あめゆきをとって

仮題と下書き

七年目のレストハウスへ

 疎遠にしていた故郷に帰省するようになったのは、東日本大震災がきっかけだった。

 故郷の惨状に言葉を失った私は、年に一度の帰省を自らに課した。この震災を決して忘れないように。復興の軌跡を確かめるために。

 そして、ある人との再会を果たしたかった。七年も前の、通りすがりの私など覚えておらず、困惑させるかも知れない。それでも、

「あの時は、私の方が勇気付けられました。どうもありがとうございました」

 そう伝えたいと、ずっと思い続けてきた。

 二〇一一年十一月、東京。JR新橋駅前SL広場で、岩手の観光イベントが開催された。各市町村のブースには地元の特産品が並び、大勢の客が集まっていた。

 しかし、宮古市のブースには活気がなかった。海藻と乾物ばかりの寂しい品揃え。もっとPRして欲しいのに、これでは宮古の良さが活かされない。漁業と観光に大被害を受けた宮古はまだ、打ちひしがれたままなのか。

 会場には震災直後と現在の写真が展示してあり、皆が真剣に見入っていた。私も一枚一枚、瞬ぎもせず見つめた。生まれ育った町のあまりの変わり様に、何度も息を呑んだ。

 元のような宮古に、果たして戻るだろうか。帰省したとき、積み上げられた瓦礫の山をいくつも見てきた。あのすべてが人々の生活そのものだったと、改めて思い知らされた。

 そして私は、たくさんの中から、従兄弟の家が写っている写真を見つけた。食い入るように見ていたら、

「その写真に、何か覚えがありましたか?」

 イベントスタッフの男性が問いかけてきた。

「私の従兄弟の家です。大通りの方まで津波が来たのですね。私は、宮古出身です」

「ああ、宮古の方でしたか」

 男性は、ある写真を指差した。

「これは、どこだかわかりますか?」

 その白い二階建ての建物は、一階と二階の窓ガラスがなくなり、がらんどうになっていた。津波に攫われたこの建物が、どれ程の衝撃を受けたのか、想像に難くなかった。

浄土ヶ浜レストハウスです。私は、ここで働いていました」

 胸が押し潰されそうだった。かけるべき言葉が、何も見つからなかった。

「これは震災直後の写真で、現在は板が張られています。来年には再開出来るように、一生懸命頑張っているところです」

「一日も早く、再開出来るといいですね」

「またレストハウスで働きますので、ぜひ遊びにいらして下さいね」

「新しいレストハウスに、必ず行きます」

 宮古も再興に立ち上がっていた。諦めてなどいなかった。私は、視界が滲んできたので、その場をそそくさと離れた。

 広場では、盛岡さんさ踊りを披露していた。東京の青い空の下で力強く、優雅に舞うさんさ踊り。踊り手の鈴を振るような掛け声が、心に沁みて涙が止まらなかった。

 この翌年の夏、浄土ヶ浜レストハウスが再建し、私と母と姉の三人で浄土ヶ浜を訪れた。目の前に広がる風景は、私の記憶に残る海と違って見えた。生まれ変わった浄土ヶ浜に、再び多くの観光客が訪れていた。レストハウスも大変賑わっていたのがとても嬉しかった。

 そして、再建から七年目のレストハウスで、私はようやく勇気を出して言った。

「新橋駅前のSL広場で約束したのです。必ず遊びに行きますと」

 残念ながら、その男性は別の職場に異動したためいなかった。しかし、イベントに参加していた他の方々と、お話することが出来た。あの人には会えなかったけれど、想いはきっと伝わっている。そう信じている。

 人生は、本当に一期一会だと噛みしめながら、私は光景を瞼に焼き付けた。この世のものとは思えないほどに美しい海岸と、傍らに立つ、浄土ヶ浜レストハウスを。

 

 

 

 

 

 

「いわて震災エッセイ2019」応募作品

(2018年秋に応募)