昨年の9月、海の見える高台にあるホテルに母と一泊した。
その帰りに浄土ヶ浜レストハウスに立ち寄ったのは、復興イベントでお会いした人を訪ねるためだった。人見知りな私がその勇気を出すまで、七年もかかってしまった。
しかしその人は勤務先が変わってしまい、レストハウスにはいなかった。
私はレストハウスが再開した年にも、ここを訪れていた。
復興ツアーのバスが何台も並び、食事や買い物をする観光客でごった返していた。そんな中で人探しを始めたならば、迷惑に決まっていた。
その人の、今の勤務先にまで押しかけるつもりはない。
私は会いに来たけれども、会えなかった。物語はここで、終わりにしなければならない。
私の心中と同じように、空はどんよりと厚い雲に覆われていた。
「せっかくだから、浜辺の景色を撮って来る」
私は足の悪い母を、売店の前にあるベンチに座らせた。
お盆を過ぎると遊泳禁止になるので、海岸には人があまりいない。
散歩に来ていた園児達が遊んでいたのと、母と私の他に、観光客と思しきグループがふた組ほどいただけだった。
晴天ならば、青と白と緑のコントラストが素晴らしい眺めなのに、曇天では何度撮り直しても綺麗に写らない。
いい写真を半ば諦めた時、近くに一台のマイクロバスが停まった。
そして車椅子が4台、外に運び出された。
バスの車体には、老人介護施設の名称が書かれていた。それは、父の入所を希望している施設だった。
私は母の元へ戻り、寒くないかと聞いた。母は、大丈夫だと言った。
「あのバスね、△△△のバスだっけよ。こんな場所にも連れてきてくれるんだね」
「あれが△△△の……」
そこに若い女性職員がやって来て、売店でえびせんを買い求めた。女性職員はえびせんの袋を抱えて、バスの方へと走り去った。
浄土ヶ浜のうみねこは、えびせんの赤い袋を見ただけでわらわらと集まってくる。
「見に行こうっと」
私は再び浜辺に戻った。
職員は4、5人いて、全員が若い人だった。
車椅子の老人に「◯◯さ~ん、寒くないですか~?」等と尋ねながら膝掛けを整え、えびせんの袋を持たせて、撒いてみるよう促していた。
老人達は、ひとりを除いて皆が無表情のように見えた。職員がえびせんを宙に撒くと、一斉に羽を広げて飛び交ううみねこの群れ。
職員達の歓声があがる。うみねこを酷く怖がっている男性職員がいて、それがまた可笑しくてはしゃいでいる……のは職員達である。
老人は皆、無表情だった。
楽しいのかな……と、ふと思った。
例え表情に出せなくても、笑い声をあげられなくても楽しいのだろう。たぶん、いや、きっと楽しいのだ。
ここで生まれ育った人は皆、この海が好きなはずだから。
出不精の母でさえも、海に行くと言えば喜んで付いて来る。
女学校時代には友達と訪れ、青春の舞台となった海。
孫を連れ、ひ孫まで連れて来たこの海で、幼い子らがうみねこと戯れた光景は、母の一番の宝物だった。
車椅子の老人達にも、そんな思い出があるに違いないのだ。
老人のひとりは、職員に促されるまま袋の中からえびせんを掴み、宙に撒いた。
こんな動作も、楽しいリハビリになっているのかも知れない。
そんな事を考えながら、ぼんやりバスのロゴマークを眺めていたら、あるひとつの記憶を呼び覚ました。
もしかしたら……いいえ、間違いない。
どうして今まで思い出さなかったのだろう。
△△△は、高校時代に同じグループだったMちゃんの就職先だ。
私達が卒業の年に、老人介護施設への就職を希望したのはMちゃんだけだった。
介護施設が身近でなく、今よりもずっとマイナーなイメージだったあの頃。
Mちゃんはいつでも朗らかで、人が嫌がる仕事や、人のためになる事を率先してやる子だった。
だからMちゃんが大変そうな職場を選んでも「Mちゃんらしいね」と、誰もが口を揃えた。
あれから30年以上経っている。でも……
私は、マイクロバスの近くにいた男性職員に声をかけた。
「こんにちは。皆さん、とっても楽しそうですね」
「そうですねえ。僕はちょっと、鳥が苦手なんですけどね」
私達は笑った。羽を広げたうみねこは意外と大きくて、人を恐れずえびせんを貰おうとするのだ。
「うちの父も、△△△さんのお世話になりたくて、申し込みをしたんですよ」
「えっ?うちにですか」
「はい。父は盛岡の施設にいるのですが、やっぱり宮古がいいらしくて」
「ああ〜、そうでしょうねえ」
優しそうな顔の好青年だ。私は意を決して核心に触れた。
「ところで、Mさんって今もそちらで働いていますか?」
私がMちゃんのフルネームを伝えると、彼は頷きながら
「ええ、いますけど。お知り合いでしたか?」
「私は同じ高校の同級生です。辞めないでずっと働いていたんだ、すごいなあ、Mちゃんは」
「同級生!へえ〜!帰ったらMさんに伝えておきますよ」
「宜しくお願いします。ああ、よかった。Mちゃんが元気なのが解ってよかった。
あれっ?でも……名字が変わっていない……という事は……」
男性職員は悪戯っぽい目で、にやりと笑った。
「お察しの通りですよ」
Mちゃんは、恋に奥手なタイプだった。仕事一筋で生きて来たのだろうか。お見合いでもすればよかったのに。
男性職員は「必ず伝えますから」と言いながら、私の名前を手のひらに書いた。
私は売店のベンチに走り、興奮して母に言った。
「大変大変!同級生のMちゃんが、今も△△△にいるんだって。すごいねえ」
「あやぁ、おめさんの知り合いが、あそごさいだったぁの?」
「あそごさばいなかったけど、男の人さ聞いてみだっけば、まぁだ勤めったぁど。
これだけ長くいだらMちゃんは、結構偉くなってるかも知れないよね」
「おらぁまぁ、△△△に、おめさんの同級生が」
「こんな偶然ってある?お父さん、きっとすぐ△△△に入れるよ」
「なあしてや?おめさんがお友達さ頼んでみっとこだ?」
「まさか。そんな事頼めないよ。だけど、入れると思う。絶対に」
私の勘は、よく当たる。
一昨年のいわて震災詩歌で詠んだ「波と手紙と白い花」の中の一首
友人の家流されて六年目 出した手紙は届かぬままで
この手紙は、Mちゃんに宛てたものだった。
Mちゃんの家がある地域は、津波で多くの家屋が流された。
別の同級生の家は流されてしまい、跡形もなかったと聞いた。
Mちゃんの家は、どうなったのか。
Mちゃんの家族は無事だったのか。
私の手紙は届かなかったのか。
届いたけれども、返事が貰えないだけなのか。
父は施設を移り、そこで私はMちゃんとの再会を果たすだろう。
Mちゃんはきっと、あまり変わっていないと思う。
そしてMちゃんは、私のあまりの変わりように涙を流して笑うのだろう。
何しろ私の勘は、とてもよく当たるのだから。