あめゆきをとって

仮題と下書き

礼子先生のこと

中1の時、私は華道部に入っていた。

でも、部員不足のために華道部は一年で廃部になってしまった。

どうしようかと思っていると、華道部の顧問だったレイコ先生が

「私は今度、書道部の顧問をやるから、タンポポちゃんも書道部に入りなさい」

と半ば強制的に書道部に入れられた。

レイコ先生は、保健室の養護の先生だった。

新しく出来た書道部は、部員があまりにも少なかったので、レイコ先生はいろんな子に声を掛けて部員を集めていたようだ。

その結果、集まったのはどう見ても、書道に興味が有るというより他の部活や学校生活にも馴染めていないような、大人しくて取り柄のない子ばかりであった。

レイコ先生は当時、特殊学級と呼ばれていた教室に通う障害児達も全員、書道部に入部させた。

そして、私を部長に指名して「この子達のお世話はタンポポちゃんがするように」

と命じ、障害児達にも

「何でも部長さんに教わりなさい。部長さんの言う事をちゃんと聞きなさい」

と言って聞かせた。

私は小学生の頃から他所で書道を習っていた。部員の中ではそれなりに上手かったが、入部とともに始めた競書の級を上げていきたかった。

そのためには集中して練習したいのに、障害児達はとても手がかかった。

彼らには、筆の持ち方から教えなければならない。

道具の配置も、姿勢も、墨の付け加減も、言葉で教えるのは難しいので後ろから手を持って書いて教えた。

少しすれば大人しく書く子もいたが、墨をぶち撒けて遊び出す子もいた。

彼らは鼻水を垂らし、涎も常に垂らしていた。

他の部員達は、文字通り汚いものを見る目で離れた所から見ていた。そして

タンポポ、可哀想に」と、お決まりの台詞を言うだけだった。

その上、必修クラブの時間が終わる毎にレイコ先生は私に、皆の前で今日の反省と感想を述べさせた。

部長をやるのも人前で話すのも嫌なのに…

私ばかりどうしていつもいつも、こんな目にあうのだろうと憂鬱な気分であったが、他に行くクラブもないし、レイコ先生に抗議する勇気もなかった。

 

私は体が弱かったので、保健室のレイコ先生にはよくお世話になった。

小柄で痩せっぽちの私を見ては、「タンポポちゃんはご飯をもっと食べないとダメ」と言っていた。

必修クラブ時間以外の平日の放課後には、保健室の片隅が練習場だった。

レイコ先生は毎日、給食の残りの牛乳を沸かし砂糖を入れて私達に飲ませてくれた。

そのお陰か私の身長は、中学入学から卒業までに20センチも伸びた。

レイコ先生は、私達の母親位の年代であった。

私の母は仕事で忙しくいつも疲れていたから、あまり話す時間がなかった。

だから、学校や家での悩み事があるとついポロっと、母親のようなレイコ先生に話していた。

他の部員達もイジメの事や進路の悩み等を、レイコ先生に打ち明けた。

レイコ先生は私達と一緒になって怒ったり悲しんでくれたが、最後にはいつでもさばさばとした調子で

「なーに!そったな事ぐらい、気にしないの!」と、明るく言うのだった。

嫌々やっていた部長の仕事も、卒業の頃までには慣れた。

特殊学級の子が廊下から私を見て

「ぶちょーさんだー」と大声で叫んだ。

それを見たクラスの男子達が、気味が悪いと言って嫌な顔をしたので

「人として最低だね」と言い放つ私になっていた。

 

中学を卒業してから、レイコ先生に会いに行く事はなかった。

私の家と中学校はとても近くにあり、会おうと思えばいつでも会えた。

24歳の時、高校時代の同級生が地元で結婚式を挙げた。その披露宴の帰りに街でばったりとレイコ先生に出会った。

その時の私は振袖姿であった。レイコ先生は、私の頭の上から足の先までを眺めて

「これがあの、タンポポちゃん。綺麗になったねぇ。大人になったねぇ」と、うっすらと涙を浮かべ感慨深そうにしていた。

私は突然の出会いが恥ずかしく、何も上手く言えなかった。

 

 

 

どうしてあの時、きちんとお話が出来なかったのだろう。

レイコ先生はその後、食道癌で亡くなってしまった。

まだ、50代の若さだった。

仕事では子供の健康ばかり気にかけ、自分の体は疎かにしていた。

癌と解った時には既に、末期状態だったそうだ。

会おうと思えば、いつでも会えた。何度でも会えたのに。

私は、自分が何か立派な何者かになってからでないと、レイコ先生には会いたくなかった。

だからあの時、偶然会った時にも、自分はまだ会ってはいけないのに何故と思い、何も話せなかったのだ。

本当に、本当に私は大馬鹿だ。

今でもレイコ先生を思うと、後悔の涙が止まらない。

 

 

 

「私の心は、あの保健室で大人になりました。

 私は、元気に生きています。

 ありがとう。レイコ先生。