「何しろ生きるか死ぬかの大手術をしたのだから、それは仕方がない」
転院先の都内の大学病院で、新たな主治医は私にこう言った。
自分の記憶がおかしいと訴えた、その返答だった。
岩手の病院に入院していた時は、今日と明日を生きるのに精一杯で、忘れた過去などどうでも良かった。
退院して、上野駅まで迎えに来た夫の車が思いも寄らぬ方向に走る。
どこへ行くの？
私は声が出ないので、それを訊かずに黙っていた。車は隅田川と荒川を越え、ああ、この風景は確かに見覚えがある。家の近くまで来てやっと、そうだ私の家はここだった。あのマンションは引っ越して、ここに来たのだと理解した。自宅と記憶していたのは、15年以上も前に住んでいた荒川土手近くのマンションだった。
家事の手順は全て覚えていた。しかし、細かな事をいろいろと忘れている。
以前、私は家中のモノを処分した。メルカリやフリマ、複数のリサイクルショップに持ち込んで不要品を減らしていった。それをすっかり忘れ、あれがないこれはどこと思う。声が出ないから思うだけで騒げない。メルカリの履歴にはしっかり記録されている。だから自分で売ったのだ。これがひと昔前ならば、あれが無くなった泥棒が入ったと騒ぐボケ老人だ。
そして私は元々が酷い方向音痴だが、曖昧になった記憶も重なって少し遠くまで買い物に出かけると迷う。駐輪した場所を忘れて探す。そんなロスタイムが増えた。何度か酷い目にあったので、駐輪は徹底して同じ場所に置くようにした。
前置きが長くなった。
私は昨日、スーパーLで万引きを疑われたのである。
あまりのショックと怒りと悲しみ、これもすぐ忘れてしまうのだろう。だから、この文章は備忘録である。
昨日、池袋のデパートの催事にひとりで出かけた。ワイン1本とお弁当をふたつ買った。娘は遅くなり夕食が要らないと言うので、ふたつでよかった。
鞄にはいつも、小さく折りたたんだレジ袋を1枚入れてある。スーパーLの袋だった。
お弁当はその袋に入れてもらったが、ワインは重いので薄いレジ袋では心もとない。
厚手の紙袋を買って、レジ袋に入ったお弁当とワインを入れた。
そして帰宅途中、最寄り駅近くのスーパーLにも立ち寄った。
お弁当があるから特に買うものはない。それでも汁物の具材にカット大根となめこ１袋、おつまみ、ヨーグルト、自分のおやつを買った。支払い額は千円ほど。紙袋に入る位の量なので、レジ袋は買わなかった。
店を出て、店の前で立ち止まる。自転車をどこにとめたのか、いや忘れてはいない。いつもこの辺にとめると決めている。でも、銀色の似たような自転車ばかり並んでいて、私の自転車はどこ？と戸惑った。私は視力もあまりよくない。
そこに店員が声をかけてきた。
「あの、お客様？お会計はお済みじゃないですよね？」
えっ？
どういうこと？私ったら、何か持って来ちゃったの？いやそんなはずはない。買って、支払機でちゃんと払って、それから店を出てきたはず…
私はさっきバックに無造作に突っ込んだはずのレシートを探した。レシートはすぐに出てきたので、店員に差し出した。
すると店員は、レシートの日付や時間を確認する事もなく、誤魔化すように笑いながら
「失礼しました。他のお客さんから、髪の長い女が万引きをしたと聞いたものですから」と言い、慌てて店内に戻った。
あれでは昨日のレシートでも、何なら他店のレシートでも気付かなかっただろう。
声が出ない事が、こんなにもどかしいなんて。
声が普通だったなら、すぐに私も店に戻り責任者を呼び、店員の無礼を責め立てただろう。
私は帰宅してスーパーLのホームページを開き、ご意見箱に苦情を入れた。
もし、これが私でなかったら？
発声が困難なためにその場で否定出来ず、通話もインターネットも使えない人ならば、濡れ衣を着せられても我慢せざるを得ない。
お生憎さま、私は我慢などするものか。
私の挙動が不審だったからでは？と、経緯を聞いて娘が言う。
そうかも知れない。
私は見た目には健常で、脳や心臓に不具合があるなど誰にもわからないはずだが、違和感のある行動をしたのかも知れない。でも、万引きはしていないのだ。
返信はすぐに来た。
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お客様からいただきました内容を、店舗管理職に確認いたしましたところ、従業員が間違ってお声かけしたことが確認できました。
あってはならない事で、深く反省をしております。
店舗管理職からお詫び申し上げたく、明日以降ご訪問させていただくことは可能でしょうか。
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管理職の謝罪などいらない。
当人の謝罪でなければ、何の意味もない。
もう二度とスーパーLは使わない、そう決めてしまえば、私自身が不便になるだけだ。
あの店員をクビにして欲しい。けれどもクビにはしないだろう。
万引きは日常茶飯事で、大騒ぎするような事ではないのか？誤認など、たいした問題ではないのか？
決してそうではない。
私も過去に、他のスーパーでパートをしていたから解っている。
以前の職場では、確実に現行犯で、窃盗の現場を押さえなければ捕まえられなかった。二人以上の目撃証言があって、犯人が店を出た直後に店長クラスか万引き専門の捜査員が声をかけるという決まりがあった。誤認など、あってはならない事だ。
誰が何を見かけたか知らないが、たまたま髪の長いボンヤリした女が駐輪場に立っていた。それだけで万引き犯として詰問されたのである。
たかだか千円ちょっとの食材を盗むような盗人に見られたのだ。
情けないやら恥ずかしいやら悔しいやらで、昨晩は一睡も出来なかった。
これ以上怒っていたら、また心臓がやられるかもしれない。
スーパーLへの返信は、しないつもりだ。
