはショックを受けるだろう。

でも……

Lのように手遅れにならないように、小さなサインを見逃さないようにと、伝えておかなければならない。

 

 

家に帰るとすぐに、バッグからLを出してあげた。

身体はふにゃりと柔らかく、当たり前だけれども息をしていなかった。

号泣しながらLの身体を整えた。

見開いた目を閉じさせようとしても、瞼はほんの少ししか閉じなかった。

私とLのただならぬ雰囲気に怯えて、他の2匹が遠巻きにこちらを見ている。

私はそれに腹を立てて、泣きながら2匹を怒鳴りつけた。

 

Lちゃんが、死んじゃった。

Lちゃんが、死んじゃったんだよ。

解んないの?

Lちゃんがね、死んじゃったんだよ。

もう、動かないんだよ。

もう、散歩も出来なくて

もう、ごはんも食べられなくなっちゃったんだよ。

 

冷たくなったLの身体を、私は泣きながら撫でた。

いつか犬が死んだらどうしよう…

犬達がまだ元気なうちから、私はこの事に怯えていた。

それは、死んだ犬が怖くて、きっと耐えられないと思うからだった。

だけどLの亡骸は、ちっとも怖くなかった。

恐ろしいのは、Lがもう生き返らないという、絶望感だけだった。

 

興奮して暴れていた2匹の犬達は、いつの間にか静かになって、離れた場所から私とLを見ていた。

そして、先住犬が先頭に立って、少しずつ近付いてきた。

Lの身体の匂いを、先住犬が恐る恐る嗅いだ。

ほんの数秒、フンフンフンと匂いを嗅ぐと、先住犬は直ぐにLから離れた。

それに倣うように、捨て犬もLの匂いを嗅いで、速やかに離れていった。

そして2匹は何かを感じ取ったように、二度とLに近寄らなくなった。

 

 

私は昔、似たような事があったのを思い出していた。

小学校高学年の頃だ。

野良の仔猫に餌をあげたら、懐いて毎日来るようになった。

仔猫は私から餌を貰うと、商売をしている実家の店先で丸くなって休み、店を閉める頃どこかへ帰っていった。

やがて仔猫は、母猫や兄弟猫まで連れて来るようになった。

私は嬉しくて、店先で猫が寛いでいるのを眺めていた。

友達もいなくて野良猫と遊ぶ私を憂いて、母は何も言わなかった。

でも、食品を扱う店なのに野良猫がいるのを不快に思う客がいて、次第に「猫をどうにかしろ」と言うようになった。

仕方なく猫を追っ払ったが、暖かい場所と餌に味をしめた猫は、翌日にはまた戻って来るのだった。

そんなある日、私が店の前に立っていると、仔猫が向こう側の歩道を歩いていた。

仔猫も私に気が付き、目が合った。

次の瞬間、仔猫はこちらに向かって勢いよく走りだした。

そして、車道の真ん中で車にはねられ、仔猫の小さな身体はボーンと弧を描いてぽとりと落ちた。

茫然と立ち竦む私の後ろから、母が車道に走り出て、ぐったりとした仔猫を抱えて戻ってきた。

仔猫は即死で、口から血を滴していた。

いつもの愛らしい顔ではなく、化け猫のような恐ろしい顔に変わっていた。

怖かった。

母は、死んだ猫を新聞紙で包みながら

「おめさんが、猫を呼んだのすか?」

と聞いた。私は

「呼んでいない。けど、目が合ったの。そうしたら、こっちに向かって来た」

と、項垂れた。

呼んだのと同じだった。

店にいた母猫と兄弟猫が、死んだ仔猫に近寄って来て、フンフンフンと匂いを嗅いだ。

嗅ぎ終わると、母猫と兄弟猫が私をギロリとひと睨みした。

「お前のせいだ」と、その目が言っていた。

そして、寂しそうに何処かへ行ってしまい、猫達はその後、一匹も姿を見せなくなった。

 

 

動物はきっと、仲間の死が解るのだろう。

そして、その忌わしい死から、自ら離れようとするのだろう。

 

 

先住犬と捨て犬もそれっきり、Lの存在を無視していた。

2匹の興味はもう、Lの枕元に供えたどら焼きだけであった。

私だけがいつまでもいつまでもLの亡骸を抱いていたかった。このまま気が狂ってしまえばいいと思った。

私も、Lの所に 行きたい…

 

でも、Lがそれを望むはずがない。

「悲しんでいる飼い主の事を心配して、犬がもっと悲しむよ」

犬を亡くした友人達に私がかけた、その呪文のような言葉を

今は自分自身にかける番だった。

 

Lが大嫌いだったブラッシングも、抵抗ひとつしないから毛玉が全部取れて綺麗になった。

この身体を炎で焼いてしまうのかと思うと身震いがして、涙がいくらでも出た。

でも動物の亡骸は、48時間を超えると腐敗が始まるという。

焼いて骨にして、自然に還すしかない。

Lの身体はもう、魂のない抜け殻なのだから。

 

 

私はふた晩Lと添い寝をし、2016年1月24日(日) Lを動物霊園で見送った。

霊園には夥しい数の動物が眠っていて、供養に訪れる人が絶えなかった。

ロッカーのような棚に小さな骨壺と写真がずらりと並び、花やおやつが供えてあった。

人と暮らして、この場所で眠っているペット達は、きっと幸せな一生だった…

そう思えた。でもLは?

Lは、うちに来て、幸せだったのかな…

 

動物霊園にLを託した後、近くの店で蕎麦を食べた。

テラス席に犬と座り、いつものように娘は先住犬に、夫は捨て犬に自分の蕎麦を分け与えていた。

Lも蕎麦が大好きだったから、Lにも食べさせてあげたかった…

でも、それも叶わない。

 

食事の後、ドッグランに寄るのかと夫に聞くと「行く」と言う。

「いつもLが走り回るだけで、2匹はちっとも走らないのだから、行かなくてもいいのでは?」と娘が言っても、夫は「行く」と言う。

ドッグランでは、たくさんの犬種が楽しそうに走り回っていた。

飼い主と犬達の、眩しい笑顔で溢れていた。

Lはいつも縦横無尽に走り回って、ご機嫌かと思えばあちこちで喧嘩を始めるので、一時も目が離せなかった。

私は、Lの姿を探した。

Lはいない。

いる訳がない。

Lは、死んでしまったのだから。

Lはもう、燃やしてしまったのだから。

でも、Lの魂は今ここで、元気いっぱいに走り回っている。

いつものように、嬉しそうに、息せき切って走っている。

そんな気がした。

 

ドッグランに近い、この霊園を選んだのは夫だった。

そうだね。Lもここならきっと、寂しくないよね。

2匹を連れてまた来るから、Lも一緒に走ろうね。

夫は、ドッグランをぼんやりと眺めながら泣いていた。

娘も泣いていた。

私達は、犬がいなければ話す事もない、バラバラな家族だった。

家族とさえ呼べなかったかも知れない。

でも、Lが死んで悲しいのは私だけではなかったと、この時に初めて気が付いた。

Lが、犬達が、歪な私の家族を繋いでいてくれたのだ。

 

 

「こんなに悲しい思いをする位なら、あの時Lを買ってこなければよかった。

貴方がどうしてもと聞かないから、仕方なく連れて帰ったけれど。

もし、他所で飼われていたなら

うちみたいな多頭飼いでなく、兄妹犬のMちゃんのように大切に飼われていたならば

Lは、もっと長く生きられたはず」

私は夫を責めた。すると夫は

「あの時うちが飼わなかったら、あいつはきっと殺処分だった。

それを思えば、Lは長生き出来た。Lは、こういう運命だったんだ」

と言った。

 

そうかも知れない。

そして今更何を言っても、誰を責めてもLは帰ってこない。

 

 

Lや。

母ちゃんは、寂しくて

寂しくて寂しくて堪らないけど、我慢するよ。

 

そして私は、死ぬのが少しだけ怖くなくなった。

私があの世に行く時に、きっとLが迎えに来てくれるから。

大きなベロを出して、大きな耳をぴんと立てて

ちぎれんばかりに尻尾を振って

私に向かってまっしぐらに、走って来てくれるはずだから。

 

L、母ちゃんの事を忘れないで待っていてね。

必ず来てね。

約束だよ。

 

 

 

- END -