あめゆきをとって

仮題と下書き

エッセイ・それからのこと

『私にとって父は、疎ましい存在であった』

昨年の冬に応募したエッセイは、この一文から始まった。

実際は『疎ましい』どころではなかったが、導入部なので過激な表現を避けた。そして、この後に

『父と遊んだとか、甘えた記憶がほとんどない。

父は仕事もせず、酒ばかり飲んでいた。

母が働いて得た金を賭け事に使い、咎めれば暴力を振るった。

病気で倒れて半身不随となっても、暴君のままだった』

と、父への批難が続く。

 

エッセイの入賞に気を良くした私は調子に乗って、掲載誌をたくさん買い友人達に配った。そのせいで、友人達と会う度に同じ事を聞かれている。

「あれからお父さんと、どうなったの?」

最初にそう聞かれた時は意味がわからず「どうなったって、何が?」と聞き返した。

それは、エッセイの最後を

『今度見舞いに行った時、聞いてみようと思う。父と、まだ会話が出来るうちに』

と、締め括っていたからだ。

タンポポとお父さん、その後どうなったのかなって気にしていたの。ちゃんとお話が出来たのかどうか……」

 

書いた当人がすっかり忘れていて「それはそれは」と恐れ入るしかない。

結論から言えば、私は父に何も聞いていない。

母は入賞をとても喜んで、親戚中に自慢した。

いつも親戚の子や孫の自慢話を聞かされているのだから、たまには自慢したっていいというのが母の言い分だった。

親戚ならいいけれども、父には言わないで欲しいと頼んだ。自分の悪口を書き連ねて賞をとったなんて、気分が悪いに決まっている。

あの父ならば、施設で激高しかねない。

「そんな事ないよ。お父さんだってきっと喜ぶよ」

母も姉も、そう言うのだった。

どうかしている。喜ぶはずもないのに。

私の記憶では、父が大喜びしたのは弟が大学に合格した時だけだ。

父の上機嫌が何か月か続いたので、その間は家族全員が穏やかで幸せな日々だった。

確か、弟が誕生した時にも父は大変嬉しそうだった。聞いた話だと、姉の誕生も喜んだ。それなのに私の時は「何だ、またおなごか」と興醒めして、私の名を考えようともしなかったらしい。

いったいどういうつもりなのだろう。母と姉は施設の父に、エッセイが掲載された本を持って行った。

父は関心を示し、老眼鏡をかけて文章を目で追った。

一行一行ゆっくりと時間をかけて、最後まで読み終わると、また最初から読み始めた。

無言で、無表情で。

それを三回ほど繰り返すと、父は本を閉じた。そして

「上手だあ」

と、ひと言だけ呟いたそうだ。

本当の事かどうかわからない。時々作り話をする母なのだから。

でもきっと本当なのだろう。そして父はもう、文章を理解出来ないという現実を目の当りにしても、母はのんきに笑っている。

人生でたった一度だけ父に誉められ、その意味も解らずに誉められて、私は嬉しくも悲しくもなくただやるせない。

 

昨年の9月に父の見舞いに行き、私はエッセイの話をしなかった。

毎日のようにお饅頭を欲しがっていると姉に聞いたので、明治座で買った人形焼きを持って行った。

父に会う、それだけの事で未だに拒絶反応が起こる。

父はご機嫌で、母と姉は耳がよく聴こえない父と筆談をしながら笑っていた。

私の笑顔はたぶん引き攣っていた。

この見舞いの直後、父は実家のある市内の施設へ移った。それは、母と姉だけでなく父の希望でもあった。

前の施設は姉の家から近く、そんなに行かなくていいのにと思うほど姉は施設に通っていた。本来は必要な受付での面会手続きも、姉は顔パスであった。

父が施設を変わり、気が抜けた姉は寝込んでしまった。そして今度は母がタクシーを使い、週に何度も父の元へ顔を出すのだった。

 

ある日、母が私に電話で言った。

「おどっつぁんがなあ、喋ってだったぁが。タンポポがお土産をいっぺぇたんねえで、こごさ来たぁ夢見だぁど」

「はぁ〜?何を虫のいい夢見てんだか」

私は心底あきれた。

「我ば人さば何にもけんねえくせででからに」

「それはそうだぁどもや」

私が父に何かを買ってもらった記憶は、たったのふたつだけだ。たったふたつだからこそ、その時のシチュエーションを今も鮮明に覚えている。

何がお土産をいっぱい持ってだ、ふん馬鹿馬鹿しいと数日腹をたてていたが、忘れた頃に姉からもLINEで同じ話をされた。

姉はせっかく施設通いから解放されたというのに、様々な事務手続き等で結局は市役所や父の施設、母の居る実家へと足繁く通っていた。

 

年が明けて、急激に父が弱っていった。

「ねえ、今忙しい?またお見舞いに来られないかな?」

「忙しくはないけれど、9月に帰ったばかりじゃないの」

「お父さんがねえ、もうダメかも知れないよ。元気で話せる今のうちに会わせたいんだけど」

私は戸惑った。父と会いたくなくて十数年間帰省をしなかった私が、震災以降には毎年帰省をしている。

そして東京に戻る時にはいつも、これが今生の別れの心積りでいた。

「もうダメかも知れない」は、これで何回目だろうか。父も母も高齢なので、体調を悪くしては回復するのを年中繰り返していた。

「こっちの施設では食事も全部食べて、おやつまでモリモリ食べていたのに今は何も食べないらしいの。施設でも困っていて『どんなものなら食べますか?』って電話が来るの」

私は父が我がままをして、周りの気を引いているだけだと思った。それに、食べなくなって逝くのが自然なのだから、もうダメだとしても全然構わない。

でも口には出さず「近いうちに行ってくるから」とだけ姉に言った。

 

1月下旬、私は弟を巻き込んで実家に帰省した。

三十年振りの岩手の冬。冬ってこんなに寒かったのかと思う。

父は個室のベッドに上半身を起こして座っていた。ぼんやりと、何もない所を見つめていた。

私は施設スタッフへの菓子折りと、父が口にしそうなものをいくつか両手に下げていた。

ほら、お土産をいっぺえたんないで来たタンポポが、正夢になったよ。

父は、私と姉を間違えなかった。後から入ってきた弟に気付くと、意外そうに「ああ」と声を上げた。

ちょうどこの日から、施設ではインフルエンザ感染予防対策として面会禁止期間に入っていた。

私達はそれを知らなかった。通知と入れ違いに東京から来たという事で、特例で5分間だけ面会が許されたのだった。

部屋に施設スタッフが入って来たので、私は挨拶をして菓子折りを渡した。

父が食事に手をつけなくて心配だと、スタッフが弟に切切と訴えていた。

私は父の前のテーブルに、持って来たおやつをひとつずつ並べた。

季節外れの種なしブドウを見て、父がうんうんと頷いた。

個包装のお饅頭、どら焼き、カステラ……

どれを食べるかと聞くと、カステラを指差した。

私はカステラの包みを破った。そういえば、パンのようなものはお餅よりも喉に詰まりやすいとテレビで見たのを思い出した私は、スタッフにお茶をお願いした。

カステラを手で小さくちぎって渡すと、父はそれを食べた。

「食べた……」

弟とスタッフと私は顔を見合わせた。

また渡すと、また食べた。

「お茶も飲んだら」と茶を指差すと、父はチラリとお茶を見て首を横に振った。

そうだった、父はお茶を飲まないのだ。母も飲まないので、実家にはお茶を飲む団欒がなかった。

水分もとらずに父は、カステラをむしゃむしゃと食べていた。本当はお腹が空いているのだろう。牛乳も持って来ればよかった。

子どもに与えるよりずっと小さなかけらを父に手渡しながら、私は酷く悲しい気持ちに襲われた。

自分が三文芝居を演じているような気がしたのだった。

父は、ひと切れの半分ほどを食べて「もう、いい」と言った。私は残りを袋に入れて、スタッフに預けた。

 

私は父がカステラを食べた事を、姉にLINEで報告した。

姉からは驚いた顔の絵文字が届いた。

それから父同様にあまりものを食べない母を連れ出して、弟の奢りで有名店のお寿司を食べた。

母は、少し無理をしていたのかも知れないが、いろいろなものを口にした。

3月に別のエッセイの表彰式が盛岡で行われた。

その前日にも私は、弾丸ツアーで実家と施設に顔を出した。

会う度に、父は小さくなっていく。

父への恐怖感がだんだんと薄らいでゆく。

母は元々小さいので、もうすぐ消えてなくなるだろう。

それでもふたりとも何とか生きていて、もしかすると私よりも長く生きるのではないか、

ただそれだけが心配なのだった。