あめゆきをとって

仮題と下書き

お昼休みが嫌いだった

給食の時間が大嫌いだった。

少食、偏食、食べるのが遅い、三拍子揃った私に給食は、苦行の時間でしかなかった。

同級生たちは給食が大好きで、皆もりもりと美味しそうに食べた。人気のおかずをおかわりするために、競って食べていた。私はそれをバカみたいだと思っていたが、クラスの白い目は給食を残す子の方に向けられた。私とH君という虚弱な子の二人でいつも、教室に取り残された。食べ終えるまで、外で遊んではいけなかった。私は外遊びも嫌いだったから、皿をつつき回して時が過ぎるのを待った。H君は半べそをかいていた。小学校6年間で、あのもそもそした巨大コッペパンを全部食べた事が一度もない。

中学では給食がなくなり、毎日お弁当になった。

中1の時は母が早朝から市場の仕事に出ていたので、2歳上の姉が作ってくれた。母は、同じ市場で働く親戚に売り物のコロッケや天ぷらを届けさせ、それを弁当箱に詰めた。姉が作る卵焼きや野菜炒めも加わり、ずっしりボリューム弁当の出来上がりだ。

私はうちの揚げ物も嫌いだったから、ごっそり残していつも姉と喧嘩になった。

姉は市外の高校に進み、家を出て寮に入った。だから、中2からは自分で自分のお弁当を作った。

朝が弱いので大変だったが、自分で好きなように作れるのは嬉しかった。

フレンチトーストやホットケーキ、ホットサンドにフルーツサンド。皆が私の弁当を見に来るので、可愛い見た目にこだわった。前日からプランを立て下ごしらえして、一所懸命に作った。勿論、失敗も多かった。焼おにぎりにしようと思いつき、炊きたてのご飯で握ったおにぎりは、焼き網の上でぼろぼろと無残に崩れた。焼おにぎりは冷ましたご飯でないと上手く焼けないし、弁当にしてもあまり美味しくない事を知った。遅刻しそうになって、火にかけた鍋を忘れて登校し、鍋を真っ黒に焦がして酷く叱られたりもした。

それでも少しずつ、弁当作りは上達したと思う。

勉強はそっちのけでその結果、志望校のランクを下げる羽目になるのだが。

 

私が高2の時に姉が家に帰って来て、また姉ちゃん弁当に戻ってしまった。

私は姉が作ったお弁当を部活で腹を空かせた同級生に食べさせ、自分は菓子パンを買って食べたりした。

とにかく偏食が酷かった私。姉が言うことには

「ひとくち分のご飯に茹で玉子をふたつ。それだけを持って行こうとするのが見るに堪えなかった」

私は覚えていないのだが、まあ私ならやりそうな事だと思う。残してゴミになるよりは、食べられるものを詰めた方が良いのだから。

 

私が高3の時に弟は中1になった。反抗期に入り、母が弟の分だけ用意した弁当を急に嫌がった。

母は、弟の同級生の母親よりも年上で、見た目も老け込んでいる。そのせいで弟から「絶対に学校へ来るな」と言われたと落ち込んでいた。

確かにうちの母は、授業参観にも油臭い割烹着のまま来るような人だった。他の母親達はみな着飾って化粧をしている。弟は「あれは誰のお婆さん?」と同級生に噂され、同級生でなく母に腹を立てて母を出禁にしてしまった。

そして、弟の弁当も姉と私が作るようになった。私が上京し、姉が嫁に行った後はどうしていたのだろう。売店のパンでもかじっただろうか。

 

 

「おべんとうの時間がきらいだった」という本のタイトルを見て、思い出したことをつらつら書いている。

そう言えば、姉と昔話をしたときに姉が

「私もお母さんのお弁当が食べたい。みんなと同じように、お母さんが作ったお弁当が食べたいの」と、母に我儘を言った話を聞いた。

私は何も知らなかった。言われてみれば小学生の頃、母が仕事へ行く前に作った弁当がひとつ、テーブルに置いてあったのを思い出した。

それは何日間か続いたが、姉は気が済んで「もう、いいから」と、母に告げたらしい。

 

娘の弁当作りは私にとって、過去の書き換えのようなものだった。

苦手な早起きをして、毎日キャラ弁を作った。

娘は食べるのが大好きだから、見た目だけでなく味にも拘って作った。お弁当の時間には子供達も先生も皆、娘の弁当を楽しみにしていて、蓋を開けると歓声が上がった。

その娘も高校生になると「友達は誰もお弁当を持って来ない。私も皆と一緒に購買で買うから、もうお弁当は要らない」と言った。

 

お役御免、か…

 

あの日の母の寂しさが、少し解ったような気がした。

 

お母さんのお弁当

お母さんのお弁当…

どんな味だったのだろう。

忘れてしまった。

もう、二度と食べられない、お母さんのお弁当…