あめゆきをとって

仮題と下書き

里芋が美味しかったから

毎日歌壇に、私の歌が掲載された。

 

初七日の法要の膳の里芋が美味しくて泣く お婆やんごめん

 

初句の初七日は、私の母方の祖母が亡くなった時の、もう30年以上も前の事である。

母の実家は手広く商売をしていて、祖母は地元では有名なお婆さんだった。祖母に相応しい立派な葬儀が執り行われたが、忙しさもあり初七日と四十九日をまとめて行った。

各地に散らばった孫達も、全員が集結した。姉の大きな腹には、ひとり目の子が入っていた。夏の暑い日だったので、映画『サマーウォーズ』を観ると今でも祖母の葬儀を思い出す。

祖母が一人で住んでいた家の押し入れには、たくさんの膳と漆器がしまいこんであった。こんなものいつ使うのだろうと思っていた、それら全てが台所に出されていた。

女達がひしめき合って台所仕事をしている。見知った顔は少なく、知らない人ばかりであった。

いつの間にか役割分担が出来ていて、皆が手際よく大量の食材を刻み、大鍋で調理していた。身重の姉は使いものにならないので、せめて私は何かしようと思うのだけれど、私に出来そうな事は何も無かった。

タンポポさんは東京からおでったぁもの、お疲れだべすけぇにそごらさ座っとでんせ」

そう言われて、姉と座っていると

「おめさん達、お客様でねえんだが」と母が睨むので、再び台所に立っては戻るの繰り返しだった。

襖を全部取り外した和室にずらりと膳が並び「どの辺りに座ろうか」等と考えていると、驚いた事にそれは全て男達の膳なのだった。

葬儀では憔悴していた叔父も、この日にはもう陽気に酒を飲んでいた。まるで普通の宴会のような会食が終わり、客が帰った後に女達もようやく座れた。

居残った親戚や手伝いの人達と、祖母の思い出を語り合った。

そして、祖母が一番めんこかった孫は誰だろうという話になり、いつも聞き役の母が珍しく、一応は遠慮がちにこう言った。

「それは、おらが家のタンポポでねぇべかなぁ」

祖母は内孫も外孫も関係なく、全員を分け隔てなく可愛がったと思う。けれども孫達は、成長すると次第に祖母の家に寄り付かなくなった。

お婆やんお婆やんと慕っていたのは、私ひとりだった。上京すると決めた時、誰も反対していないのに、祖母だけが行くなと言った。

もっと長生きして欲しかった。私の子も見せてあげたかった。あと少し待てば、姉の子が生まれるのに。

悲しくて寂しくて仕方なかった。もうお婆やんに会えないなんて……

でも葬儀では泣かなかった。入院し痩せ細った祖母を見て、別れの覚悟は出来ていたから。

 

残っている料理を、女達が集まって食べた。

何気なしに煮物の里芋を口にした私は、その美味しさに驚き、思わず声を上げた。

「うわっ、この煮物すごく美味しい!」

「本当だ。味付けが上手だねえ」

姉も感心しながら煮物を食べた。

野菜の煮物など好きではなかったのに、今まで食べた中で一番美味しく感じた。

甘辛い味の染み込んだ里芋を味わいながら、私は酷く悲しくなった。泣き叫びたいのを我慢して、たくさん頬張った。

あんなに可愛がってくれた祖母がもういないというのに、里芋が、里芋なんかがこんなに美味しいなんて……

 

あの気持ちを歌にしようと、短歌を始めた頃から何度も何度も試みたが、なかなか上手く詠めなかった。

推敲すればするほど、遠いものになった。

それでも諦めずに、小細工はやめてありのままを詠んだ。

「ばあさん」や「ばあちゃん」の方が収まるのだが、ここは「お婆やん」でなければ母が納得しないだろう。

あまり使わない空白を入れたのも、悩んだ末の賭けであった。

掲載紙を母に送り、また「よく解らない」と言われたならば、この歌だけは解説してあげようと思っていた。

届いた頃に電話をすると

「今回のは良かったなあ。涙が出だったぁ」

と、母に言われた。

 

 

祖母の歌が掲載されて、母が喜んでくれたので私も嬉しかった。