あめゆきをとって

仮題と下書き

映画「あん」を観て来た母と私の物語

2015/09/28〜2015/10/03

 

「Sさんの息子さんが書いた本コ、おめさん読まねーすか?」

と、田舎の母が電話をかけてきた。

Sさんというのは母の古くからの友人で、関西地方に住んでいる。

Sさんは、ものを書く人でもあった。Sさんの短編集を、昔読んだ事がある。

”Sさんの息子さん”というのはやはり何かを書いている人で、母はこれまでにも何冊かの彼の著作をSさんから戴いたが、無学な母には難解なのであった。けれども

「今度の本コは、読みやすくていいお話だがえ」

と熱心に私に勧めてきた。

当時の私は、訳あって読書を楽しむ心の余裕が無かった。母の話も軽く聞き流していた。

本の題名は「あん」だと言うので私は、主人公がアンという名前の外国人なのだろうと勝手な解釈をした。

そして、ハンセン病を扱った内容と聞いて、差別や偏見について書かれたという事だけは解った。

更に母は、私の母校の中学校にまで出向き

「生徒さん達にぜひ読んで欲しいから、図書室に置いて下さい」と、頼んで来たと言う。

私は流石に「それは余計な事」と咎めた。

訳の解らない婆さんがいきなり職員室に現れて、そんな事をしたら先生方はさぞ迷惑だろうと思ったのだ。それでも応対した先生は、母に丁寧な礼を述べて本を受け取ってくれたらしいのだが。

 

それから2年が経ち、母がまた電話で言った。

「Sさんの息子さんの本コが今度、映画になるんだぁど。凄いがねぇ。観に行きてえがねぇ。」

母はもう、一人で映画を観に行く事など出来ない。私は今年の帰省を、地元での上映に合わせて計画を立てた。

ネットで上映スケジュールを調べると、田舎での上映は9月の後半から10月の初めまでと期間が短いのだった。

そして、タイトルはアンではなく餡この「あん」だった。

キャストも監督も豪華で、これなら大ヒットは間違いないだろう。

原作者はドリアン助川

 

えっ?

 

何十年も前から母に話しを聞かされていた”Sさんの息子さん”というのが、ドリアン助川氏だとこの時に初めて知った。

それでも私は、彼について殆ど知らない。

詩人なのかミュージシャンなのか?ラジオの深夜番組でブレイクした時に名前だけは覚えたけれども、その放送を聴いた事も無かった。母が

「自分には難しいけれど、おめさんなら読めるだろうから送ってあげる」

という本の数々も、本が溜まるのが嫌だからいらないと言って断ってきた。だから今までどのような作品を書いていたのかも知らない。

 

私は高校生の時に一度だけ、母と映画を観に行った事がある。

母がどうしても観たいというので付き合った。当時は映画館が街なかの、家から歩いてすぐの場所にあったのに今はもう無くなってしまった。

何年か前に出来た、少し遠くにあるショッピングセンターの中に劇場が入っているらしいが、行った事の無い母に何を聞いても埒があかない。

私は劇場に直接電話をして、上演時間や、席の確保などについて調べた。

もし「あん」を観る事が出来なかったら、帰省の意味が無くなるからだ。

往復の新幹線の時間と乗り継ぎの時間、映画の時間と駅までの移動時間…

足が弱って満足に歩けない母親。

母が家を空けるのを許さない、傲慢な父親。

ホテルのチェックアウトの時間。友人との待ち合わせの時間…

スケジュールを立てるのが本当に苦手で上手くいった試しがない私。

それでも兎に角母を映画館に連れて行かなければ。それは、私のミッションであった。

ああ、面倒臭いと愚痴をこぼすと、友人達が口々に

「そんな事を言わないで連れて行ってあげて。親孝行だと思って。」

と言った。友人達の親はもう亡くなっていたり、認知症だったりするので

「出来る事ならば私も、母と映画を観に行きたいよ。」

と言われれば、友人に申し訳なくて返す言葉も無い。

何が何でも、母を映画館に連れて行くのだ。

母と私にとっても「あん」がふたりで一緒に観に行く、最後の映画となるかも知れないのだから。

 

 

岩手への帰省は、シルバーウィークと重なり交通と宿泊の手配に難儀したが何とか目処がついた。

だが、出発の二日前になって母が慌てたように電話をしてきた。

Sさんからの手紙に、岩手で一緒に「あん」を観たいと書いてあったらしい。

そして、母は「Sさんと一緒に観るから、おめさんは誰かと観てきて頂戴」と言うのであった。

誰かと観てと今更言われても、東京ではもう殆どの劇場での上映が終わってしまった。

それに、岩手で観る「あん」に合わせてスケジュールを調整したのに…

「あん」を観ないのであれば、帰省を先延ばしにしたかった。もう少ししたら東北の紅葉も見頃になるのだ。

けれども中学時代の友人達と夜遊びをする約束をしていたし、やっと予約が取れた宿や新幹線をキャンセルするのも面倒だった。

それに、私と観るよりもSさんと観に行った方が良いに決まっている。

Sさんは母よりも若いとはいえ高齢で、長旅をする元気があるうちにもう一度、三陸の海を見に行きたいと願っているのだ。

青春時代を過ごした地で、息子が原作者である映画を旧友と一緒に観る…

こんな誇らしい幸せが、他にあるのだろうか。実現したらその思い出は、Sさんと母にとって一生の宝物になるのだろう。

だから私は、映画はひとりで観ると母に言った。

空いた1日は三陸鉄道に乗って、のんびりと海岸線を眺めながら久慈まで行こうか?

それとも、修学旅行で行くはずだった平泉にでも行ってみようかしら?

JRの人が勧めてくれた三連休パスという切符を買っていたので、上手く使えば東北のどこにでも行けるのだった。

「行くぜ東北♪」と自分を励ましながら、体調を整える。

帰省するという、他の人にとっては何でもない事が私には苦行である。

結婚するまでは人並みに、盆と正月に帰省した。その度に「こんな家には二度と帰らない」と泣きながら東京に戻ってきた。

子育てと仕事が忙しいと誤魔化して十数年、帰省しない年が続いた。

帰らなければ帰らないで済んでいた。田舎の友人達とはすっかり疎遠になったままだし、母とは電話で話せばいい。

このまま一生、田舎になんか帰らなくてもいい。

 

そう思っていたところに、あの大震災が起きた。

津波に襲われる故郷の町を、私はTVにかじり付いて観ていた。

自転車で毎日通った通学路も、叔父や叔母の家も津波は破壊した。大好きだった祖母の家も浸水した。

有り得ない場所まで流されてきた漁船と車と建造物。

津波に呑み込まれた大勢の犠牲者…

当時不安定だった私の精神は、その現実を受け入れられずに崩壊するのかと思われたがそうではなかった。

1日1日を噛みしめるように生きているうちに、以前よりも強くいられる自分がいた。

そして、捨てていたと思い込んでいた故郷は、捨てようとしても捨てられないものだという事に気付いたのだった。

震災の年から私は、年に一度は帰ろうと決めて帰省している。

そして、もう先が長くない筈の親との確執も、お互いが生きているうちに何とかしようと試みたが、失敗続きだった。

今はもう、どうでも良くなっている。

復興は遅すぎるけれども少しずつ、ゆっくりと変わっていく故郷の風景。あのように変わってはくれないのだ。私の家は。

 

 

80過ぎの母はずっとこの地に住んでいるから、沢山の友人知人がいる。その中で、Sさんは私が物心ついてからずっと聞かされていた名前だ。

Sさんは関西に住むお金持ちの奥様で、とても優雅に良い暮らしをしている。そんなイメージを私は抱いていた。それに引き替えうちの母は、東北の片田舎で働き詰めに働いて、苦労が服を着ているようなものであった。

そんな二人がどうして友人でいられるのか、とても不思議だった。

母から聞いた話では、母は、高等女学校を中退していた。

祖母は養豚と肉屋で生計を立てていた。豚の餌にする残飯を貰うため、母と祖母はリヤカーを曳いて町中の家々を歩いて回った。

それを女学校の友達に見られるのが何よりも嫌だったという昔話を、何十回も聞かされていた。

だからSさんは女学校時代の友人、という訳ではなさそうなのだ。

Sさんにとっては、母は大勢いる友達の中のひとりであったのかも知れない。でも母はSさんの事を唯一無二の親友だと思っていた。

母の心の奥深い悩み苦しみも全て、Sさんにだけは打ち明けていたと思う。

Sさんから手紙が届くと母はとても嬉しそうにして、時折その内容を私に話した。

それは、私達の暮らしからは想像も出来ない、夢のような都会のお話だった。

「Sさんはいいがねぇ。お金持ちで。幸せな暮らしでいいがねぇ。」

と、母はいつも嬉しそうであった。

ところがある日、Sさんからの手紙を読んだ母がわなわなとしていた。

何かの行き違いがあって書かれた手紙の内容に怒っているのだった。

「これを読んでみて」と渡された手紙に私は、母と一緒になって怒った。

そして母に同情した。その内容が母を、そして田舎をも侮辱されたと感じたからだった。

「こんな酷い事を書く人とはもう、文通も止めてしまえばいいよ。」

私がまだ10代の頃だっただろうか。そんな風に激しく母に言ったのだと思う。

田舎者で貧乏臭い母ではあるが、その頃は母の商売も順調で、そのお陰で私達は人並み以上の暮らしが出来ていた。お金持ちの奥様だか何だか知らないが、見下されてまで付き合う事はないのだ。

それ以来何年も文通が途絶えていたらしいが、いつからか母がまたSさんの話をするようになった。

Sさんとは絶交したのでは無かったのかと聞くと、いつまでも拘っていても仕方ないからと、どちらからともなく復活したのだそうだ。

私も大人になって、よくよく考えてみれば本当に誰が悪いのでもない。ボタンの掛け違いのような話だった。

お金絡みの事であったから、母がキチンと証明出来る控えを取っておかなかったのがいけなかったのだ。

兎に角、旧い友情が復活したのは喜ばしい事であった。

 

その後Sさんは阪神・淡路大震災で被災した。母は、距離が遠すぎて駆けつける事も出来ないと心痛していた。

その16年後に、東日本大震災が起きた。

Sさんは自宅と、若い頃の思い出の故郷の両方が被災するという数奇な運命に見舞われたのだった。

 

盛岡に着いた私は、乗り換えの時間まで駅付近をぶらつく事にした。

宮沢賢治がモーリオと呼んだ、盛岡の街並みが大好きなのである。

地方都市はどこに行っても同じような景色だけれども、盛岡だけは特別だと思う。私にはいつでもキラキラと輝いて見えるのだ。

 

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本当は、中津川沿いを歩きながら野の花等の写真を撮りたかったけれど、列車に乗り遅れそうになり慌てた。

列車と言っても、たった2両ぽっちの小さなものである。

いつもは1時間おきに運行する急行バスで帰省した。けれども今回はJRの乗り放題切符だから使わなければ勿体無い。

無事に列車に乗り、座席に座って一安心する。盛岡の街並みの風景が、あっという間に山林の中に変わった。

到着までスマホでネットでもしようと思ったら、電波が届かなくなった。

列車は山々の隙間を縫うように走り、20以上のトンネルをくぐるのだから当然であった。

9月だというのに真夏のような強い陽射しが眩しくて、外も眺めていられない。

列車はカーブの度に大きく揺れた。しっかり押さえていないと私のキャリーバッグが転がってゆく。

何故だかひっきりなしに警笛を鳴らすので、その甲高い音にびっくりした。うたた寝する事も出来なかった。

やっぱり、バスにすればよかったな…

帰省中の予定は立てたものの、友人と会う事と宿泊先以外はどうなるかわからない、成り行き任せのこの旅をどうしよう。

そんな事を考えながら、私は到着までぼんやりと過ごした。

 

16時頃に、生まれ育った町の駅に着いた。

駅舎とその周辺は、去年見た時とは何かが変わっているのだけれど、それが何なのか解らない。

震災の後に多くの店が建て替えをし、新しい施設も増えた。

昔の面影がまるでない駅前に立ち、私は見知らぬ土地に来たような気持ちだった。

友人との待ち合わせ時刻は18時。実家に立ち寄ってからホテルにチェックインしても、十分間に合うだろう。

私は、キャリーバッグをゴロゴロと引き摺りながら実家に向かった。

母には「帰って来るのは今日だけれど、家に行くのは明日の朝」と伝えてあった。更に

「実家には寝泊まりしないから、部屋の掃除をしなくていい。ご飯の準備も一切いらない。」

と言って、母を嘆かせたのはいつもの事だ。

 

家に入ると、母は驚いた顔で私に聞いた。

「なにで来たや?」

「キシャで来た。」

キシャというのは多分方言である。キシャと言わずに電車だとか列車とか言うと

「キシャの事だーべ?なーに気取ってんのや」と、学校では何故か苛められた。

「何時に着いたのや?」

「4時ちょっと前かな。」

「おめさんが来る頃だと思って3時と4時の2回、駅前のバス停まで行ってみたどもいなかったーがな。」

「バスじゃなく、キシャだからね。バスで帰るなんて、私一言も言っていないよね?」

私も駅に着いた時に、辺りを見回したが母はいなかった。迎えに来なくていいからと、何回念を押しても来る母なのだ。

だから何時に着くと言わないでおいたのに、それでも駅前をウロウロしていたとは…

私は帰省すると必ず食べるケーキを買いに、駅前の洋菓子店に入ってしまった。そのせいですれ違い、私と母は出会わなかったのだろう。

ケーキはお気に入りの2種類を1個づつ買っていた。母に「食べる?」と聞くと、後で食べると言うのでそれぞれを半分づつに切り、私は急いでそのケーキを食べた。

「これからJとKと、飲みに行くからね。明日の朝にまた来るから。」

「飲みにって、お酒を飲むのか?」

「そりゃ1杯くらいはね。」

「どこの店で飲むのや?」

「言っても解んないでしょ?」

「解んないけど、教えてよ。ついて行かないから。」

「ついて来そうだわ。」

「着替えは?何着て行くのや?」

「このままだよ。」

「化粧は?しないのか?」

「…もうしてるよ。」

「おらぁまぁ…髪ぐらい梳かしてったら?」

「歩いたらどうせまたボサボサになるよ。」

「あんまり飲み過ぎるな。」

「1杯だけって言ったでしょ。」

「今夜どこさ泊まんのや?」

「教えねぇが!」

 

JとKは、中学時代の友人であった。クラスも部活も違っていたが、3人でリレー小説を書いていた仲だ。

その小説は同級生達に人気があって、皆がノートを順番に借りて読んでいた。私達は何冊ものノートに、3人ともまだ経験した事のない恋愛物語を書き連ねた。

あのノートの山は、一体何処にいってしまったのか?

そう思うと皆で総毛立ってしまうのだった。

私はJとKに、母が2回も駅まで迎えに来た事から、家でのやりとりまでを全て話した。

ふたりは母を知っているので、ゲラゲラと大笑いした。そして

「お母さんは、タンポポが帰って来るのをよっぽど楽しみにしていたんだよ。もっと優しくしてあげなきゃダメじゃない。」と、私を責めた。

やれやれ。夫と娘と犬の足枷を外してやっと来たというのに、こちらには母がいる。

大体、家にいた頃には私がどこで何をしていようが全く気にも留めていなかったくせに。

私はビールを1杯だけ飲んだ。それで十分酔っ払うのだ。

私に気兼ねしないで、沢山飲んで頂戴と言ったのだが、ふたりとも去年よりお酒が進まなかった。

年老いた親の話、自分達の健康の話、老後だの介護だのとしんみりする話が続き、誰もが涙を堪えるのが大変だったからだ。

別れ際に「お母さんのお相手、ちゃんとしなさいよ!」と口々に言われた。

「解った解った。」と答え、私はひとりホテルの部屋に戻った。

 

ビジネスホテルの簡素な部屋にひとりでいると、そこは静か過ぎるほど静かで快適であった。ここならば今夜は眠れそうな気がした。

去年と一昨年は、海の近くのホテルに泊まった。真夜中に身体が痛み、鎮痛剤も睡眠薬も効かなかったので、夜が明けるまで波の音を聴いていた。

どうしてホテルに?お金の無駄遣いだ。実家に泊まればいいのに。

誰もがそう言い、その度に適当に答えた。きっと解って貰えないから。

私は真夜中に具合が悪くなる事が時々ある。決まって2時頃に。それを母には見られたくない。

高校を卒業するまで、私は何時でも母に纏わりついていた。

母は仕事で疲れ果てており、子育てはおざなりであった。私達は親の愛情にいつも飢えていたと思う。

けれども今頃になって、子供のように扱われても戸惑うばかりだ。

母にとって、私は今でも18歳の私なのだろう。

高校3年の頃、私は父親と衝突ばかりしていた。あのまま実家にいたら、私は何をしでかしたか解らなかった。

卒業したら家を出ようと決めた時、母は私を引き留めるだろうと思った。

でも、違っていた。

「遠くで自由に生きなさい。おめさんだけでも自由に…」

母は私に、そう言ったのだった。

 

翌朝チェックアウトをして、再びキャリーバッグをゴロゴロと引き摺って実家に向かった。

母は今か今かという風に、玄関の側に座って私を待っていた。

 

「ところでSさんからは、連絡があったの?いつ岩手さ来んだって?」

「それがー解らないのす。いーづ来んだーがー」

「はーーー?」

私は軽く目眩がした。

母は、Sさんから届いた絵葉書や手紙を私に見せた。

お便りにはSさんの体調があまり良くない様子が綴られていた。そして、その中には

「映画を観てくれた?」

という一文もあった。

 

もしかすると…

母が待っていてもSさんは、岩手に来られないのではないだろうか?

 

10月上旬には「あん」の上映が終わってしまう。

例え体調がもう回復していたとしても、関西から岩手の沿岸までは相当な距離なのである。

母はどうして、Sさんが自分と一緒に岩手で映画を観たがっていると思ったのだろう?

それは母の、若しくはふたりの願望、夢物語だったのかも知れない。そしてその願いは、今日明日には実現出来そうにない。

私は母に

「Sさんが来るのを待っていないで、観に行った方がいいんじゃないの?上映期間が終わっちゃったら、もう観られないんだよ?

Sさんが元気になって、こっちでの上映に間に合うように来られたなら、2回目を観ればいいのだし」

と言ったが、母は黙っていた。

「今日は伯母さんの家を回ってお線香をあげて、明日盛岡で映画を観ようか?お母さんも久し振りに盛岡に行きたいでしょう?」

盛岡の劇場でひとりで「あん」を観るつもりだった私は、母も日帰りで観ることが出来る上映時間なのを知っていた。

それに、盛岡に行けば姉と弟にも会えるのだ。

先刻父が私に、弟はどうしているかと聞いてきた。私は、会っていないから知らないと言って首を横に振った。

「お父さんは弟を気にかけていたよ。お母さんを盛岡に連れて行ってもいいか聞いてみようか?映画の事は内緒にして、弟の所に行くって言えば許すかもよ?」

「おめさんが聞けば、いいって言うごった。おめさんから聞いでけで」

私は、『母と盛岡の弟の所に行って来るからね』と紙に書いて父に見せた。

父は薬の副作用で数年前から聴力が弱いのだった。

父は少し動揺しながらも、ご飯の支度がしてあれば良いと言った。

良かった。早く準備しよう。我儘な父の好きそうなものを買いに行こう。父の気が変わらないうちに。

でも母は動かなかった。そして

「盛岡さば、行がねぇ。」と言った。

「どうして?せっかくお父さんがいいって言っているのに…」

「今はいいって言ってだって、帰って来ればどうせ、よめぇこど(世迷言)を聞かされんの」

「そんなもの、聞き流せばいいじゃないの」

「おめさんの言う通り、Sさんは来れぇねぇかも知れないなぁ。映画はこっちでおめさんど観っかなぁ。」

 

どうして?と何度聞いても母は「盛岡さば、行がねぇ」「行きてぇども、行げぇねぇ」と繰り返して、項垂れるだけだった。

 

 

母と私は、親戚の家を訪ね歩いた。

お彼岸だというのに、夏のような暑さであった。それでも赤トンボが飛び、道端には黄花秋桜や水引の花が揺れていた。

震災の年も、こうして母と並んで町を歩いたっけ。その時母は、臭くないかとしきりに聞いてきた。私は何ともないと答えた。

津波の水が引いて、瓦礫と汚泥を片付けた後も長い間悪臭が漂っていたのだと言う。

臭いとは感じなかったけれど、町中の道路の隅っこに硝子の破片がたくさん落ちていた。

私は自転車で町を見て回りたかったのだけれど、すぐパンクするからと母に止められたのだった。

実際に一台ある実家の自転車は、パンクしたままで放置されていた。

翌年には修理され、私はそれに乗って川と海の方まで行ってみたが、その自転車はフレームが歪んで錆びだらけな上、ブレーキがきかなかった。

今年も私がそれに乗って町を走り回るのだろうと、あのオンボロをわざわざ修理に出してあったのだが、今年は乗らなかった。

「お母さんのお相手、ちゃんとしなさいよ!」

という友人達の声が、耳に残っていた。

昔、そこにあったものは何もかもがもう無い。懐かしくもないただの町を、母と思い出話をしながら歩いた。

母の話は今と昔が混在して、それはいつの話?と聞かなければ訳が解らなくなった。

私自身もいろいろな事を、もう忘れてしまっている。

「モノやお金はあの世に持っていけないけれど、思い出は持っていける。思い出だけが宝物なのだ」と

夫の亡き祖母の言葉を、成る程その通りだなあと胸に抱いて生きてきたけれど。

その思い出さえ忘れてしまったら、本当に何にも無くなってしまう。

母と歩く道筋には楽しかった思い出など何もない。私はこの町にいた時、いつもいつも泣いてばかりいたような気さえするのだ。

私達は母の実家に向かった。母の弟である叔父もとうに亡くなり、私はその葬儀にも来なかった事が長年の後悔になっていた。

お線香をあげに行きたいと叔母に言い、お仏壇のある祖母の家に母と叔母と3人で行く事になった。

私が父と喧嘩をした時にいつも避難していたのが、この祖母の家だった。祖母は30年ほど前に亡くなり、この家に入るのは祖母の葬儀以来であった。

玄関の引き戸を開けると、当時新築して間もなかった家は古く汚れていて、時の経過を思わざるを得ない。

玄関からすぐの階段を上がった2階にお仏壇があるのだが、私は玄関の土間から動けなくなった。

叔母が「どうした?入って入って」と促した。

壁に取り付けてある下駄箱の蓋の、腕を高く伸ばした辺りに黒いマジックで線が引いてあった。そして、3.11と殴り書きがされていた。

「ああ、それね。そごまで水が来たって印を付けどいだーのす。」

ひゃー

母と私は悲鳴をあげた。私の実家は川の側であるのに奇跡的に水が来なかったのだった。

2階に上がると、そこは昔と何ひとつ変わっていない。違うのは定位置に祖母がいないというだけだった。

私は泣きたい気持ちを堪えてお仏壇の前に座った。

仏前には祖母と、叔父の写真が飾ってあった。叔父は、私の思い出の叔父よりも痩せた写真だった。

可愛がって貰ったのに、お葬式にも来ないでごめんなさい。

おばあさんも、ずっとずっと来なくてごめんなさい。

そう祈りたかったのに何も言えず、ただただ手を合わせるだけであった。

それでもお線香をあげる事が出来て、心の痞えがひとつ取れたからほっとした。

 

町はちょうど復興祭りで、これから踊りのパレードが見られるというので私達も見に行く事にした。

通りには人が溢れ、踊り子達が来るのを皆が待っていた。

誰かの「こんなに人がいるのを、初めてみた」と驚く声が聞こえた。

私は(えっ?たったこれだけの人で?)と思った。その時に、町並みは変わったけれども、私も随分と変わってしまったのだと感じた。

「盛岡さんさ踊り」と「仙台すずめ踊り」が賑やかに踊りながら通りを抜けていった。

「仙台すずめ踊り」というのを初めて見たが、本当に雀がチュンチュンと跳ねているような明るい踊りだった。母も手拍子を打ちながら喜んで眺めていた。

今でもこうして被災地に来て、元気付けてくれるのが本当に有難いなと思った。

東北から離れた所ではもう、震災があった事などすっかり忘れ去られているのに。

まだこれから「山形花笠踊り」が通るはずなのに、母はもう家に帰ると言いだした。

何かを楽しんでいる時でも常に、父の影に怯えている母だった。

母は若い頃から踊りが大好きで、本当は習いにも行きたかったのだ。でも父は「踊りなんか」と、母や踊る人達の事まで馬鹿にしていた。

夏になると近所の公園から盆踊りの曲が流れてくる。すると、もう行きたくて仕方がない母は

タンポポ行ぐべ、踊りっコさ行ぐべ」と私を誘った。

私は、行けば必ず後で父と母が喧嘩をするのが解っていたから、行きたくなかった。

そう言って断ると母はとても悲しそうな顔をした。そして

「後で喧嘩になってもいいから。行ぐべ」

と言うのだった。

 

 

 

もしも時空が歪んで、あの日いつものように祖母の家へと向かっていたなら…

私も津波にのまれたひとりになっていただろう。

それでも良かった。

私の分、もっと生きたかった人がひとり、助かれば良かったのに…

 

 

復興祭の踊りを見る前に、私は父に電話をかけていた。

「帰りが少し遅くなるけれど、お昼ご飯を待っててくれる?」

難聴だから、何度も大声で繰り返し話さなければならない。それでも何とか伝わったようで

「適当に食べるからいい」との返事だった。

けれども、家に帰ると父は不機嫌な顔をしていた。食べるものが食パンしか無かったという理由だった。

一度機嫌が悪くなると、次々とつまらない事に文句を言い出し、仕舞いには理不尽に激昂するというのがお決まりのコースなのである。

私の帰省にも文句を言い出すのだろう。母を連れ歩き、そのせいで自分が不自由をしたと怒り出すに違いない。

そうなる前に私は母を外に連れ出してタクシーを呼んだ。そして映画館が入っているショッピングセンターへと向かった。

何が何でも母を、映画館に連れて行くのだ。

そのショッピングセンターに入るのは、初めてだった。

先に「あん」のチケットを買ってから、開演時間まで店内を見て回る事にした。

アイスクリームが食べたいというので、母を休憩できる場所に座らせた。

私は何か飲みたいなと思っていたら、ソフトクリームが乗ったソーダフロートがあった。

「お母さんがアイスを食べて。私がソーダを飲むから」と言うと、母は少し嬉しそうに

「そうすっぺ」と言った。

 

ふわふわと真っ白なソフトクリーム。澄んだ緑のソーダ水。

クリームソーダなんて、久し振りだ。

盛岡のデパートや、花巻の温泉地など、特別なお出かけの時にはいつも飲んだクリームソーダ

ワクワクする気持ちを隠しながら、小公女のようにおすまししてストローを挿したのに何故か泡が吹き出して、そこいら中を泡だらけにした。

それも一度や二度ではなかったけれど、旅先での母は叱らなかった。

そうっとストローを挿した。ソーダが白濁し、みるみる溢れそうになったけれど溢れなかった。

「あぁ、美味しいね。」

「うんめぇがな。」

母がスプーンでソフトクリームを掬って食べる様が、まるで子供のように見えた。

私が子供の頃のお出かけは、いつも祖母と母と一緒だった。

出かけられない娘と孫を不憫がって、祖母が連れ出してくれたからだ。

旅先で私達は、子供らしく伸び伸びと過ごした。小さくてさえない田舎の遊園地であっても、私達にとっては楽しい夢の国であった。

そして遊び歩いた代償として、帰宅した後に父が母を恫喝するのを見て泣くのだった。

 

大人になり、私だけ何もせずに田舎から遠く離れている間、姉と弟は母を救う努力をしていた。

けれども、その努力は全てが無駄になった。そして今でもこうして啀み合いながら、父と母は共に暮らしている。

 

思った以上に小さなスクリーンの劇場であった。

私がよく行く劇場とは、何もかもが違い過ぎていた。

こんな小さな劇場しか、ここにはないのか…

 

映画「あん」は、静かに始まった。

 

私が来て昨日今日と歩き疲れた母が、途中で寝てしまわないかと心配になるほど

静かに淡々と物語は続いた。

「あん」の内容は、書かないでおこうと思う。

だがひとつだけ。鳥籠の小鳥がカナリアなのが私には少し違和感があった。

けれども小鳥はどうしてもカナリアでなければならなかった。

この映画はもう一度、東京に戻ってから反芻するように観たい。

 

映画が終わる頃、母がしきりに時間を気にしだした。

「最後まで観ても、キシャには十分に間に合うから」

と、私は小声で言ったけれどもあれは私の時間ではなく、父の事が気になっていたのかも知れない。

 

エンドロールの「原作 ドリアン助川

 

ゆっくりとゆっくりと上っていくその名前を、母は感慨深そうに見つめていた。

「息子さんが成功して、立派になって、Sさんは嬉しいべなぁ。良かったぁなSさんは。」

「そりゃあもう嬉しいだろうねぇ。親として、これ以上の幸せはないよねぇ。」

私達は、映画の感想をあれこれと話し合ったりはしなかった。

私は、母に「あん」を観せる事が出来た。ただそれだけがほっとした。

 

母は多分「籠の中の鳥コは、おれだぁな」と思っていた筈だ。

けれども周りの人がいくら「外に出なさい」と諭しても

子供達が鳥籠の蓋を開けてあげても、飛んで行かなかったのは母なのだ。

頑なに鳥籠の隅に居座り続け、逃げ出さなかったのは母自身なのだ。

それを私はもう、母に言うつもりはない。

母には母の生きる意味があって、私も自分のそれを探すだけの事だ。

そして、生きなければならないのではなく、私達は何かに生かされている。

こんなゴミのような人生にも、きっと何かの意味がある。

そう思って生きていく。

 

母は、ここ数年「私は幸せ」と言う。

それを聞く度に私の精神の均衡が崩れていく。

「母は可哀想」という意識が、ずっと私の根底にあったからだ。

母は可哀想だから母を喜ばせたい。

母は可哀想だからこれ以上悲しませてはいけないと。

それは私だけではない、姉と弟にも暗黙のルールであった。

母は、本当に幸せなのかも知れない。でも解らない。

幸せな人生かどうかは、今際の際の母だけが知る事だから。

 

私と母はタクシーに乗った。

「ひとり⚪︎⚪︎町で降ろして、それから駅までお願いします。」

「わかりました。駅は、バスの方さ?それともキシャの方さ?」

「キシャの方で。」

やっぱりキシャは、こっちの方言なんだな…

そう思って私は、可笑しくなった。

 

 

-END-