あめゆきをとって

仮題と下書き

あの日

2011年3月10日。

その日パートが休みだった私は同僚と銀座で韓国映画を観た。その後アンジェリーナのモンブランを食べ紅茶を飲みながら、夕方までお喋りをした。

翌日の3月11日 金曜日。

私は職場である某ショッピングモールに出勤した。同僚達と楽しかった昨日の話をしてケラケラと笑い合った。

午後にあんな大惨事が起こるなんて、夢にも思わずに。

 

その時、私は事務所にいた。

20人位のパート達と座っていた時に揺れが始まり、その揺れは激しく長く続いて事務所はパニックになった。

その中にいて私は冷静だったと思う。倒れそうなもの、落ちてきそうなものの側にいる人に声をかけ、悲鳴をあげる人を制した。

落ち着こう。落ち着いてと皆に、自分に言い聞かせた。

出口を確保し、揺れが収まるまではここにいた方が良いと判断した。

それにしても今までに体験した事のない激しい揺れとその長さに、不吉な予感がしていた。

 

これが、近々来ると言われ続けていた関東直下型地震なのだろうか?

違う。きっと震源地はもっと遠いところ…

 

パート達は家や子供を心配して、帰りたいと泣き出した。

揺れが収まると事務所にいた私達も各売り場に戻り、客を外に誘導するようにと指示された。

小学校低学年の子を持つパートが「早退したい」と上司に懇願しても

「非常事態だから今日は全員、定時までいてもらう」と言われて泣きじゃくっていた。彼女はシングルマザーなのだった。

誰かひとりを許せば皆が私もと言って帰るだろう。だから全員の早退を認めないのも仕方がないとは思う。

揺れが収まると客は買い物を続けようとして、誘導に応じない人もいた。建物内の安全を確認するのだと言って全員を外に出したので、大勢の客が外で再開を待っていた。

本日閉店と、さっさと言ってしまえばいいのに。

ついでに明日も休みにして、片付けは明日やればいいのに。

私達は文句を言いながら売り場の片付けをした。その間に何度も大きな余震があり、その度に身を屈めた。

私の売り場は衣料だったので、まるで死体のようにあちこちに転がるマネキンを起こすだけでよかった。

腕や指が折れてしまったマネキンを見つけては「負傷者発見!」とふざけて笑った。

努めて明るく、不安をかき消して働こうとしたのだった。

でも、他の売り場では商品が棚ごと全て落ちて散乱していたり、スプリンクラーが作動して水浸しになっていた。手の空いた私達は、それらの売り場を手伝うよう指示された。

私も自宅が心配だった。食器が割れた破片で犬達が怪我をしていないだろうか。ピアノが倒れて1匹ぐらい潰れているんじゃないだろうか。

そのうちに「今日は全員1時間残業して下さい」と上層部が言い出した。

は〜?ふざけんなよと皆が文句をたれたが、パートの分際では逆らえない。

 

ショッピングモールの1階にある大きなスクリーンに、どこかの漁港の様子が映し出されていた。

たくさんの青いトロ箱が流され、青い点となって海面にバラバラと散らばっていった。

津波

津波だって!

日本地図の太平洋側一帯に、大津波警報の真っ赤なラインが激しく点滅していた。

船が、車が、家が津波の濁流に呑まれていく。

誰かが小声で言ったのが聞こえた。

タンポポさんの実家って…確か…」

 

この映像が現実のものでも夢であってもどうする事も出来ない私は、時給930円の作業を続けるしかないのだった。

暫くすると、直属の上司が私の所にやってきて

「後の事はいいから、誰にも何も言わずに帰りなさい」と耳元で言った。

規則に厳しい会社であったから、私がルール違反をすれば上司も上からお咎めをくらうであろう。

けれどもせっかくのご厚意なので、私はこそこそと職場を出た。

制服のままコートを羽織り、自転車を飛ばして家に帰った。余程慌てたらしく、その時にいろいろなものを落として失くしてしまった。

家では犬3匹がパニックを起こして走り回っていた。

繰り返す地震が怖かったのだろう。

3匹を抱きしめながら、私はわあっと泣いた。でもそれはほんの一瞬の事。

テレビを付けても同じ映像を繰り返すだけだったので、ネットで情報収集をした。

断片的に入ってくる地元の情報は、絶望的なものばかりであった。

 

その翌日も私は出勤だった。

私は、こんな時にさえ店を開けて売ろうとする会社の体質を恨んだ。

洋服を買いに来る客など、誰もいなかった。

ひとりだけ「放射能が降ってくるから防護する」と、血相を変えて合羽を買いに来た人がいたが、私の売り場には置いていなかった。

食品売り場は大混乱で、私達は食品レジの応援をさせられた。

大型店舗の食品棚がカラになる程、何もかもが売れていった。

まるで戦争に備えるかのように、客は家族総出で買いに来て殺気立っていた。

私は、今ここで商品を売るのではなく東北の被災地に運んであげたらいいのにと思いながらレジを打った。

私達は少し我慢をすればいいだけ。被災地はとても寒くて、何にも無いのだ。

 

当時大学生の娘は、春休みを利用して山陰旅行ツアーを申し込んであった。

震災の影響でツアーは中止かと思ったが、中止にはならなかった。

友人がひとりキャンセルし、もうひとりは行くという。

TVニュースでは、福島原発が爆発した様子を流していた。

旅行中も震災の報道をよく見るように。

もしも東京の方に何かあったら無理に戻って来ようとしない事。

お友達と暫くの間、松江の義父の家でお世話になるように。

そんな話をして、私は娘を送り出したのだった。

 

この5年間でいろいろな事が変わった。

私と当時の同僚のほとんどが、あの会社を辞めた。

あの時私を早退させてくれた上司は、異動した先で病に倒れてしまったという。

娘は社会人になった。3匹いた犬は2匹になった。

あの日を忘れる事はないだろう。

これからもずっと忘れずにいて

もしも孫が出来るまで生きていたら、その子にいろんな話をしてあげたいと思う。


2016年3月