あめゆきをとって

仮題と下書き

鍵付きの日記帳

今だから話せることを書きたいのだが、私は出奔中で、今は話せない日々を生きている最中である。いつかきっと(コノ暗澹タル日々ヲ文章ニ)書き残すのだと思いながら、ようよう生きている。

私は三年前に病気で死にかけ、先進医療の力を借りて生き延びた。だからこの生は謂わばボーナスタイムで、どうせもう長くは生きられない。ならば、嫌な事は何もしないで好きなように生きよう。それが(それだけではないが)出奔の理由だった。

親はもういない(いたとしても、何の助けにもならない)ので、子ときょうだいと行政の力を借りながら暮らして半年経った。

 

昨日、弟にお昼をご馳走になった。

三陸のお寿司は美味しかった。値段が倍以上する東京の有名店よりも、ずっと美味しくてたくさん食べた。

さて、私達は無人となった実家を何とかしなければならないのだった。

数日前、私は姉夫婦と実家に行って来た。

実家に置いてあるものは何ひとつ要らないから捨ててと言ってあるが、まあとにかく来てとなり、4年ぶりの実家に足を踏み入れる。

これでもだいぶ片付けたのだと姉は言うが、どこを?と思う。

母は整理整頓の出来ない人で、きれい好きだった父から怒られてばかりいた。父が入院してからはいよいよゴミ屋敷だったと思う。

それでも少しは片付ける気になった母が電話をかけてきて、私の作文やら文集やらをどうするか聞かれたのは随分前の事である。

要らないから全部捨ててと言ったはずなのに、まだ残っていると姉が言う。

「今読み返すと結構面白いよ」

それはそうかも知れない。

でも私達はこの日、片付けをしないで帰った。可燃ごみの曜日を勘違いしていたので、また出直さなければならなかった。

私などはこの家に1分も居たくない気持ちが強く、2階にすら上がっていない。文集を読んでみたい気持ちも失せる程、実家の空気を吸いたくない。

だから弟に片付けの進捗を聞かれても、何にも進んでいないと答えるしかなかった。

私はそれをごみの曜日のせいにした。そして、ごみ出しのためには前泊する必要があるのだと伝えた。

「なるほど。2階には上がってみた?」

「上がっていない」

私は白状した。咎められるかと思ったが、そうではなかった。

「俺はこの前上がって、いろいろ発掘した。いやあ、懐かしいこと、懐かしいこと」

 

 

 

前置きが長くなったが、ここからが本題である。

「小学生の頃の日記帳が出てきた」

「日記!!アンタ日記なんかつけてたの?」

「何日間か書いて、あとは白紙」

私と弟はけらけら笑った。そして、その日記には、タンポポと喧嘩してタンポポが20回蹴ってきたので40回蹴り返したとか、あと何発だかの貸しがあるとかご丁寧にも記録してあったと言うので、私は腹が痛くなるほど大笑いした。

その日記帳は、鍵付きの日記帳なのだと言う。

そうそう、当時流行ったよねえ、小さな鍵付きの日記帳。

姉が持っている日記帳が羨ましくて、おれも欲しいと言ったら母は普通の大学ノートを買ってきて、コレジャナイと文句をたれて買い直させたのだが、それを今も後悔しているのだと、弟はシンミリと言った。

えーちょっと、待って待って。

私は途切れ途切れの記憶を辿る。

そう、姉が鍵付きの日記帳を買ったのは知っている。

私もそれが羨ましくて、姉にどんな秘密があるのやら、鍵を何とかこじ開けようと、ヘアピンを挿し込んでみたりした。姉が激怒して日記帳をいろんな場所に隠すので、私は宝探しのように探したのだ。読んでみれば全然面白い事は書かれていないのに。

そして元に戻しておいても何故か必ずバレて、姉と母にひどく叱られたのだった。

これでいいだろうと大学ノートを買ってきた母に弟が癇癪を起こした事件も、そういえばそんな事もあったと懐かしく思う。

でも、私が弟を20も蹴ったかしら?私は姉と仲が悪く、年中いがみ合っていたが、弟とは仲良くしていたつもりでいた。年が離れているので喧嘩すれば必ず私が悪いとなるので、弟は小さな王様のようだった。

この話を姉にもしようと思う。

本当にくだらない話だけれど、私達にはこんな話でも大切な思い出だから。

 

ずっと対話のない、歪な家族だった私達。

「今だから言うけどさ‥」がまだまだたくさんあるだろうから、年をとるのも悪くないと思う。

年のせいでそれを、忘れてしまわなければ。

 

 

 

 

 

特別お題「今だから話せること

雀とカラスと白鳥と

岩手にUターンして半年が過ぎた。
IBCラジオを聞いていたら、リスナーから白鳥のV字編隊の目撃情報が続々と届いていて、いいな、私も見てみたいなぁと言うと
朝か夕方、空を見れば飛んでいると姉は、事も無げに言う。
ほんまかいなと翌日、買い物の帰りに空を気にしながら自転車に乗っていたら
見事なV字が現れたのだった。
私は自転車を止めてそれを凝視した。
よく見ると一羽二羽、編隊を乱しがちな小さめの白鳥もいる。
頑張れ、頑張れ、どこまで行くのか解らないけれど、頑張れ‥
白鳥が遠く見えなくなるまで見送って、私は少し悲しくなった。
頑張らないといけないのは白鳥ではない。私なんかに言われなくても白鳥は頑張っているのだから。本当に頑張らないといけないのは、私の方だ。

ここは田舎で自然が多いからいろんな鳥がいて、愛らしい声で囀っている。
その名前を知りたいけれど鳥はじっとしていないので、なかなか調べる事が出来ない。
雀は毎朝煩いくらい鳴く。
雪の降り積もった朝、私は庇の下に米粒を少しだけ撒いた。
食べるものがないだろうと思ったからだ。
雀は目敏くそれを見つけたらしい。
米粒はいつの間にかきれいになくなっていた。
私は楽しくなって、三度ほど米粒を撒いた。
賑やかに囀っていた雀達が静かになると、あっという間にそれを食べるらしい。らしいというのは、見ていると寄っては来ないので、ドアを閉めて様子を伺うだけだからだ。
そして、回を重ねると雀の数も増えるから、あそこに行けば米が食えると噂でも広がったらしい。朝の囀りが非常に喧しくなったので、私はご近所から苦情が来る前に、餌付けを止めざるを得なかった。雪はもうすっかり融けて、雀は虫でも捕えて食べれば良いのだから。
でも、朝の囀りを聞くとつい、米を持って外に出たくなるのを我慢するのが大変である。


母が生前、独り居の頃、食べ残しを一羽のカラスにあげていて、カラスもそれを毎日食べに来ていたのを思い出す。
カラスなんて気味が悪くないのと聞くと、平気だと笑っていた。
フンを落としてご近所トラブルになるからと姉が止めさせ、それは確かに有り得る話なので、母は素直に従ったのだと思う。
あの頃の母は、退屈しのぎにそれをしていたのだと私は思っていた。
でも、そうではない。
心が通うはずもない野生の鳥であっても、空腹は可哀想。何か食べさせてあげたいと思うくらいに、寂しかったのだろう。
母も、私も。

今日見つけた鳥は、黒いネクタイをしていたから、ネットで調べる事が出来た。
四十雀

鳥は可愛い。

 

 

いま、宗教のこと

宗教ネタならいくらでもある。

でも宗教のことを書けば戦争になるから書けないし、戦争が起きずとも私ひとり事もなげに消されてしまうかもしれない。

それでも書いておこうと思う。

皆が宗教の話題をタブーとしている間に、美しい国ニッポンは元総理が殺害されてしまうような国となってしまった。

犯した罪は大罪だけれど、私はまだ若いあの犯人も気の毒でたまらない。

TVの情報だけでは解りようもない深淵が、この国にある。

もっと、もっと宗教の話を。

アナタノ信ジル神は誰デスカ?

 

私の実家には、仏壇というものがなかった。

 

神棚は、家を新築した時に拵えてはみたものの、父も母もきちんとした祀り方を知らないようだった。

父と母それぞれの実家はどちらも長く続いた家系だったから、仏間には立派なお仏壇があり、ご先祖様の写真や肖像画などが鴨居に掛けてあった。

私はその仏間がとても嫌いだったが、お盆となれば必ずや「ホドゲサマぁ拝みさ行がねぇばなんねぇ」となり、従姉妹と迎え火に行ったり、お盆料理の膳を親戚と囲んだり、手花火をしたりした。

母方の祖母や伯母はお金持ちであったから、菩提寺に多額のお布施をしていたのだろう。お寺にとって祖母は上得意客なのだと子供の私でも解った。

しかし私の父は、信仰とは遠くかけ離れた人だったから、祖母や伯母と同じくらいのお布施をと母が望んでも、出来るはずもなかった。

伯母は少し、スピリチュアルに傾倒しやすい人だったのかもしれない。

御利益があるとされる高価なグッズを買い、母はそれを見て半信半疑ながらも否定せず、少し羨ましそうだった。

私が上京したのは1980年代、

就職先でも、子育て中にも、この世の中には多くの知らない宗教があって、誰彼が何かしらに入信している事を知る度に心底驚いた。

都会で出会った人は、最初は誰もが良い人だった。そしてあっという間に距離を詰めてきて、誘われて出かけてみれば、怪しげな宗教団体のセミナーだった。

怖くなって距離を置けば、別の人が近づいて来て

「あの人と付き合ってはだめ。あの人はね、○○教なんだから。勧誘しつこいって有名だよ」

と言う。

うわぁそうなんだ、危ないところだったと思う。だが、教えてくれた人に誘われてランチに行けば、今度は△△教のセミナーだった‥

こんな事ばかりが続き、私はすっかり人間不信になった。

日本国憲法 第20条、信教の自由。

誰がどの神を信じていても構わない。誰も私を巻き込むな。

どこの宗教がいいとか悪いとかを言うつもりはない。

信じる神のいる人は皆、多幸感に溢れている(ように見える)。

けれども、そうではない人も多数いる。

勧誘のノルマがあるのか、お布施がきついのか何なのか、ノロマな獲物を狙うハイエナのような目で私を見ている。

20年間、親友と信じていた人は、天真爛漫で純粋無垢な人だった。マルチ商法の宗教にはまってしまうまでは。

宗教に義両親がのめり込んだせいで、夫婦仲が悪くなり離婚した人。

息子が癌になったのは、嫁の信心が足りないせいだと離縁させられた人。

 

人を幸せにするのが宗教ではなかったのか。信仰とは何なのか。

 

私のきょうだい達は、やはり育った環境のせいかそれほど信仰心が強くない。

私の夫も、信仰心があるとは言えない人だ。

春に夫の父が亡くなり、実家を解体する事になったので、位牌を我が家に持ってきた。

そして、小さなお仏壇をAmazonで買った。

お仏壇くらい仏具屋でちゃんと見て買えばいいのに、何でもかんでもAmazonでポチる夫なのだ。

そしてお仏壇を買ったまではいいが、夫が手を合わせているのを一度も見た事がない。

義父の、少し若い頃の顔が険しくて、何故こんな写真を遺影に選んだのだろうと思う。

いつも視線を感じて怖いので、裏側を向けて置いたりもする。

こんな私達だから、バチがあたったのだろうか。

今、我が家は最悪の不幸に見舞われていて、私は買ったばかりのおりんを叩き鳴らす。

神様なんか、いない。

神様なんか、信じない。

ずっと、ずっと、不幸せだった。

やっと、やっと、平穏に暮らせるのかと思ったのに。

助けて。助けて。お願い。誰か助けて。

助けてお義父さん。

助けてお義母さん。

神様を信じない私が、幼い子供のように泣きじゃくる。

お母さんお母さんお母さんお母さん助けて。助けてよ‥

 

 

神様なんか、いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣けない

泣けない。

父の日が近付いたくらいじゃ、泣けないのだ。

 

子供の頃の私は、泣いてばかりいた。

泣けば、泣くなと酷く叱られてまた泣いた。

学校で意地悪されても、揶揄われて恥ずかしくても、悔しくても、怖くても、腹立たしくても、ただ泣いた。

泣くのを我慢して、我慢して我慢して我慢しても涙は勝手にぽろぽろこぼれるから結局は泣いて、泣き始めたら最後、涙と嗚咽がなかなか止まらない。

これは本人も、本当に困り果てた。

何時間も泣き続けた話ならいくらでもあって、ここでも書いた。

中学の修学旅行では、些細な事を担任に叱られ、変なプライドが傷ついて泣いた。

途方もなく悔しくて、旅館の布団にもぐって何時間も大泣きして、同室の全員を寝不足にした。

この時の事は、半世紀近くも反省している。

 

 

小学1年の、初めてもらった通信簿の所見欄に

「感受性が強く、少しの事ですぐに泣く」

と書かれていた。

これを書いたチエコ先生は40代くらいで、度の強そうな眼鏡をかけて、髪をひっつめのお団子にしていて、とても怖い先生だった。

もうこの世にいないだろうから書いてしまうけれど、度々ヒステリーを起こすおばさん先生だった。だから私も他の子供達も、チエコ先生の前ではとても緊張していたと思う。

私、そんなに泣いてた?そりゃあ、一度や二度は泣いたような気もするけれど、他の子だってピーピー泣いていたじゃないか。

当時の私の通信簿(5段階)には、体育が2の他は5が並んでいたと思う。

なのに父は、烈火の如く怒り狂った。

父が言うには、「感受性が強い」なんていうのは、最低最悪な欠陥人間である事を意味するらしい。そして、2だなんて、例え体育であっても、ひとつでもあってはならないと言う。

更に、積極性の評価はCであったから、説教は続いた。

「答えが解っているのに挙手しない」

などと、余計な事まで書かれていたからだ。

「本当に解っていて、それなのに挙げないのか」と聞かれて頷いた。

もし万が一、間違えて答えたなら、チエコ先生がどんなに怒るだろうと考えれば、下を向いてじっとする他にない。

通信簿を前に父は机をバンバンと叩き鳴らし、大声で怒鳴り散らした。

私よりもパッとしない成績の姉に一時間、突っ込み所満載の私に二時間、父は私達を「馬鹿だ、コバガタグレだ、馬鹿なカガサマに似て馬鹿なワラスガドーだ」と怒鳴り散らし、勝手に疲れ果てて寝てしまう。

これが、我が家の学期末の年中行事であった。

泣く事は、父にとって恥、みっともない、悪い事、卑怯、落伍者、負け犬なのだ。

泣くまで叱られて、泣けば煩い泣くなと叱られた。

それは、父が脳溢血で倒れる中2の秋まで続いた。

病で半身麻痺と言語障害が残った父は、それでも時に激昂し、怒鳴る代わりに物を投げつけたりしたが、以前のように数時間も延々と怒り狂う事は出来なくなった。

血圧が上がるとたちまち具合が悪くなるので、自分でも再び倒れる危険を感じたのだろう。

 

私が泣けなくなったのは、いつからだろう。

私は、父が死んだと聞かされても泣かなかった。

たぶん、これから先も泣かないだろう。

だって、これでいいんでしょう?おとうさん・・・

 

 

評のあやうさ

なぜかしら結婚していく男たち私の次にできた彼女と/東京 広里ふかさ

 

この歌は、2022年3月5日の日経歌壇に掲載されたそうです。

「そうです」というのは、私は日経を読まないので。

ちなみに選者は穂村弘さん。

ほむほむに採ってもらえたなんて、何と羨ましい事でしょう。そんなふうに思う人が多くいそうですね。

私はこの歌をTwitterで知りました。

わあ、凄い。と思いました。

そして「なぜかしら」と疑問から始まるこの歌は、20代前半の私をすうっと引き戻したのです。

それは、この「なぜ」を実際に、私の次にできた彼女と結婚した元カレにぶつけようとした事があるからです。

 

 

私は虚構をほとんど詠みません。

だからつい、他の歌詠みもそうであるような気がしてしまうのですが、虚構しか詠まない人も、半々の人もいるのだと意識する事は必要だと思っています。

そして本当である事に価値を、私は重く置きがちだけれど、本当である事が歌の価値ではないと知ったのも最近です。そう、オール虚構で賞を獲ったあの件からですね。本当のことならば凄いわけではないと、思い知りました。

歌壇がそれを認めるならば私達も、どんどん虚構に挑戦したらいいのです。

 

「なぜかしら結婚してゆく男たち」

 

男たち、と言うのだから、男はふたり以上いるのですね。

私の元カレはたったのひとりで、それなのにあれほどモヤモヤしたのだから、主体は相当なモヤモヤなのだと思います。そして、モヤモヤは歌に昇華した。歌は私にも、他の読者たちにも、そして、ほむほむに見事刺さった。

羨ましい。やったー広里さん。

広里さんと私はTwitterで相互だけれど、お会いした事はたぶんなくて(あったらごめんなさい呆けているので)とにかく私は他の歌詠みにあまり関心がなくて、この方が何歳くらいの方でお綺麗なのか既婚かも知らない。

新聞歌壇の掲載歌をいつもTweetして下さるから、良歌を読めてありがたいのと、とてもよく勉強されている真面目な人という印象です。

歌詠みに関心がないとは言ったものの、この筆名には確かに心惹かれるものがあって、作風にも広里さんっぽさがあってこれまた羨ましい。

 

 

さて、引用するのも穢らわしい、あの論評?ですが・・・

「広里作品は狂歌に分類されるだろう」ってとこからもうね・・・

 

ハア?( ;´Д`)

 

ごめん無理。

 

「なぜ、これが滑稽かと言えば」のとこで

 

アンタが滑稽!!

 

以上。

 

いや、もっといろいろ書こうと思ったんですよ。

歌はどんなふうに読まれたとしても、いやそうじゃなくてこれはこういう意味って言えない世界だから仕方ない、仕方ないけれどもね・・

 

これは酷い。

 

ところで、私の次に付き合った子と結婚した元カレですが。

(あ、この話はもういい?まあ聞いてよw)

私、呼び出したんですよ。人づてに結婚を知ってすぐに。いつも待ち合わせに使っていた喫茶店に。

自分からこっ酷くふっておきながら、別にまだ好きなわけでも何でもなく。ただ、どうしても聞きたかった。

ハタチでデキ婚をした元カレ。

もしも、あの時私と別れていなくて、妊娠したのが私だったなら、あなたは私と結婚した?って聞きたかった。

なのにさ。

元カレは、喫茶店に現れなかった。

携帯も、スマホもない時代。喫茶店の電話番号ならば、ちょっと調べればわかるはずなのに、電話のベルは鳴らなかった。

いくら待っても待っても待っても待っても待っても来ない。

いくら待っても待っても待っても待っても待っても来ない。

バッカヤロー!!

馬鹿は、私ですね。

 

まあ、いま幸せだからいいんですけど!

 

幸せだから、昔を懐かしんでいる、ただそれだけなんですけど!

広里さんの歌も、たぶん、そんな感じ?

何故かしら?と言いつつ別に知ったこっちゃないんだと思う。

だって、今は今だもの。

 

 

かりんとうコンペイトーにハッカ糖

おやつの時間に憧れていた。

アニメの主人公は皆、毎日午後3時になると家で出されるおやつを食べる。

ママ手作りのホットケーキ。ふっくらほかほかはちみつの甘い匂い。

ママの焼いたクッキー、ママの揚げたドーナッツ‥

3時にうちの母は働いていたから、そんなおやつは望むべくもない。私は10円玉を握りしめ、駄菓子屋に走った。そしてクッピーラムネや串カステラを買って、外でひとりで食べた。

 

母は、早朝から夕方まで市場で働いた。

朝は市場の食堂の朝定食、お昼は市場かどこかでいつも中華そばを食べていた。

私は学校が終わると真っ直ぐ家に帰らず、市場に寄り道をした。

家と市場は逆方向だから、先生に見つかれば叱られる。でも一度も見つかった事がなく、母にも咎められなかった。

母と会話が出来るのは、店が空く3時頃だけだ。4時から閉店までは客が増えて忙しくなる。

家に帰ると大急ぎで夕飯の支度をして、食事と風呂が終わると母は、すぐに寝てしまうのだった。

花林糖、金平糖に薄荷糖。

それは、母が好きだったお菓子で、うたの日のお題がかりんとうだったので詠んでみた。

私はこれらのお菓子があまり好きではなかったが、お腹が空いたと甘えて、母の割烹着のポケットを探ると、飴玉や食べかけの菓子袋が入っていた。

「これは、おれの、こびり」

"こびり"というのは方言だが、何と訳せばいいのだろう?母に聞いておけばよかった。

そして母は、いつ"こびり"を食べていたのか?母の日常には、ゆっくり座ってお茶を一服するような時間はなかった。

 

都会に出た私は、田舎にないお菓子を見つけては母に送った。

母は珍しいと言って喜んだ(フリをした)けれど、気に入って次も欲しがったものは、何もなかったような気がする。

そういえば、母はお酒も好きで、亡くなる前の年だっただろうか、昔ながらのウイスキーボンボンが食べたいけれど、宮古には売っていないから東京で探して欲しいと頼まれた。

私はデパ地下を探し歩いたが、なるほど母の言う通り、母の求めているボンボンは見つからなかった。洋酒入りのチョコレートをいくつか送ってはみたものの、これでないのは解っていた。私の記憶も曖昧だけれど、口にいれてかじると薄い砂糖がすぐに砕けて、口の中いっぱいに広がるリキュール。これは酔っぱらうからダメと、母はひとつしかくれなかったけれど、とても甘くて美味しかった。

あのボンボンは、どこにあるのだろう。

もっとよく探してあげればよかった。

先日、娘にホテルスイーツをご馳走になり、美味しかったので売店でパンとクッキーも買ってもらって、それなのに私ときたら、私は母に何かしてあげたっけ?と、思うと酷く悲しくなった。

 

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三月は母の誕生月で、私は誕生日と母の日には何を送ろうか毎年頭を悩ませていたけれど、それでも母が望んだ事は、何もしてあげなかったのではないかと今頃になって思う。

 

私もかりんとうを食べるようになった。

ひとりでこっそりと、口さみしい時に少しだけ、母との日々を偲びながら。

母にも、食べさせたかったな、ほろりと柔らかな黒糖の、甘い甘い、花林糖。

 

かりんとうコンペイトーにハッカ糖母さんのポッケを探るとあった(うたの日/カリメロ

 

 

 

しあわせな言の葉たちを見た

57577展に行った。

Twitter歌人というジャンルがあるのかどうか、あるのだとしたら、私もその片隅にいるひとりだろう。

SNSを利用した短歌コミュニティはいろいろあって、今まで私はそのどれにも属さないできた。

誰でも、いつでも参加出来る短歌イベントをたまたま目にして、たまたま即詠出来た時だけ、ネットに歌を放流した。

そう、ほんの気まぐれで。

気まぐれに流した歌は、いくつかのいいねをいただいて少しは気分がいいのだけれど、それはほんのいっときの事。

歌は、泡のように消えてしまい、タンポポというふざけた名前のそのタネのように、ふっと何処かへいってしまう。

それでもいい、と、思っていた。

ネットに散らばる無数の言葉たち。

私は、まるで雪のようだと思う。

さまざまな言葉たちが、空中でさまざまな形の結晶となって、目の前に舞い落ちてくる。

それは、息を吹きかければ溶けてしまう、非常に儚い、けれども美しい、雪。

 

歌は、新聞や雑誌などの活字になる事でしか、人に読んでもらえない。

新聞や雑誌に載るのは、至難の業である。

載らなかった歌は、だめな歌?

じゃあ私は、だめな、歌詠み?

 

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そんな歌詠みの歌を、儚い言の葉の一瞬を、こうしてたくさんの人に見ていただけるなんて。

本当に、夢をみているようでした。

よかったね、よかったね言の葉たち。

 

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展示はこれからも増えていくそうですし、カフェを利用しなかったのが心残りなので、もう一度行こうと思います。

 

#57577展

町田市民文学館ことばらんど

3月27日まで