あめゆきをとって

仮題と下書き

里芋が美味しかったから

毎日歌壇に、私の歌が掲載された。

 

初七日の法要の膳の里芋が美味しくて泣く お婆やんごめん

 

初句の初七日は、私の母方の祖母が亡くなった時の、もう30年以上も前の事である。

母の実家は手広く商売をしていて、祖母は地元では有名なお婆さんだった。祖母に相応しい立派な葬儀が執り行われたが、忙しさもあり初七日と四十九日をまとめて行った。

各地に散らばった孫達も、全員が集結した。姉の大きな腹には、ひとり目の子が入っていた。夏の暑い日だったので、映画『サマーウォーズ』を観ると今でも祖母の葬儀を思い出す。

祖母が一人で住んでいた家の押し入れには、たくさんの膳と漆器がしまいこんであった。こんなものいつ使うのだろうと思っていた、それら全てが台所に出されていた。

女達がひしめき合って台所仕事をしている。見知った顔は少なく、知らない人ばかりであった。

いつの間にか役割分担が出来ていて、皆が手際よく大量の食材を刻み、大鍋で調理していた。身重の姉は使いものにならないので、せめて私は何かしようと思うのだけれど、私に出来そうな事は何も無かった。

タンポポさんは東京からおでったぁもの、お疲れだべすけぇにそごらさ座っとでんせ」

そう言われて、姉と座っていると

「おめさん達、お客様でねえんだが」と母が睨むので、再び台所に立っては戻るの繰り返しだった。

襖を全部取り外した和室にずらりと膳が並び「どの辺りに座ろうか」等と考えていると、驚いた事にそれは全て男達の膳なのだった。

葬儀では憔悴していた叔父も、この日にはもう陽気に酒を飲んでいた。まるで普通の宴会のような会食が終わり、客が帰った後に女達もようやく座れた。

居残った親戚や手伝いの人達と、祖母の思い出を語り合った。

そして、祖母が一番めんこかった孫は誰だろうという話になり、いつも聞き役の母が珍しく、一応は遠慮がちにこう言った。

「それは、おらが家のタンポポでねぇべかなぁ」

祖母は内孫も外孫も関係なく、全員を分け隔てなく可愛がったと思う。けれども孫達は、成長すると次第に祖母の家に寄り付かなくなった。

お婆やんお婆やんと慕っていたのは、私ひとりだった。上京すると決めた時、誰も反対していないのに、祖母だけが行くなと言った。

もっと長生きして欲しかった。私の子も見せてあげたかった。あと少し待てば、姉の子が生まれるのに。

悲しくて寂しくて仕方なかった。もうお婆やんに会えないなんて……

でも葬儀では泣かなかった。入院し痩せ細った祖母を見て、別れの覚悟は出来ていたから。

 

残っている料理を、女達が集まって食べた。

何気なしに煮物の里芋を口にした私は、その美味しさに驚き、思わず声を上げた。

「うわっ、この煮物すごく美味しい!」

「本当だ。味付けが上手だねえ」

姉も感心しながら煮物を食べた。

野菜の煮物など好きではなかったのに、今まで食べた中で一番美味しく感じた。

甘辛い味の染み込んだ里芋を味わいながら、私は酷く悲しくなった。泣き叫びたいのを我慢して、たくさん頬張った。

あんなに可愛がってくれた祖母がもういないというのに、里芋が、里芋なんかがこんなに美味しいなんて……

 

あの気持ちを歌にしようと、短歌を始めた頃から何度も何度も試みたが、なかなか上手く詠めなかった。

推敲すればするほど、遠いものになった。

それでも諦めずに、小細工はやめてありのままを詠んだ。

「ばあさん」や「ばあちゃん」の方が収まるのだが、ここは「お婆やん」でなければ母が納得しないだろう。

あまり使わない空白を入れたのも、悩んだ末の賭けであった。

掲載紙を母に送り、また「よく解らない」と言われたならば、この歌だけは解説してあげようと思っていた。

届いた頃に電話をすると

「今回のは良かったなあ。涙が出だったぁ」

と、母に言われた。

 

 

祖母の歌が掲載されて、母が喜んでくれたので私も嬉しかった。

 

ユッコ姫のアイス

 

五十年も昔の事。生まれ育った小さな港町には、胸ときめくものが何もなかった。家庭が不和で、学校でも苛められる惨めな私。

祖母は隣の町に住んでいた。一人でとぼとぼ歩いていたら、ばったり祖母と出会った。祖母は何かを察したように「ユッコやん、お婆やんと一緒にあべ(行こう)」と言って、連れて行かれたのが喫茶店だった。

私はとても緊張した。薄暗い店内。テーブルを照らす橙色の灯り。ふわふわな椅子は赤い別珍張り。祖母はコーヒーとアイスクリームを注文した。お婆やん、コーヒーなんて飲むんだと少し驚いた。手持ち無沙汰な私は椅子を撫でながら、この異空間を眺めていた。

アイスクリームが目の前に運ばれて来た。足の付いた銀色の皿に、半球のバニラアイス。真っ赤なさくらんぼとウエハースが添えられている。

恐る恐る口にして、あまりの美味しさにうっとりとした。私は今、お姫様になる魔法がかかっているのではないかしら。リカちゃん人形のようなドレスを着て、夢のアイスクリームを食べて。

実際には姉のお古を着た見窄らしい私を、祖母はニコニコ顔で見ていた。

「うんめえが。どら、お婆やんさもぺんこけろ(少し頂戴)」

祖母にひと匙あげた後、私は大事に大事にアイスクリームを舐めた。

祖母はもう、とうの昔にこの世にいない。

あの喫茶店が無くなったのは、東日本大震災の後だろうか。

店は、大津波が襲った場所に建っていた。

煌めく思い出のアイスクリームを、私はずっと忘れない。

 

 

もうひとつのエピソード

昨年の9月、海の見える高台にあるホテルに母と一泊した。

その帰りに浄土ヶ浜レストハウスに立ち寄ったのは、復興イベントでお会いした人を訪ねるためだった。人見知りな私がその勇気を出すまで、七年もかかってしまった。

しかしその人は勤務先が変わってしまい、レストハウスにはいなかった。

私はレストハウスが再開した年にも、ここを訪れていた。

復興ツアーのバスが何台も並び、食事や買い物をする観光客でごった返していた。そんな中で人探しを始めたならば、迷惑に決まっていた。

その人の、今の勤務先にまで押しかけるつもりはない。

私は会いに来たけれども、会えなかった。物語はここで、終わりにしなければならない。

私の心中と同じように、空はどんよりと厚い雲に覆われていた。

「せっかくだから、浜辺の景色を撮って来る」

私は足の悪い母を、売店の前にあるベンチに座らせた。

お盆を過ぎると遊泳禁止になるので、海岸には人があまりいない。

散歩に来ていた園児達が遊んでいたのと、母と私の他に、観光客と思しきグループがふた組ほどいただけだった。

晴天ならば、青と白と緑のコントラストが素晴らしい眺めなのに、曇天では何度撮り直しても綺麗に写らない。

いい写真を半ば諦めた時、近くに一台のマイクロバスが停まった。

そして車椅子が4台、外に運び出された。

バスの車体には、老人介護施設の名称が書かれていた。それは、父の入所を希望している施設だった。

私は母の元へ戻り、寒くないかと聞いた。母は、大丈夫だと言った。

「あのバスね、△△△のバスだっけよ。こんな場所にも連れてきてくれるんだね」

「あれが△△△の……」

そこに若い女性職員がやって来て、売店でえびせんを買い求めた。女性職員はえびせんの袋を抱えて、バスの方へと走り去った。

浄土ヶ浜うみねこは、えびせんの赤い袋を見ただけでわらわらと集まってくる。

「見に行こうっと」

私は再び浜辺に戻った。

職員は4、5人いて、全員が若い人だった。

車椅子の老人に「◯◯さ~ん、寒くないですか~?」等と尋ねながら膝掛けを整え、えびせんの袋を持たせて、撒いてみるよう促していた。

老人達は、ひとりを除いて皆が無表情のように見えた。職員がえびせんを宙に撒くと、一斉に羽を広げて飛び交ううみねこの群れ。

職員達の歓声があがる。うみねこを酷く怖がっている男性職員がいて、それがまた可笑しくてはしゃいでいる……のは職員達である。

老人は皆、無表情だった。

楽しいのかな……と、ふと思った。

例え表情に出せなくても、笑い声をあげられなくても楽しいのだろう。たぶん、いや、きっと楽しいのだ。

ここで生まれ育った人は皆、この海が好きなはずだから。

出不精の母でさえも、海に行くと言えば喜んで付いて来る。

女学校時代には友達と訪れ、青春の舞台となった海。

孫を連れ、ひ孫まで連れて来たこの海で、幼い子らがうみねこと戯れた光景は、母の一番の宝物だった。

車椅子の老人達にも、そんな思い出があるに違いないのだ。

老人のひとりは、職員に促されるまま袋の中からえびせんを掴み、宙に撒いた。

こんな動作も、楽しいリハビリになっているのかも知れない。

 

そんな事を考えながら、ぼんやりバスのロゴマークを眺めていたら、あるひとつの記憶を呼び覚ました。

もしかしたら……いいえ、間違いない。

どうして今まで思い出さなかったのだろう。

△△△は、高校時代に同じグループだったMちゃんの就職先だ。

私達が卒業の年に、老人介護施設への就職を希望したのはMちゃんだけだった。

介護施設が身近でなく、今よりもずっとマイナーなイメージだったあの頃。

Mちゃんはいつでも朗らかで、人が嫌がる仕事や、人のためになる事を率先してやる子だった。

だからMちゃんが大変そうな職場を選んでも「Mちゃんらしいね」と、誰もが口を揃えた。

あれから30年以上経っている。でも……

私は、マイクロバスの近くにいた男性職員に声をかけた。

「こんにちは。皆さん、とっても楽しそうですね」

「そうですねえ。僕はちょっと、鳥が苦手なんですけどね」

私達は笑った。羽を広げたうみねこは意外と大きくて、人を恐れずえびせんを貰おうとするのだ。

「うちの父も、△△△さんのお世話になりたくて、申し込みをしたんですよ」

「えっ?うちにですか」

「はい。父は盛岡の施設にいるのですが、やっぱり宮古がいいらしくて」

「ああ〜、そうでしょうねえ」

優しそうな顔の好青年だ。私は意を決して核心に触れた。

「ところで、Mさんって今もそちらで働いていますか?」

私がMちゃんのフルネームを伝えると、彼は頷きながら

「ええ、いますけど。お知り合いでしたか?」

「私は同じ高校の同級生です。辞めないでずっと働いていたんだ、すごいなあ、Mちゃんは」

「同級生!へえ〜!帰ったらMさんに伝えておきますよ」

「宜しくお願いします。ああ、よかった。Mちゃんが元気なのが解ってよかった。

あれっ?でも……名字が変わっていない……という事は……」

男性職員は悪戯っぽい目で、にやりと笑った。

「お察しの通りですよ」

Mちゃんは、恋に奥手なタイプだった。仕事一筋で生きて来たのだろうか。お見合いでもすればよかったのに。

男性職員は「必ず伝えますから」と言いながら、私の名前を手のひらに書いた。

 

私は売店のベンチに走り、興奮して母に言った。

「大変大変!同級生のMちゃんが、今も△△△にいるんだって。すごいねえ」

「あやぁ、おめさんの知り合いが、あそごさいだったぁの?」

「あそごさばいなかったけど、男の人さ聞いてみだっけば、まぁだ勤めったぁど。

これだけ長くいだらMちゃんは、結構偉くなってるかも知れないよね」

「おらぁまぁ、△△△に、おめさんの同級生が」

「こんな偶然ってある?お父さん、きっとすぐ△△△に入れるよ」

「なあしてや?おめさんがお友達さ頼んでみっとこだ?」

「まさか。そんな事頼めないよ。だけど、入れると思う。絶対に」

 


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私の勘は、よく当たる。

 

一昨年のいわて震災詩歌で詠んだ「波と手紙と白い花」の中の一首

 

友人の家流されて六年目 出した手紙は届かぬままで 

 

この手紙は、Mちゃんに宛てたものだった。

Mちゃんの家がある地域は、津波で多くの家屋が流された。

別の同級生の家は流されてしまい、跡形もなかったと聞いた。

Mちゃんの家は、どうなったのか。

Mちゃんの家族は無事だったのか。

私の手紙は届かなかったのか。

届いたけれども、返事が貰えないだけなのか。

父は施設を移り、そこで私はMちゃんとの再会を果たすだろう。

Mちゃんはきっと、あまり変わっていないと思う。

そしてMちゃんは、私のあまりの変わりように涙を流して笑うのだろう。

 

何しろ私の勘は、とてもよく当たるのだから。

カラオケに行った

2019/12/06

九月に帰省した時、姉と弟と私の三人でカラオケをした。

それは私達にとって、早く忘れ去りたい黒歴史であり、ずっとしまっておきたい宝石のような一夜でもある。とにかく最高にエモーショナルな出来事であったから、忘れないうちに書いておく。

 

 

私はカラオケが大嫌いだった。今もあまり好きではない。

昔、お金に困るとスナックでアルバイトをした。どこの店にもカラオケは必ず入っていたから、デュエットしたり、客からのリクエスト曲を歌ったりした。それはお金のため。仕事だから歌うだけだった。

 

結婚して最初のお正月、夫の実家に帰省した。

居間には真新しい家庭用カラオケセットが鎮座していた。カセットデッキと大量のカセットテープが専用箱に収められている。新聞広告か何かで見た覚えがあるが、こんなものを買う家があるのだろうかと思っていたら、あった。

義父と義母が私に「歌え歌え」と迫る。

仕方ないので、年寄りには演歌がよかろうと思い『津軽海峡冬景色』のテープをかけた。イントロが流れ始めると、二人の表情が変化したのを私は見逃さなかった。歌い終えると「上手だねえ」と誉めてくれたが、表情を変えた理由は後になって解った。『津軽海峡冬景色』は、義母の十八番なのだった。

(面倒くさい。これだからカラオケは……)

義母は別の演歌を歌った。義母の歌は上手だった。義父は酷い音痴で、それは夫に遺伝した。

夫の実家でカラオケをしたのは、この一度きりである。次の正月に私達は帰省せず、翌月に義母が急逝した。

 

そういえば……

思い出した。姉の嫁ぎ先の家にも、カラオケセットはあったのだ。

義兄となった人は公務員だが、農家の三男坊だった。結婚式場での披露宴の後、本家に義兄の親族を集めての大宴会が開かれた。

その余興で、姉が歌う羽目になった。

うわぁ可哀想に。私ならば頑なに断るだろう。しかし、姉は歌が得意だった。学生時代から社会人になっても合唱を続け、ソプラノのソロパートを任されるほど上手かった。

姉は『みちづれ』を少し緊張しながら歌った。田舎酔っぱらい共は聞き惚れて、拍手喝采した。

母は、ほっと胸を撫で下ろしていた。

酒を飲み過ぎて挙動がおかしくなった父が、何故かおいおいと泣きだして、私は興醒めした。

 

長い長い間、カラオケを拒絶していた。仕方なく付き合っても歌わずに、聴くだけにした。

どうしてお金を払って別段上手くもない素人の歌を聴いたり、ひと様に聴かせたりしなければならないのかと、常々思っていた。今までプロ並みに上手いと思ったのは、二人くらいしかいない。大体、人の歌など誰も聞いてやしない。いや、聞いて欲しくもないけれど。

それが昨年、娘とカラオケに行って以来、ひとカラに嵌った。お腹から思い切り発声するのはストレス解消になった。仕事もしていない私に何のストレスがあるのか自分にも解らないが、確かに気分爽快だった。

でも飽きっぽい私は、ひとカラもやめてしまった。自宅でYouTubeに合わせて歌えば十分で、お金もかからない。集合住宅なので、大声は張れないけれど。

 

 

前置きが長くなってしまった。

私達は決して仲良しきょうだいではなかった。

私と姉は2歳、弟は5歳離れている。姉は寮のある高校に入り、卒業して家に戻ってから間もなく結婚して家を出た。

私が高校を卒業し上京する頃、弟は絶賛反抗期中だった。6年生あたりから弟は、家族の誰とも口をきかなくなっていた。

その弟が上京し、隣の区に住んでいてもほとんど交流をしなかった。内向的な弟が大学生活をエンジョイしているとは到底思えなかったが、私にはどうする事も出来ない。弟は卒業と同時に地元へ帰って就職した。

40代後半になってから、弟と再会した。

弟は中年太りの私の姿を見て、腹を抱えて大笑いした。無愛想な弟があんなに笑うなんてと、母が感心するほどであった。

弟とメアド交換をしたものの、特にメールする用事もなくて放置していたのだが、再会から3ヶ月後に東北大震災が起こり、安否確認や情報収集にメアドが役に立った。

以来、帰省する度に弟の車を出してもらい、一緒にご飯を食べた。それを姉が妬んで、自分も弟とメールやLINEがしたいと言うので一応は伝えたが、弟は乗り気でなさそうだった。圧の強い姉二人からあれやこれやと、これ以上要求されるのはご免なのだろう。

「何かあったら、私が弟に連絡してあげるから」と言うと、姉は

「近いうちに葬祭など話し合う事になるだろうから、三人で繋がっていた方がいいと思うの」

と言った。

 

私は今回の帰省スケジュールを弟に伝えた。

田舎では車がないと本当に不便で、タクシー代がかさむ。父のいる老人ホームへ行くのに往復三千円。私だけなら自転車でどこにでも行くが、母は近所の買い物でさえ、もう歩けない。

弟は運転手を引き受けてくれたものの、当日になって急な仕事が入ってしまった。

「悪いがJRかバスで帰って。夕方までに終わらせるから、寿司屋を予約しておいて」とLINEが来た。

「それなら私が車を出してあげる」

と、姉は張り切って言うのだが、私は予定を変更してJRで帰り、駅まで迎えに来てくれた友人の車で海を見に行った。

友人とお茶をしてから実家に帰ると、程なく姉も実家にやって来た。そして、いつもなら実家には泊まらず日帰りで自宅へ戻るのに、今夜は皆でお酒を飲みたいから泊まると言う。

スポンサーの弟は大変だが、賑やかな方が母も嬉しいだろう。

四人分の席を予約し、タクシーを呼んで寿司屋に向かおうとすると、急に母が「私は行かない」と言い出した。

「どうして?行こうよ。せっかく集まったのに。弟がご馳走してくれるんだよ?」と、いくら言っても頑として聞かない。数日前に体調を崩して食欲がなくなった母に、少しでも何か食べさせたいのに。

母が言わなくても私達には解っていた。母は、紙オムツをして外に出かけるのが嫌なのだ。

母を家に残して、姉と私はタクシーに乗った。そして車内で弟にLINEをした。

「母がひとりで家にいるから、説得して連れて来るように」と。弟が誘えば素直に従う母なのだ。

思惑通りに、弟は母を連れて来た。

私達は美味しいものを食べて、私以外はお酒もたくさん飲んだ。姉が一番よく笑いよく喋っていた。

「ねえ、私ともLINE交換してよ」

「断る」

「いいじゃない、交換しようよ!」

酒の力を借りて、弟との距離を一気に詰めていく姉。弟とはあまり話した事がないから、どう接していいか解らないと、いつも言っていたのに。

たらふく食べて飲んで、そろそろお開きという頃、突然姉が言った。

「もう一軒行かない?そうだ、カラオケに行こうよ!」

「えー?嫌よカラオケなんか」

「だって娘ちゃんとよく行くんでしょう?時々ひとカラもするって。それ聞いて、いいなぁ私も行きたいなぁって、ずっと思ってたの」

「そのマイブームはもう終わりました。何が悲しくてこのきょうだいで、カラオケなんかしなきゃいけないのよ。ねえ?」

私は弟に同意を求めた。すると

「俺は別にいいよ」

私は驚いた。弟は断固拒否すると思っていたのだ。

「カラオケに行ったりするの?」

「行く。何を隠そうこの俺は、宴会部長だ。どちらかと言えば、握ったマイクは離さない方だ」

まさか、信じられない。あの弟が……

私と姉が呆然としているうちに、弟はさっさと寿司屋の会計を済ませていた。

カラオケボックスがどこにあるか知ってる?」

「知らない。タクシーで聞けばいいさ」

目的地に向かう車内で母がまた、自分は行かないと言い出した。

私は母にも来て欲しかったが、もう遅いから休ませた方がいいと姉が言う。確かにそれが正しいのだろう。私達はカラオケボックスの前でタクシーを降り、母を家まで送り届けてもらった。

東京にあるカラオケ店のどれでもない、ローカルな店だったが、部屋に入れば見慣れた空間であった。

姉が興奮気味に辺りを見回していた。ドリンクはセルフサービスの飲み放題で、ビールが発泡酒ではなく本物のビールだと知り、はしゃいでいる。寿司屋でもかなり飲んで来たのに、まだ飲むのかと呆れたが、飲み放題ならば飲まなきゃ損だろう。

弟はさっそく端末機を操作していた。姉は言い出しっぺのくせに「どうしよう、何を歌おうかな」等と狼狽えている。

「採点はどうする?」と、私が弟に聞く。

「いらない」

「年代しばりでいこう。1970年から80年代の曲で」

「マジか……」

弾けるように曲が流れ出す。弟が入れた『勝手にしやがれ』のイントロだった。

「弟よ、正気か……」

「うっそー!信じられなーい!」

姉が悲鳴のような声をあげた。

弟が歌謡曲を歌っている。それどころか、ジュリーになりきっている。クラクラと目眩がしたが気を取り直し、私も曲を入れた。

「歌うの?」

「当たり前でしょ。もう破れかぶれよ」

「何を歌うの?ああ私どうしよう。困ったな、どの曲を歌おうか……」

「何だって好きなの歌えばいいよ」

チャーラッチャチャーンとイントロが流れて、姉と弟が「おおっ」と目を見張った。

私が入れたのは『聖母たちのララバイ』だ。すっくと立ち上がり本気モードで歌い始めると「キャー、嘘でしょ妹、信じられなーい」と姉が騒ぐ。

それから私達は交代で歌い続けた。姉は山口百恵松田聖子を歌うと思っていたが、夏川りみ中島みゆきを歌った。私は松任谷由実薬師丸ひろ子。姉と弟はビールを何杯もあけ、私は何も飲まなかった。姉が黄色い声をあげては変な合いの手を入れるので、弟は面食らっていた。『パールピアス』を歌えば「うあー」と弟が呻く。元カノが好きだった曲だと言う。やめてくれそのカミングアウトいらない。

私達のぎこちなさは、一緒に暮らした年月が少ないからではない。日常の出来事を話す事さえ、私達はしてこなかった。居間で歌番組やバラエティ番組を一切見なかった。私達が見たくても父はテレビをブツリと消した。

私はひとりこっそりと、二階にある小さなテレビで「ザ・ベストテン』を見た。見なければ、次の日学校で話の輪に入れないからだ。当時の私がジュリーファンだったのを、弟が知る由もない。

イルカ、テレサ・テン松山千春、チューリップ、長渕剛チャゲアスかぐや姫、誰が何を歌っても知らない曲のない50代が三人で、延々と歌い続けた。

失ったものを取り戻すのではなく、無かった時を今、重ねようとしているのだろうか。私は少し悲しい気持ちになりながら、歌い騒いだ。地獄絵図ですか。違う、これは喜劇オペラ。どうしてだろう。涙が出そうになる。黙っていたら泣いてしまう。笑え。歌おう。最高じゃないか。これこそが喜劇だ。

誰が何をどれだけ歌ったのか、もう忘れてしまった。最後に三人でアリスの『冬の稲妻』を熱唱したのは覚えている。阿呆かと。そして、これがラスト曲に相応しいかという疑問がわいて、またもや延長しそうになるのを私が阻止した。明日も弟は仕事がある。

そして姉と弟は実家に、私は予約しておいたビジネスホテルに泊まり、翌朝実家に行くと弟は不機嫌そうにして目も合わせない。合わす顔がないというやつだろうか。きっと昨夜の乱痴気騒ぎを後悔しているのだろう。無理もない。

そんな事を考えていると、姉が少し照れくさそうに

「昨日は騒ぎ過ぎてごめんねー。でも楽しかったよね」と、脳天気である。

「母も来れば良かったのにねえ」

「そうなんだけど、昨夜は帰して正解。ここだけの話、母、粗相してたみたい」

「マジかー。てかさ弟が超不機嫌なんだけど」

「ああ、あれは二日酔いね。頭が痛いって」

「飲み過ぎだよね。姉は平気なのか?」

「全然平気。それでね、弟とLINE交換したんだー」

 

 

 

おぞましい。本当にどうかしていた。夢であって欲しい。無理に忘れようとしなくても既に諸々忘れてしまった。あのような夜は、二度とないと思う。あってはならないのに、姉はまた行こうと言う。あれ以来、弟とはまた音信不通になった。

 

これから先の私達は、実家問題の諍いがきっと多くなる。人の終焉を見届けるだけの未来が、すぐそこまで来ている。

それでも、どんな時でもあのカラオケの夜を思い出せばいい。きっと可笑しくて可笑しくてたまらないだろう。

 

 

 

わたしの城下町

住む場所を自由に選べる。それが実現するならば、私はどこに住むだろう。

 

高校を卒業し、東北の港町から上京した私はこれまでに、東京都内を8回引っ越した。

いつもお金がないから高い賃貸物件には住めなかった。安さにはそれぞれ訳があって、住まいに満足したことは一度もない。

そして当時は、敷金2礼金2仲介手数料1が相場であった。家賃ひと月分も含め、5万円の物件に引っ越すためには30万円が必要になる。

1980年代、世の中はバブル景気でも、私はますます貧しくなった。正真正銘の引っ越し貧乏だ。

結婚願望が強かった私は、とある永久就職を目論み首尾よくいきそうだった。しかし、ある日相手が突然こんな事を言った。

「うちの母が君に改名して欲しいと言っている。母の姓名判断によると、君の名には一つ所にじっとしていられない要素があるらしい」

母と言いながら、自分の要求でもあるのだろう。冗談はよし子さんだ。頭のおかしい連中とこれ以上関わるのは御免なので、即破談にした。

それを後悔した事はない。しかし今になって思えば、一つ所に留まらないというのはあながち間違いではなかった。

 

私の勘はよく当たる。けれども時々大外れをする。

夫の故郷の島根県松江市を初めて訪れた時、私はきっと、この地で暮らすようになる。そんな予感があった。

松江は城下町で、堀川の流れが美しい。夕暮れ時の宍道湖の眺めは素晴らしく、清らかな街だった。

でも紆余曲折あって、松江で暮らす可能性はゼロに近い。

 

何のしがらみもなく、たった一人で暮らせるとしたら何処へ行こう?

私の好きな岩手県盛岡市も、城は無くなったがれっきとした城下町である。私は城下町が好きなのかも知れない。

盛岡に住みたい。ずっとそう思っていた。盛岡には姉も弟もいる。

市の中央を三つの河川が流れているが、一番好きなのは中津川だ。

川縁には可憐な草花が咲き乱れている。セキレイが羽ばたいている。川の水は澄み、小さい魚が群れをなして泳いでいる。

この中津川沿いを、私は毎日散歩したかった。

しかし盛岡の冬を体験し、ここに住むのを諦めた。凍てついた街はこんなにも寒いのかと、音をあげてしまったのだ。

よくよく考えたら、私は盛岡の春と夏と秋しか知らなかった。

じゃあ私はどこに住めばいいだろう?東京にはもうウンザリだ。ずっと東京に住んで居たら病気になる。否、もうなっている。

東京の利点は今や、東京に居なくても享受出来るのだ。

引っ越しにかかる費用も、昔よりリーズナブルになった。

現実的に考えて、広い部屋は要らない。ワンルームの清潔なひと部屋。モノも要らない。ビジネスホテルのシングルのような設えがあればそれで良い。

徒歩圏内に図書館は外せない。

難病を患う身なので、大きめの病院がないと困る。

その他には居心地の良いカフェと、美味しいお蕎麦屋町中華屋が一軒づつあればいい。

少し高台で、崩れそうな山が近くに無くて、昔ながらの小さな市場や商店街で土地の野菜や魚を安く買いたい。

空気はきれいに越したことはない。月や星や風や樹木に自然を感じながら、穏やかに生きていたい。

 

先日、姉が松本を旅して

「とても芸術的で素敵な街だった。あなたも行ってみたら?絶対に気に入ると思う」

と言うので、すぐさま松本に行きたくなった。

松本の冬は、やはり寒いのだろうか。

松本も城下町だ。もしかして私の前前前世は姫か?まさかね。奥女中あたりかも知れない。

そういえば私は、東京以外の土地をあまり知らない。

だからこれからもっと旅に出ようと思う。住みたい街を見つける旅に。

私の城下町を探しに。

 

 

 

斜陽館に行った

2019年9月6日の斜陽館。

義兄、姉と私の3人で行きました。盛岡駅から車で2時間半程でした。

今年の猛暑は青森の五所川原も例外ではありません。

ものすごく暑かったけれど、時おり爽やかな初秋の風が吹きました。そして、青い空がとても綺麗でした。


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明治40年落成の、入母屋造りの立派な建物です。

 

太宰治誕生の部屋
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母の部屋
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「斜陽館に行ってみたくない?」

 

唐突な姉の言葉に「行きたい」と即答したのですが、どうして姉が急にそんな事を言い出したのか不思議でした。

姉は文学などまるで興味がないし、私の太宰好きも知らないはずでしたから。

 

いつかきっと、行きたい場所だった斜陽館。

 

私なんかのために、はるばると、ここまで連れて来てくれてありがとう。

姉は「人間、失格」のプラカードを手に記念撮影、義兄は太宰ポーズを決めて撮影と大はしゃぎでした。

私は興奮し過ぎて、これは現実なのか、夢を見ているのではなかろうかと、何度も何度も頬をつねったのでした。