あめゆきをとって

仮題と下書き

拾って捨てたネコのこと

その猫は草むらの中にいて、最初、姿が見えなかった。
そのまま通り過ぎてしまえば良かったのだ。


私の家は、私が小学校を卒業する少し前に引っ越しをした。
それまでの家は中学校の前にあり、新しい家は中学校から離れてしまった。
30分かけて通った小学校よりはだいぶましだけど、卒業した小学校が近くなり、中学校が遠くなるなんて、少し損をした気分だった。
でも、今までは無かったお風呂が付き、自分の部屋もあるのだから、引っ越して良かったのだ。
大きな家を建てた両親は満足げで、中学校が遠くなった事など、気にもかけなかった。

中学校と家のちょうど中間辺りに、小さな空き地があった。
何もないただの空き地で、雑草がぼうぼう茂っていた。
ある日の下校途中、その空き地を通りかかった時に、
小さな声がかすかに聞こえた。

ミィ…ミィ…

猫!
猫の鳴き声だよね?

立ち止まりよく耳を澄ますと、無音になった。

「ニャーン、ニャーン」

私は猫の声色で呼び掛けた。いつも野良猫と遊んでばかりいたから、猫声はお手のものだった。
果たして草むらから再び、ミィミィという声がした。

「怖くないから、出ておいで」

はやる気持ちを抑え、手を差し伸べると草むらがごそごそと動いた。
子猫がこちらに近づいて来る。
猫はミィミィ、ミィミィと甲高い声で鳴いた。
草の露と泥で少し汚れていたが、真っ白い子猫だった。
子猫は躊躇なく私の手の中に包まれた。
何という小ささ。
こんなに小さな子猫を見たのは、初めてだった。
そして、その顔を見て私は更に驚いた。瞳の色が金色と銀色で、左右違っていたからだ。

すごい。すごいよ。
この猫は、どうしたってうちで飼わなくちゃ。
お前は今日から、うちの猫だよ。


父は、動物を毛嫌いしていた。
犬や猫を飼いたいと何度頼んでも
「おらは好きだあども、おどっつあんがなあ」
と、母は口ごもった。そして、食べ物を扱う商売をしているのだから、犬猫の毛でも入ったら大変だというのが決まり文句であった。
食べ物屋さんでも飼っている家はたくさんあるのにと、言うだけ無駄だった。
今までずっと諦めてきた。けれど、この猫ならきっと大丈夫だ。
私は猫をそっと抱いて、家に帰った。
温めたミルクをあげよう。
お風呂に入れて、汚れを落とそう。
どうか、家にまだ誰もいませんように。

しかし玄関を開けると、この時間にいないはずの父がいた。
しかも、普段より一層怖い顔をして、仁王立ちになっている。
「何だ、その小汚ねえ奴は。そんなぁのば拾って来るな!」
「だってお父さん。この猫は特別な猫だよ。ほら、目の色が違うでしょう?金目銀目は福を招く猫なんだから」
私はこの時まで、父に逆らった事が一度もなかった。
父に「はい」以外の返事は許されない。
それなのに、私が初めて口答えをしたものだから、父は一瞬狼狽えていた。
でも、すぐに怒りの表情に戻り
「こ馬鹿たぐれが、さっさど外さなげでこぉ!気持ずが悪いが」と怒鳴った。

私は落胆した。

この、貴重な猫を捨てる?
馬鹿なのはアンタの方だ。
この猫が、気持ち悪いだなんて。

私は泣きながら原っぱに戻り、子猫を捨てた。
ごめんね。うちでは飼えないから。

ミィーミィー

きっとすぐにいい人が見つけてくれるからね。ごめんね。

ミィーミィー

家に戻り、2階の部屋に閉じこもっていると、父が何やら大声で騒ぎだした。
「なげでこぉって、言ったはずだあべ」

えっ?

捨てて来たのにと思う間もなく、玄関から猫の鳴き声が聞こえた。
さっきとまるで違う、とても大きな声だった。

ミァー!ミァー!ミァー!ミァー!ミァー!

「原っぱから、戻って来た」
「あそごでばダメだ。まっと遠ぐさなげで来ねえば」

私は何かを言おうとしたが、父がそれを遮った。

「なげで来んのが嫌ったがったら、うなもその猫と出はってげ」

私は自転車のカゴに子猫を乗せて、ペダルを目一杯漕いだ。
出ていけと言われても、行く所などない。
どれくらいの距離があれば、猫は戻って来ないのだろう。
うちになど、戻って来ない方がいい。
うちになど、幸せを呼んでくれなくてもいいのだ。
ペダルを漕いでいるうちに、いつの間にか知らない風景の場所にいた。
日が落ちて暗くなれば、私は本当に帰れなくなりそうだった。
私は猫を捨てて、泣きながら来た道を戻っていた。
出て行きたくても、バスや列車にひとりで乗った事がない。
あの家に、帰るしかなかった。
もし現代ならば、私は間違いなく所謂『神待ち』をして、あの家から逃げ出しただろう。

そして猫は、二度と戻って来なかった。

この翌年、父は脳出血で倒れ、半身不随になった。
あの猫の祟りだと、当時は微塵も思い至らなかった。
自分が病気にかかり、どうしてこんな目にと運命を呪った時、私が可哀想な事をした猫達を思い出した。
他の猫のことは、またいつか書こうと思う。

表彰式のこと

特定非営利活動法人いわてアートサポートセンターのエッセイ公募に入賞し、賞状と記念日とエッセイ集「いわて震災エッセイ2019」をいただいた。

 


f:id:tanpopotanpopo:20190403185243j:image

 

2月に開催された朗読会では、私の作品『七年目のレストハウスへ』も披露された。

私は諸事情で欠席し、姉と姉のお友達に観覧してもらった。

岩手放送(IBC)大塚アナウンサーの朗読のおかげで、私の作品もグレードアップされたのだろうか。

「身内の欲目かも知れないけれど、タンポポのが一番良かった。感動した。」

と、姉が言った。姉のお友達も誉めてくれたそうだ。

それは間違いなく身内の欲目だが、私も自分の作品の朗読を聞いてみたかった。

朗読会の欠席を後悔していたので、3月の表彰式には姉を伴って出席した。

ハイヒールではもう歩けないと解っていたので、姉の車で靴を履き替えた。

 

 

先日、母からこんな話を聞かされた。

私達兄弟が子供の頃、学校で絵や感想文の賞状を貰うのは、私だけであった。

「いいなあ。私も一度でいいから貰ってみたい」

姉がコッソリと母の所に来て、そう拗ねるものだから、母はいつも困っていたと言う。

私はとても驚いた。

そんな事、姉は私の前ではおくびにも出さなかった。

賞状なんか貰っても、妬んだ同級生には苛められるし、父からは見向きもされない。

たまに同級生の親から誉められても、私の表情はこわばってニコリとも出来ない可愛いげのなさであった。

自分では浮かれた覚えもないし、今更どうしようもない。母の作り話かも知れないが、何だか姉に申し訳なかったと思う。

こんな話を聞いたばかりなので、表彰式に付いてきて欲しいと頼みにくかったが、姉は

「いいよ!行く行く!」

と快諾した。

表彰式のリハーサル中、姉は手で口を塞ぎながら笑いを堪えていた。ハイヒールでよろける私の姿が、余程可笑しかったのだろう。

そうだった。

姉は厳かな場所ほど苦手で、何でも可笑しくなる病気なのだった。

そして私は極度のあがり症なのだが、姉の病気がうつってしまい涙が出るほど一緒に笑った。

姉がいたので緊張せずに済んだ。むしろ緊張感が足りなかったと反省……

表彰式が滞りなく終わると、私達は会場をそっと抜け出した。

ハイヒールからペタンコ靴に履き替えて、盛岡の美味しいラーメンを食べに行った。

 

昔は毎日のように大喧嘩をしていたけれど、姉がいてくれて良かったと思う。

 

 

 

ポプラの木の下で

駅前にある蛇の目寿司は、私が子供の頃から地元では有名な高級店であった。

今では地元だけでなく、県外からの観光客も訪れる人気店となった。

 

帰省して、その店に出かけた。

私が弟に「ご馳走してよ」とねだったら、思いがけず実現したのだった。

母と私と弟の三人で蛇の目寿司。56年の人生で、初めての事だ。

私達は、運ばれてくる品々に歓声をあげ、スマホで写真を撮っては姉に送信した。

「私も行きたかった」と、歯噛みして返事をよこした。

最近の母は、よく「おれは幸せ者」と口にするようになった。

「放ったらかしにして育てた子供達が、みんな親孝行だ」と、事ある毎に言った。

美味しいからと勧めても、食の細くなった母は、雀ほどしか食べない。

弟と私とで、少しづつ母に食べさせながらの会食。それでも不思議と楽しいものであった。

「おれはお前さん達さ、何にもしてけんながったのや。運動会のお弁当も、おれは1回も作んながったが」

「じゃあ私達は、運動会のお昼に何を食べたの?」

「おらが家は、アキ坊の家のおごっつぉを食べさせてもらったぁの」

「ええっ?そうだっけ?」

まるで記憶がない。思わず弟の顔を見ると

「ああ、そうだった」と言った。

アキ坊と言うのは弟と同学年の、私達の従兄弟だ。

「あれはうんまがった。唐揚げと、沢庵と……」

言われてみれば、叔母の作った豪勢なお弁当を、私も遠慮しながら貰って食べた記憶がある。それは、頼りなく朧気な記憶だった。

翌日、私は姉に聞いてみた。

「覚えている?お母さん、運動会のお弁当を一度も作っていないって。私達、アキ坊のとこで食べさせてもらったらしいの」

すると姉は

「違うよ。うちはいっつも蛇の目の太巻き

「ええっ?」

「毎年おばあさんが蛇の目の太巻きを持って来たの。子供達が可哀想だからって。私、それがすごく嫌だったから、よく覚えている。他所は手作りなのに、うちは毎年蛇の目の太巻き。皆はトラックの周りに集まって賑やかに食べているのに、うちだけ校庭の隅っこのポプラの木の下で、こそこそ食べたの。いつも太巻き。いつもポプラの下」

それを聞いて、私の記憶が鮮やかに蘇った。

そうだった。広い校庭の隅にとても大きなポプラの木があって、その下が私達の場所だった。

忙しい母は競技も見ずに、昼休みの時だけそこで待っていた。

家庭をかえりみない父が、学校行事になど足を運ぶはずもない。

毎年ビリの私は、運動会が大嫌いだった。誰も見に来てくれなくても構わなかった。ビリが恥ずかしくて、半べそをかきながら太巻きを食べた。具沢山で、黒々とした海苔に巻かれた太巻きを、ひと切れ食べればお腹がいっぱいになった。

私は何も知らなかった。それをおばあさんが手配した事も、姉が寂しかった事も。

高級な海苔の香りを思い出す。祖母も孫のために奮発したのだろう。

姉と私は2歳、私と弟は5歳離れている。だから私が4年生の時までが太巻きで、弟と従兄弟が入学した6年の時に、叔母の料理を食べたのだ。

では、5年生の時はどうしていたのだろう?姉も弟もいない、私ひとりのためにあの母が学校に来ただろうか?

大昔過ぎて何も思い出せないし、最早誰も覚えていないだろう。


 

 

何者にもなれなかったのは、なろうとしなかったから

なりたかったものに、なぜなれなかったのか考えた事は何度もある。

その度に私は、自分以外のせいにしたと思う。親のせい、田舎のせい、貧乏のせい、運がない?

なりたいものになんか、殆どの人がなれないものさ。そんな風にうそぶいてみたりもした。

私はずっと、何者かになりたかったわけではない。

生活に追われてパート生活をしていた頃は、日々のやり繰りと、子供の教育しか考えていなかった。

そんな中、帰省した地元で同級生にばったり出会った。

中学卒業以来だった。

懐かしさよりも、地元では誰にも会いたくない気持ちの方が強かったので、早々に立ち去りたかったが、同級生はしきりに懐かしがって私にこう言った。

「小説は書いているの?」

「えっ?どうして?」

「私、タンポポは絶対に小説家になると思っていたから」

私は返答に困ってしまった。ああ、中学時代の私はきっと、恥ずかしげもなくそんな話をしたのだろう。

自分でもすっかり忘れていたのに、さほど仲良しでもなかった彼女が覚えていたと思うと、穴があったら入りたい。

逃げるように別れて、こう思った。

小説家になんか、簡単になれるわけないじゃないの。

昔と変わらず可愛らしい笑顔でそんな事を言うなんて、何の皮肉のつもりだろうか?

そうではなかった。

あれから何年も経って、東日本大震災で被災した人達に彼女が行った支援の話を人づてに聞いた。

昔から彼女は自分よりも先に、周囲の幸せを願う人だった。

彼女の言葉には、ほんの少しの悪意もなく、私がひねくれているだけなのだ。

 

 

大人になってからの私は、小説家になろうとした事が一度もない。

想像して書く長い文章よりも、その日の小さな出来事や、何かに触発されて書いた短めの文章を、私はテレビやラジオ、新聞、雑誌への投稿という形で小銭に替えた。

謝礼の図書券や商品券は使いきれないほどたまったけれど、私の心は満たされなかった。

長い年月だけがあっという間に過ぎ、私はもう何者になれなくても構わない。

子供には、夢を叶えられるだけの教育を受けさせた。子供が幸せになりさえすれば、それで満足と思っていた。

なのに、子供が人生に躓いて自己否定し始めた時、それまで私がやっと保っていたものがガラガラと崩れていった。カウンセラーには

「お子さんがそんな風になったのは、あなたがあなたの人生を生きていないせい」と言われた。

そんな事、今更言われてもどう生きればいいのか、私は途方に暮れた。

 

私は、誰にも読まれなくていい散文を書き始めた。書けば、震える心が次第に落ち着いてゆくのがわかった。誰のためでもない、自分のための文章だから何と思われても平気だ。息を吐くように書き続けた。短歌や詩、エッセイ等、よく書けたと思うものは新聞に投稿した。

そして昨年末、突然目が見えなくなった。

せっかく自分を取り戻す方法を得たというのに、それすら奪われるのかと愕然とした。

罹患する人が少なく、完治する方法のない病。

幸い薬が効いたので、日常に不便がない程度には回復した。

誰にも読まれなくていい雑文だけれど、自分で手書き出来るのは今だけかも知れない。

そう思って公募に出した。恥晒しでもいい。やらなかった事を後悔するよりも、ずっといい。

私はもう、何者にもなれなくて良かった。

酷い人生だと思っていたけれど、案外楽しい事もあった。

公募に入選するとは思わないけれど、作品集に掲載されるという約40編の中にはどうしても入って欲しかった。それに入らないようならば、もう文章など書くのをやめようと思っていた。

そして先月、入選の知らせが届く。

 

神様はいないと思っていたけれど、神様は本当にいて、時々とても酷い事をする。

私は鏡の前で自分の頬を叩いた。痛い。夢ではない。

涙がぼろぼろ落ちた。それは決して嬉し涙などではなかった。

神様は酷い。

私を病気にした罪滅ぼしのつもりだろうか?今頃になって、こんな事をするなんて。

 

二通目の手紙

お義母さん。

あなたへの手紙は、これが二通目ですね。

最初の手紙を書いたのは、もう三十年以上も前の事です。

元号が「平成」に変わって間もない、あの雪の日に

あなたは突然倒れ、帰らぬ人となりました。

通夜の晩、涙を拭いながら書いた手紙を、棺にそっと忍ばせたのです。

あの頃諍いが絶えなかった私達夫婦は、あなたに心配をかけてばかりいた、その謝罪の手紙でした。

そして、もしも私達に子が授からなければ、離婚する覚悟だとしたためました。

 

お義母さん。

あなたが神様にお願いしてくれたのでしょう?

*1

お義父さんは、待望の初孫を一目見て

「母さんに瓜ふたつだ。これはきっと、母さんの生まれ変わりだ」

と、狂喜乱舞しました。

そして、目を赤くして呟いたのです。

「母さんにも、見せたかったのう……」

 

赤ん坊の世話は想像以上に大変で、辛い日々でした。

慣れない育児に悪戦苦闘し、つまずく度に

(お義母さんが生きていてくれたなら……)

何度もそう思い、あなたの息子と共に涙したのですよ。

 

お義母さん。

あなたの知らない「平成」の時代が今、終わろうとしています。 *2

あなたによく似たまん丸顔の娘が、未だ私達の元にいるのです。

今度は娘の縁結びを、神様にお願いしてくれませんか?

 

そしてこれからもずっと、私達を見守って下さいね。

とても優しかった、お義母さんへ。

 

 

 

 

 

*1  一部省略 

*2 2019年3月の応募作品

 

エッセイ・それからのこと

『私にとって父は、疎ましい存在であった』

昨年の冬に応募したエッセイは、この一文から始まった。

実際は『疎ましい』どころではなかったが、導入部なので過激な表現を避けた。そして、この後に

『父と遊んだとか、甘えた記憶がほとんどない。

父は仕事もせず、酒ばかり飲んでいた。

母が働いて得た金を賭け事に使い、咎めれば暴力を振るった。

病気で倒れて半身不随となっても、暴君のままだった』

と、父への批難が続く。

 

エッセイの入賞に気を良くした私は調子に乗って、掲載誌をたくさん買い友人達に配った。そのせいで、友人達と会う度に同じ事を聞かれている。

「あれからお父さんと、どうなったの?」

最初にそう聞かれた時は意味がわからず「どうなったって、何が?」と聞き返した。

それは、エッセイの最後を

『今度見舞いに行った時、聞いてみようと思う。父と、まだ会話が出来るうちに』

と、締め括っていたからだ。

タンポポとお父さん、その後どうなったのかなって気にしていたの。ちゃんとお話が出来たのかどうか……」

 

書いた当人がすっかり忘れていて「それはそれは」と恐れ入るしかない。

結論から言えば、私は父に何も聞いていない。

母は入賞をとても喜んで、親戚中に自慢した。

いつも親戚の子や孫の自慢話を聞かされているのだから、たまには自慢したっていいというのが母の言い分だった。

親戚ならいいけれども、父には言わないで欲しいと頼んだ。自分の悪口を書き連ねて賞をとったなんて、気分が悪いに決まっている。

あの父ならば、施設で激高しかねない。

「そんな事ないよ。お父さんだってきっと喜ぶよ」

母も姉も、そう言うのだった。

どうかしている。喜ぶはずもないのに。

私の記憶では、父が大喜びしたのは弟が大学に合格した時だけだ。

父の上機嫌が何か月か続いたので、その間は家族全員が穏やかで幸せな日々だった。

確か、弟が誕生した時にも父は大変嬉しそうだった。聞いた話だと、姉の誕生も喜んだ。それなのに私の時は「何だ、またおなごか」と興醒めして、私の名を考えようともしなかったらしい。

いったいどういうつもりなのだろう。母と姉は施設の父に、エッセイが掲載された本を持って行った。

父は関心を示し、老眼鏡をかけて文章を目で追った。

一行一行ゆっくりと時間をかけて、最後まで読み終わると、また最初から読み始めた。

無言で、無表情で。

それを三回ほど繰り返すと、父は本を閉じた。そして

「上手だあ」

と、ひと言だけ呟いたそうだ。

本当の事かどうかわからない。時々作り話をする母なのだから。

でもきっと本当なのだろう。そして父はもう、文章を理解出来ないという現実を目の当りにしても、母はのんきに笑っている。

人生でたった一度だけ父に誉められ、その意味も解らずに誉められて、私は嬉しくも悲しくもなくただやるせない。

 

昨年の9月に父の見舞いに行き、私はエッセイの話をしなかった。

毎日のようにお饅頭を欲しがっていると姉に聞いたので、明治座で買った人形焼きを持って行った。

父に会う、それだけの事で未だに拒絶反応が起こる。

父はご機嫌で、母と姉は耳がよく聴こえない父と筆談をしながら笑っていた。

私の笑顔はたぶん引き攣っていた。

この見舞いの直後、父は実家のある市内の施設へ移った。それは、母と姉だけでなく父の希望でもあった。

前の施設は姉の家から近く、そんなに行かなくていいのにと思うほど姉は施設に通っていた。本来は必要な受付での面会手続きも、姉は顔パスであった。

父が施設を変わり、気が抜けた姉は寝込んでしまった。そして今度は母がタクシーを使い、週に何度も父の元へ顔を出すのだった。

 

ある日、母が私に電話で言った。

「おどっつぁんがなあ、喋ってだったぁが。タンポポがお土産をいっぺぇたんねえで、こごさ来たぁ夢見だぁど」

「はぁ〜?何を虫のいい夢見てんだか」

私は心底あきれた。

「我ば人さば何にもけんねえくせででからに」

「それはそうだぁどもや」

私が父に何かを買ってもらった記憶は、たったのふたつだけだ。たったふたつだからこそ、その時のシチュエーションを今も鮮明に覚えている。

何がお土産をいっぱい持ってだ、ふん馬鹿馬鹿しいと数日腹をたてていたが、忘れた頃に姉からもLINEで同じ話をされた。

姉はせっかく施設通いから解放されたというのに、様々な事務手続き等で結局は市役所や父の施設、母の居る実家へと足繁く通っていた。

 

年が明けて、急激に父が弱っていった。

「ねえ、今忙しい?またお見舞いに来られないかな?」

「忙しくはないけれど、9月に帰ったばかりじゃないの」

「お父さんがねえ、もうダメかも知れないよ。元気で話せる今のうちに会わせたいんだけど」

私は戸惑った。父と会いたくなくて十数年間帰省をしなかった私が、震災以降には毎年帰省をしている。

そして東京に戻る時にはいつも、これが今生の別れの心積りでいた。

「もうダメかも知れない」は、これで何回目だろうか。父も母も高齢なので、体調を悪くしては回復するのを年中繰り返していた。

「こっちの施設では食事も全部食べて、おやつまでモリモリ食べていたのに今は何も食べないらしいの。施設でも困っていて『どんなものなら食べますか?』って電話が来るの」

私は父が我がままをして、周りの気を引いているだけだと思った。それに、食べなくなって逝くのが自然なのだから、もうダメだとしても全然構わない。

でも口には出さず「近いうちに行ってくるから」とだけ姉に言った。

 

1月下旬、私は弟を巻き込んで実家に帰省した。

三十年振りの岩手の冬。冬ってこんなに寒かったのかと思う。

父は個室のベッドに上半身を起こして座っていた。ぼんやりと、何もない所を見つめていた。

私は施設スタッフへの菓子折りと、父が口にしそうなものをいくつか両手に下げていた。

ほら、お土産をいっぺえたんないで来たタンポポが、正夢になったよ。

父は、私と姉を間違えなかった。後から入ってきた弟に気付くと、意外そうに「ああ」と声を上げた。

ちょうどこの日から、施設ではインフルエンザ感染予防対策として面会禁止期間に入っていた。

私達はそれを知らなかった。通知と入れ違いに東京から来たという事で、特例で5分間だけ面会が許されたのだった。

部屋に施設スタッフが入って来たので、私は挨拶をして菓子折りを渡した。

父が食事に手をつけなくて心配だと、スタッフが弟に切切と訴えていた。

私は父の前のテーブルに、持って来たおやつをひとつずつ並べた。

季節外れの種なしブドウを見て、父がうんうんと頷いた。

個包装のお饅頭、どら焼き、カステラ……

どれを食べるかと聞くと、カステラを指差した。

私はカステラの包みを破った。そういえば、パンのようなものはお餅よりも喉に詰まりやすいとテレビで見たのを思い出した私は、スタッフにお茶をお願いした。

カステラを手で小さくちぎって渡すと、父はそれを食べた。

「食べた……」

弟とスタッフと私は顔を見合わせた。

また渡すと、また食べた。

「お茶も飲んだら」と茶を指差すと、父はチラリとお茶を見て首を横に振った。

そうだった、父はお茶を飲まないのだ。母も飲まないので、実家にはお茶を飲む団欒がなかった。

水分もとらずに父は、カステラをむしゃむしゃと食べていた。本当はお腹が空いているのだろう。牛乳も持って来ればよかった。

子どもに与えるよりずっと小さなかけらを父に手渡しながら、私は酷く悲しい気持ちに襲われた。

自分が三文芝居を演じているような気がしたのだった。

父は、ひと切れの半分ほどを食べて「もう、いい」と言った。私は残りを袋に入れて、スタッフに預けた。

 

私は父がカステラを食べた事を、姉にLINEで報告した。

姉からは驚いた顔の絵文字が届いた。

それから父同様にあまりものを食べない母を連れ出して、弟の奢りで有名店のお寿司を食べた。

母は、少し無理をしていたのかも知れないが、いろいろなものを口にした。

3月に別のエッセイの表彰式が盛岡で行われた。

その前日にも私は、弾丸ツアーで実家と施設に顔を出した。

会う度に、父は小さくなっていく。

父への恐怖感がだんだんと薄らいでゆく。

母は元々小さいので、もうすぐ消えてなくなるだろう。

それでもふたりとも何とか生きていて、もしかすると私よりも長く生きるのではないか、

ただそれだけが心配なのだった。

 

七年目のレストハウスへ

 疎遠にしていた故郷に帰省するようになったのは、東日本大震災がきっかけだった。

 故郷の惨状に言葉を失った私は、年に一度の帰省を自らに課した。この震災を決して忘れないように。復興の軌跡を確かめるために。

 そして、ある人との再会を果たしたかった。七年も前の、通りすがりの私など覚えておらず、困惑させるかも知れない。それでも、

「あの時は、私の方が勇気付けられました。どうもありがとうございました」

 そう伝えたいと、ずっと思い続けてきた。

 二〇一一年十一月、東京。JR新橋駅前SL広場で、岩手の観光イベントが開催された。各市町村のブースには地元の特産品が並び、大勢の客が集まっていた。

 しかし、宮古市のブースには活気がなかった。海藻と乾物ばかりの寂しい品揃え。もっとPRして欲しいのに、これでは宮古の良さが活かされない。漁業と観光に大被害を受けた宮古はまだ、打ちひしがれたままなのか。

 会場には震災直後と現在の写真が展示してあり、皆が真剣に見入っていた。私も一枚一枚、瞬ぎもせず見つめた。生まれ育った町のあまりの変わり様に、何度も息を呑んだ。

 元のような宮古に、果たして戻るだろうか。帰省したとき、積み上げられた瓦礫の山をいくつも見てきた。あのすべてが人々の生活そのものだったと、改めて思い知らされた。

 そして私は、たくさんの中から、従兄弟の家が写っている写真を見つけた。食い入るように見ていたら、

「その写真に、何か覚えがありましたか?」

 イベントスタッフの男性が問いかけてきた。

「私の従兄弟の家です。大通りの方まで津波が来たのですね。私は、宮古出身です」

「ああ、宮古の方でしたか」

 男性は、ある写真を指差した。

「これは、どこだかわかりますか?」

 その白い二階建ての建物は、一階と二階の窓ガラスがなくなり、がらんどうになっていた。津波に攫われたこの建物が、どれ程の衝撃を受けたのか、想像に難くなかった。

浄土ヶ浜レストハウスです。私は、ここで働いていました」

 胸が押し潰されそうだった。かけるべき言葉が、何も見つからなかった。

「これは震災直後の写真で、現在は板が張られています。来年には再開出来るように、一生懸命頑張っているところです」

「一日も早く、再開出来るといいですね」

「またレストハウスで働きますので、ぜひ遊びにいらして下さいね」

「新しいレストハウスに、必ず行きます」

 宮古も再興に立ち上がっていた。諦めてなどいなかった。私は、視界が滲んできたので、その場をそそくさと離れた。

 広場では、盛岡さんさ踊りを披露していた。東京の青い空の下で力強く、優雅に舞うさんさ踊り。踊り手の鈴を振るような掛け声が、心に沁みて涙が止まらなかった。

 この翌年の夏、浄土ヶ浜レストハウスが再建し、私と母と姉の三人で浄土ヶ浜を訪れた。目の前に広がる風景は、私の記憶に残る海と違って見えた。生まれ変わった浄土ヶ浜に、再び多くの観光客が訪れていた。レストハウスも大変賑わっていたのがとても嬉しかった。

 そして、再建から七年目のレストハウスで、私はようやく勇気を出して言った。

「新橋駅前のSL広場で約束したのです。必ず遊びに行きますと」

 残念ながら、その男性は別の職場に異動したためいなかった。しかし、イベントに参加していた他の方々と、お話することが出来た。あの人には会えなかったけれど、想いはきっと伝わっている。そう信じている。

 人生は、本当に一期一会だと噛みしめながら、私は光景を瞼に焼き付けた。この世のものとは思えないほどに美しい海岸と、傍らに立つ、浄土ヶ浜レストハウスを。

 

 

 

 

 

 

「いわて震災エッセイ2019」応募作品

(2018年秋に応募)