泣けない。
父の日が近付いたくらいじゃ、泣けないのだ。
子供の頃の私は、泣いてばかりいた。
泣けば、泣くなと酷く叱られてまた泣いた。
学校で意地悪されても、揶揄われて恥ずかしくても、悔しくても、怖くても、腹立たしくても、ただ泣いた。
泣くのを我慢して、我慢して我慢して我慢しても涙は勝手にぽろぽろこぼれるから結局は泣いて、泣き始めたら最後、涙と嗚咽がなかなか止まらない。
これは本人も、本当に困り果てた。
何時間も泣き続けた話ならいくらでもあって、ここでも書いた。
中学の修学旅行では、些細な事を担任に叱られ、変なプライドが傷ついて泣いた。
途方もなく悔しくて、旅館の布団にもぐって何時間も大泣きして、同室の全員を寝不足にした。
この時の事は、半世紀近くも反省している。
小学1年の、初めてもらった通信簿の所見欄に
「感受性が強く、少しの事ですぐに泣く」
と書かれていた。
これを書いたチエコ先生は40代くらいで、度の強そうな眼鏡をかけて、髪をひっつめのお団子にしていて、とても怖い先生だった。
もうこの世にいないだろうから書いてしまうけれど、度々ヒステリーを起こすおばさん先生だった。だから私も他の子供達も、チエコ先生の前ではとても緊張していたと思う。
私、そんなに泣いてた?そりゃあ、一度や二度は泣いたような気もするけれど、他の子だってピーピー泣いていたじゃないか。
当時の私の通信簿(5段階)には、体育が2の他は5が並んでいたと思う。
なのに父は、烈火の如く怒り狂った。
父が言うには、「感受性が強い」なんていうのは、最低最悪な欠陥人間である事を意味するらしい。そして、2だなんて、例え体育であっても、ひとつでもあってはならないと言う。
更に、積極性の評価はCであったから、説教は続いた。
「答えが解っているのに挙手しない」
などと、余計な事まで書かれていたからだ。
「本当に解っていて、それなのに挙げないのか」と聞かれて頷いた。
もし万が一、間違えて答えたなら、チエコ先生がどんなに怒るだろうと考えれば、下を向いてじっとする他にない。
通信簿を前に父は机をバンバンと叩き鳴らし、大声で怒鳴り散らした。
私よりもパッとしない成績の姉に一時間、突っ込み所満載の私に二時間、父は私達を「馬鹿だ、コバガタグレだ、馬鹿なカガサマに似て馬鹿なワラスガドーだ」と怒鳴り散らし、勝手に疲れ果てて寝てしまう。
これが、我が家の学期末の年中行事であった。
泣く事は、父にとって恥、みっともない、悪い事、卑怯、落伍者、負け犬なのだ。
泣くまで叱られて、泣けば煩い泣くなと叱られた。
それは、父が脳溢血で倒れる中2の秋まで続いた。
病で半身麻痺と言語障害が残った父は、それでも時に激昂し、怒鳴る代わりに物を投げつけたりしたが、以前のように数時間も延々と怒り狂う事は出来なくなった。
血圧が上がるとたちまち具合が悪くなるので、自分でも再び倒れる危険を感じたのだろう。
私が泣けなくなったのは、いつからだろう。
私は、父が死んだと聞かされても泣かなかった。
たぶん、これから先も泣かないだろう。
だって、これでいいんでしょう?おとうさん・・・