あめゆきをとって

仮題と下書き

拾って捨てたネコのこと

その猫は草むらの中にいて、最初、姿が見えなかった。
そのまま通り過ぎてしまえば良かったのだ。


私の家は、私が小学校を卒業する少し前に引っ越しをした。
それまでの家は中学校の前にあり、新しい家は中学校から離れてしまった。
30分かけて通った小学校よりはだいぶましだけど、卒業した小学校が近くなり、中学校が遠くなるなんて、少し損をした気分だった。
でも、今までは無かったお風呂が付き、自分の部屋もあるのだから、引っ越して良かったのだ。
大きな家を建てた両親は満足げで、中学校が遠くなった事など、気にもかけなかった。

中学校と家のちょうど中間辺りに、小さな空き地があった。
何もないただの空き地で、雑草がぼうぼう茂っていた。
ある日の下校途中、その空き地を通りかかった時に、
小さな声がかすかに聞こえた。

ミィ…ミィ…

猫!
猫の鳴き声だよね?

立ち止まりよく耳を澄ますと、無音になった。

「ニャーン、ニャーン」

私は猫の声色で呼び掛けた。いつも野良猫と遊んでばかりいたから、猫声はお手のものだった。
果たして草むらから再び、ミィミィという声がした。

「怖くないから、出ておいで」

はやる気持ちを抑え、手を差し伸べると草むらがごそごそと動いた。
子猫がこちらに近づいて来る。
猫はミィミィ、ミィミィと甲高い声で鳴いた。
草の露と泥で少し汚れていたが、真っ白い子猫だった。
子猫は躊躇なく私の手の中に包まれた。
何という小ささ。
こんなに小さな子猫を見たのは、初めてだった。
そして、その顔を見て私は更に驚いた。瞳の色が金色と銀色で、左右違っていたからだ。

すごい。すごいよ。
この猫は、どうしたってうちで飼わなくちゃ。
お前は今日から、うちの猫だよ。


父は、動物を毛嫌いしていた。
犬や猫を飼いたいと何度頼んでも
「おらは好きだあども、おどっつあんがなあ」
と、母は口ごもった。そして、食べ物を扱う商売をしているのだから、犬猫の毛でも入ったら大変だというのが決まり文句であった。
食べ物屋さんでも飼っている家はたくさんあるのにと、言うだけ無駄だった。
今までずっと諦めてきた。けれど、この猫ならきっと大丈夫だ。
私は猫をそっと抱いて、家に帰った。
温めたミルクをあげよう。
お風呂に入れて、汚れを落とそう。
どうか、家にまだ誰もいませんように。

しかし玄関を開けると、この時間にいないはずの父がいた。
しかも、普段より一層怖い顔をして、仁王立ちになっている。
「何だ、その小汚ねえ奴は。そんなぁのば拾って来るな!」
「だってお父さん。この猫は特別な猫だよ。ほら、目の色が違うでしょう?金目銀目は福を招く猫なんだから」
私はこの時まで、父に逆らった事が一度もなかった。
父に「はい」以外の返事は許されない。
それなのに、私が初めて口答えをしたものだから、父は一瞬狼狽えていた。
でも、すぐに怒りの表情に戻り
「こ馬鹿たぐれが、さっさど外さなげでこぉ!気持ずが悪いが」と怒鳴った。

私は落胆した。

この、貴重な猫を捨てる?
馬鹿なのはアンタの方だ。
この猫が、気持ち悪いだなんて。

私は泣きながら原っぱに戻り、子猫を捨てた。
ごめんね。うちでは飼えないから。

ミィーミィー

きっとすぐにいい人が見つけてくれるからね。ごめんね。

ミィーミィー

家に戻り、2階の部屋に閉じこもっていると、父が何やら大声で騒ぎだした。
「なげでこぉって、言ったはずだあべ」

えっ?

捨てて来たのにと思う間もなく、玄関から猫の鳴き声が聞こえた。
さっきとまるで違う、とても大きな声だった。

ミァー!ミァー!ミァー!ミァー!ミァー!

「原っぱから、戻って来た」
「あそごでばダメだ。まっと遠ぐさなげで来ねえば」

私は何かを言おうとしたが、父がそれを遮った。

「なげで来んのが嫌ったがったら、うなもその猫と出はってげ」

私は自転車のカゴに子猫を乗せて、ペダルを目一杯漕いだ。
出ていけと言われても、行く所などない。
どれくらいの距離があれば、猫は戻って来ないのだろう。
うちになど、戻って来ない方がいい。
うちになど、幸せを呼んでくれなくてもいいのだ。
ペダルを漕いでいるうちに、いつの間にか知らない風景の場所にいた。
日が落ちて暗くなれば、私は本当に帰れなくなりそうだった。
私は猫を捨てて、泣きながら来た道を戻っていた。
出て行きたくても、バスや列車にひとりで乗った事がない。
あの家に、帰るしかなかった。
もし現代ならば、私は間違いなく所謂『神待ち』をして、あの家から逃げ出しただろう。

そして猫は、二度と戻って来なかった。

この翌年、父は脳出血で倒れ、半身不随になった。
あの猫の祟りだと、当時は微塵も思い至らなかった。
自分が病気にかかり、どうしてこんな目にと運命を呪った時、私が可哀想な事をした猫達を思い出した。
他の猫のことは、またいつか書こうと思う。