あめゆきをとって

仮題と下書き

わたしの偶像【太宰治】わたしの推し【立原道造】

特別お題「わたしの推し

 

推しの話を致しましょう。

と言ってもこれまでにも何度かお話したのです。繰り言です。

私の推しは、高校生の頃からずっと治。

←これだもの、周りのリア充とは話が合わねえ合わねえ(笑)でも気にしません。

私の治は、もう死にました。

だから、寂しくなるとお墓参りに行きます。

サクランボで悪戯するのは、本当によした方がいいと思うよ‥

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禅林寺三鷹にあって、うちからは遠いので毎年は行かれません。

でも私なんかが行かなくたって、桜桃忌には毎年大勢の太宰ファンが訪れて、すごくすごく愛されている作家だなあと思う。

 

小金と暇のあるオタクなので、推しの故郷にまで押しかけますよ。

斜陽館、楽しかったな。

 

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もうひとりは中学時代からの推しで、彼ももうこの世におりません。

立原家のお墓は谷中の多宝院にあり、ここは私の行動圏内なので、お散歩がてらによく行きます。

ヒヤシンス忌にはヒヤシンスとゼリーがお供えしてあるので、ウッカリな私などはいつも

「推し、すげえな‥」と、衝撃を受けます。

 

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これは私が供えたナデシコみたいなやつ←だよ。

 

さて、学生時代には周りの女子達がモックン〜フックン〜と色めき立つ中

「ミチゾーが好き」

とスカして言うのだから、そりゃあ浮くでしょうよ。

それでも話の合う子はいるもので、(他校でしたが)彼女の推しは中原中也でした。そして

太宰治立原道造が好きだなんて、ふたりは全然違うタイプなのにどうして?」

と不思議がるので

「えー?決まってるでしょ顔よ顔。それが何か?」

と言うと

「道造はまあ、イケメンで東大卒でアサイさん一筋で素敵だけどさ、太宰は別にイケメンじゃないし、女にだらしないただのクズじゃん。しかもヤク中じゃん。どこがいいのさ?」←要約 ←うん、知ってた笑

「うーん、確かに治はダメダメなやつなんだけどねえ。でも女性にはモテモテだったでしょ?私も治とならば、ゆきずりの恋に溺れてみたかったわあ」

「うっそおー!信じられないー!」

という会話を何十年も真顔でする、中年女達‥

 

 

楽しいよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コッペパン

I君のことは、いつかどこかで書いたはずだ。けれども見つからないのでまた書く。

I君は、小学一年の時同じクラスだった。

昔の写真や文集の類を全部捨ててしまったので確かめようが無いが、入学式の写真の記憶が残っている。

I君と私は前列で、二人とも不安そうな表情をして写真に収まっていた。後方には保護者も並び、I君のお母さんは着物姿だったと思う。

二年か三年か、はたまた四年生かもしれない。申し訳ないけれども覚えていない。

I君のお母さんが亡くなった。

I君は二週間くらい学校を休んだ。

私達は自分の母親が突然いなくなる事を想像し、心の底からI君を気の毒に思った。

元々大人しかったI君は、学校に戻ってからも元気がなかった。

聡明な、または気の利く一部の女子が、I君にそっと励ましの声をかけるのを見たが、私は何もしなかった。

全校生徒が千人を超える、マンモス小学校だった。土地柄なのか、時代のせいか、男子と女子が仲良く遊んだりはしない。

楽しそうに話すだけで、アベックだ、アベックだと囃し立てるような風潮があった。

そして六年の時、I君が登校拒否になった。当時の担任は、学校一厳しいと噂のK先生だった。

私達の学年は荒んでいて、毎年どこかのクラスが学級崩壊を起こしていた。

四年生の時は、女の担任だった私のクラスが荒れた。五年生では別の女教師が担任で、私への苛めを放置された。

だから、K先生が担任になり「K先生ならば安心」と、母が喜んだ。姉も

「怖いけどいい先生だよ。言う事を聞かない男子にはものすごく怒るけど、女子には優しいから大丈夫」

と言った。実際に先生は、とても厳しくとても優しかった。そして前年までの男子の授業妨害や陰湿な女子の苛めが、嘘のように消えた。

ただ、I君だけが学校に来ない。

当時は誰かが欠席すると、家の近い子が給食のパンを届ける事になっていた。

I君の住む官舎に一番近いのは、私だった。

タンポポちゃん、頼むよ」とすまなそうに笑いながら、K先生は私にコッペパンを託した。

私は、無知で世間知らずな子供であったから、官舎というものを理解していなかった。

四角く白い謎の物体が並んだ不気味な建物よりも、小さくても一戸建ての方が偉いような気がしていた。

暗号のような部屋番号を頼りにチャイムを押すと、きれいな女の人が出てきてパンを受け取った。

奥に人のいる気配はするけれど、I君は玄関に出て来なかった。

母と従業員達は、暇さえあれば噂話ばかりしているのだが、それを子供の耳に入れない事に関しては徹底していた。

だから私が

「I君ちに女の人がいたの。きっと、新しいお母さんだよね」

と言うと、母は驚きもせず少し困ったような顔をして

「まだ小さい妹さんもいるから、I君のお父さんは、子供達に母親が必要だと思って再婚したんでねえべかなぁ」

とだけ言って、私を追い払った。

母達の話に耳をそばだてていると、相手と歳が離れているだの再婚するのが早過ぎるだのと姦しかった。

そして、妹の方は新しい母親にすぐ懐いたのだが、反抗期のI君がかなり大変だという事情がうっすらと解った。

私のパン配達は、どれくらい続いただろう。

「いつもごめんね」と、応待していたお母さんの顔から、笑みが消えた。

ある日、お母さんではなくお父さんが出てきたので驚いた。お父さんは、大きな声でI君を呼びつけた。

「お前のためにわざわざ持って来てくれるんだ。出てきてお礼を言いなさい」

I君は、恐る恐る隣の部屋から顔を出した。

「‥ありがとう」

「聞こえないだろう。もっと、ちゃんとしなさい!」

激昂するお父さんに怯えるI君と、やめてやめてと懇願し泣き出すお母さん。

お礼なんかいいのに。私は先生に言われて来ているだけなんだから。

何だ何だここは地獄ですかと思うけれど、怒鳴り散らす父親なんか、自分の家で見慣れている。

見慣れているはずなのに、この地獄は私の知らない修羅だった。

怖かった。

この事は友達にも、先生にも、母親にさえも言えなかった。

その翌日「もうI君にパンを届けなくてもいい」と、K先生が私に言った。

I君の親から私に申し訳ないと連絡があったらしい。

タンポポちゃん、今までご苦労だったね」

私はほっとした。

「もう行かなくていいんだね。よかったねえ」

「全くもう。最初からパンなんか届けてやらなくてもいいのにね」

「あんな不味いパン、休んでる日に誰も食べないよ」

と、クラスの女子達が口々に言った。皆が私を可哀想と思っていたのだった。

パンを届けなくてもいいとなると、I君の存在は次第にクラスから消えてしまった。

それまでは、昨日はどうだった?会えた?などと様子を聞かれていたのに、誰もI君を話題にしなくなった。

先生が私にパンの配達をまた頼んでくれたら、思い切ってI君に話しかけてみようか。

私だって学校は好きじゃないけれど、ずっと家にいるよりはましだと思う。

学校においでよ。誰もI君を嫌な目に合わせたりしないよ。それはK先生が、絶対に許さないから。

学校に、行こうよ‥

私は一人で何度も練習してみた。

私なんかが誘っても、きっと来ないだろうな‥と思いながら。

 

その後、I君はお父さんの転勤でどこかに転校した。

最後の日にI君は、両親と共に登校し、私達にお別れの挨拶をした。

少しはにかんで、でも真っ直ぐに前を向き、大きな声で挨拶をしていたからK先生の目に光るものがあった。

I君のお母さんも、泣いていた。

それっきり、I君の事は何も知らない。

あの官舎に住んでいたのは、所謂エリートの家族だと知ったのは、ずっと後になってからだった。

 

 

 

 

 

不登校君に届けコッペパン明日は来てねと言えないままで(タンポポ

 

第6回 氷川短歌賞選評会 テーマ詠「パン」

 

 

 

 

 

 

 

 

義父も死んだ

義父も死んだ。

2020年に母が死に、父も死んで、昨日、義父が死んだ。

母と義父は同じ歳だから、長生き組である。大往生である。悲しくはない。

悲しくはないけれど、私は実の父よりも、義父を父と慕っていたので寂しい。

その義父との思い出が、この10年分ポッカリと、無い。

それは、私が昨年の大病で記憶障害になったから…だと思っていた。

退院して東京の家に戻り、私は娘に聞いたのだった。

「そういえば、松江のジイはどうしているの?ヨメが死にかけてたっていうのに、何故見舞いにも来ないのさ?」

娘は心底あきれ果てた顔をして、こう言った。

「はあ?何言ってんの?ジイは入院中でしょう?施設にいて具合が悪くなって、病院に移されたんでしょう?」

言われてみれば、そんな気もする。それに義父は認知症だから、私の事などとうに忘れてしまっただろう。こんな事さえ覚えていられない、私の方こそ認知症である。

義父が入院している病院から義弟へ、義弟から夫へ、これまでに何度も危篤の報せがあったのだ。

いよいよかと心の準備をしていると、持ち直したという報せが来た。

あまりにもそれを繰り返すので、夫は義弟からの電話を信じなくなった。オオカミ少年現象、現実逃避である。父親の死という一大事に、向き合いたくないのだ。

先月も電話があり、流石にもうダメなのだろうと思って喪服の準備をした。

白いシャツを新調し、黒いネクタイとネクタイピン、数珠…とまとめて置いたら夫が怒り出した。

「死んでから準備しろ!」

と。

ごもっともだ。せめて見えない所に置けばよかった。

でも、そう遠くないうちに必要になるものを準備して何が悪いのか、私には理解できないが、消耗したくないので黙っている。

喧嘩をすれば、義父よりも先に逝きかねない私なのだから、我ながら温厚になったものである。

 

そして昨日、深夜というのか朝方というのか、午前3時に義父は逝った。

夫と娘が葬儀のために島根に向かった。私は犬と留守番である。

うちの犬は2匹ともに高齢で、こちらも先が短いので他所には預けられない。私も葬儀ではまた、倒れる予感しかしない。

私が行かなくても義父は、たいして気にはしないだろう。孫娘さえいれば、満足だろう。

私は東京で、義父の冥福を祈ろう。

すると、ホテルにチェックインした夫からLINEが入り、数珠を忘れたと言う。

知るか。私はちゃんと全部揃えて出して置いた。そして、それが早過ぎると叱られたのだ。

 

 

思い返してみると、大昔のことならばいくらでも思い出せる。

義父と初めて会ったのが二十歳の頃だから、いい事も悪い事も、思い出が山のようにある。

なのにどうしてだろう。この10年の出来事が思い出せない。

私は少し焦ってしまった。次の検診日には、記憶障害をもっと強く訴えなければならない。

 

10年で変わった事はいろいろとあるのだけれど、義父との関係が壊れたことが私にとって大きい。

その壊れた関係が、修復されないまま終わってしまったのがとても寂しく、残念である。

私は義父が好きだった。自分の父親よりも好きだった。

義父は何でもできて、社会的地位も人望もあって、博識で、ユーモアもあって、子供が好きで、私の父親にないものばかり義父は持っていた。

私はその義父と、何度も大喧嘩をしたから、義父は私が嫌いだったかも知れない。

でも私は自分の父親に、言いたいことが何も言えない境遇で生きてきたから、本音で言い合える義父が、本当に好きだったのに、義父には伝わらなかったと思う。

義母が亡くなってすぐに再婚を決めた義父を、私達はどうしても理解出来なくて、私達が理解しなくても再婚した義父の、その相手をどうしても受け入れられなくて、家族関係は崩壊した。

娘だけが、義父と私達との唯一の鎹だった。

娘には高価なピアノも買ってくれたし、学費も出してくれた義父。

義父を言いなりにする娘の事を、再婚相手の人は忌忌しく思っただろう。

10年前の2011年3月、東日本大震災原発事故に日本が大混乱する中、娘は予定していた卒業旅行に島根へ飛んだ。

義父はそれはそれは喜んで、娘と娘の友人達を手厚くもてなした。

観光地を巡る運転手を買って出て、地元の高級料亭にも連れて行ってくれたそうだ。

しかし、再婚相手の人は嫌なら来なければいいのに付いて来て、始終不機嫌だったらしい。

娘は辟易して、鎹の役などもう御免だと思ったのだろう。孫娘として祖父に甘えたのは、これが最後となった。

そして、私は心も身体も病んで、煩わしい物事を一切シャットアウトしなければ到底生きていけなかったから、いい嫁のフリをやめて義父母をも拒絶した。

義父と再婚相手の人は、関係が次第に悪化した様子だった。私は(それ見たことか)としか思わなかった。

人生の10年は、短くてあっという間のようで、こんなにも変わるものなのか。

10年前にはあんなに元気溌剌で、校長職を退職後も地元の子らに勉強と習字を教え、書物と書と園芸と、地域活動に熱心だった義父。スポーツマンで体格の良い義父が延命装置に繋がれた結果、まるで枯れ木のように痩せ細り、骨と皮になって、死んだ。

義父の父も母も長寿の家系で百近くまで生きたから、義父もまだまだ長く生きるだろうと思い込んでいた。

「呆けて、チューブに繋がれて、長く生きるのは嫌だ」と、語っていた生前の義父。

そうまでして生きていたくはないと言っていた、正にその姿になってしまった。

だから義父は、亡くなって、チューブを外された顔は穏やかで、あの優しい目を瞑ったまま、もう何も語らないから寂しいけれど、悲しくはない。

 

お義父さん、お疲れさまでした。

馬の骨の産んだ娘を、たくさん愛してくれてありがとうね。

大喧嘩もしたけれど、本当は好きでした。お義父さん。

 

 

 

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

はてなーなのではてなスター欲しさでお題に乗ってみる

 

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

 

文芸ブログにしようと思いつつなかなかしっくりくるブログ名が浮かばなくて、適当に付けました。

宮澤賢治「永訣の朝」の(あめゆじゅとてちてけんじゃ)から引きました。

文芸…どこ行った文芸…(適当な性格)

 

はてなブログを始めたきっかけは?

 

はてなの前にアメブロや他のところでウェーイ系ブログをいくつも書いていましたが、本当の自分を吐き出す場所がどうしても必要でした。はてなは入力し易さと全てがシンプルなところがよきかなです。

 

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

 

どうしてあんなに泣いたのだろう - あめゆきをとって https://ameyujutote.hatenadiary.com/entry/2019/12/18/213518

 

今でもうるうる泣ける。

 

ブログを書きたくなるのはどんなとき?

 

憂さが溜まった時。

 

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

 

タクサンタクサンタクサンアルヨアンタラヨミタイカヨマセネエヨ←

 

自分の記事を読み返すことはある?

 

昨年、大病して記憶障害というか健忘というか痴呆というかとにかく大脳が壊れてやばいので記事を読み返して過去を思い出している。だからここで書いてきて本当によかったし、たくさん消した事を後悔もしている。

 

好きなはてなブロガーは?

 

好きな人…みーんな他所に行っちゃったよねえ‥トオイメ

 

はてなのアイドルさいとーさんと、小島アジコさん好きです。さいとーさんはマブダチ。

 

orangestar.hatenadiary.jp

 

 

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

 

詩歌やエッセイの表彰式で「はてなブログやってまーす!はてなを宜しく!」と宣伝してあげたけど、読者は増えませんね…

はてなって、あまりメジャーではないのかな‥

どうせおまいら(はてな運営)だって、おれの事知らないんだろ?←

 

10年前は何してた?

 

震災があって、メンタルやられてイトヨのパート辞めて引きこもってた。

 

この10年を一言でまとめると?

 

激震

 

以上。スター下さい。

 

はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ガーゼのマスク

巷ではマスクが話題なので、マスクの事を書いてみる。

最後まで書ききれずに下書きフォルダ行きかも知れない。

心臓をやられてから文章が着地出来ないまま下書きに溜まっているから、心臓だけでなく大脳もやられたかも知れない。

そんな事はどうでもよくて、マスクである。

ビハインドザマスク - 関内関外日記 https://goldhead.hatenablog.com/entry/2021/10/22/131828

この人の、この文章を読んで私も書いてみたくなった。

とは言え、またもや昔話である。繰り言である。嫌なら読むな。

私が倒れて、意識が戻り姉と面会出来た時、姉が大きなマスクをしていたので

「風邪?」と聞いた。(声が出ないから筆談だっただろうか?もう忘れた。)

「違う。コロナよコロナ。あんたもマスクしなさいね」

姉が私にマスクを差し出したので、私はそれを付けた。

コロナ対策のために面会は5分となり、それから間もなく面会禁止になった。

私は病室を出て売店に行く時や、休憩室のテレビを見る時も姉の言いつけを守ってマスクをつけた。

今になって調べてみると、この頃にはまだ、岩手に感染者は出ていなかったのだから、何ともはやな厳戒態勢である。

私が倒れる前の世界は、どうだったのか。。

私は、スマホInstagramで記憶を手繰る。

2019年11月、友人と都内で紅葉狩りをしている。

残念ながら私達はお互いを撮らないから、風景と植物と食べたものの写真だけが並ぶ。

この日、皆がマスクをしていたような気がする。確か、ひとりが「タンポポさんも、マスクした方がいいよ」と言って、私にくれたのだ。

でもそれはコロナではなく、インフルエンザ対策ではなかったか。

友人は高齢の親と同居していたり、病院勤務だったりで、健康管理がとてもキッチリしている。

その時コロナはまだ、対岸の火事だったと思う。でも、話題にはしたような気がする。

2020年1月、娘と池袋西武の初売りに出かける。催事場にあった北斎のオブジェの前で娘が戯けている。

楽しげなインスタをここに掲げたいが、娘にバレたら怒られるのでやめておくが、、実に見事な戯けっぷりだ。

そのインスタの娘が、使い捨てマスクを付けている。

娘は日頃から感染対策にとても厳しい。マスクがコロナ対策ならば、密になる催事場には来ないだろうから、これもインフル対策だったかも知れない。

私が入院していた2020年の1月2月は、大変なマスク不足が起きて、マスクは貴重品となったらしい。娘は知人からマスクを手配してもらい、私の入院見舞いのお返しにマスクを配り、大変喜ばれたと言う。

退院して、盛岡から東京に戻る道中、人という人が皆マスクをしている光景がとても奇異で、異次元の世界に見えたのだから、私の入院前がビフォーマスクの世界だったかも知れない。

記憶が曖昧で、かも知れないばかりでどうしようもない。まあ、どうでもいい話だ。

皆がしていても、マスクが店頭から消えてアベノマスクが配られても、売っていないから自作しても、私は心のどこかでマスクなんか気休めに過ぎない、マスクにいかほどの効果がありやと思っていた。

 

私が中学生の頃、突然声が出なくなった事がある。

声帯の感覚が普段と違う。痛みなどはなく、ただ声が全く出ない。3、4日すると少しずつハスキーな声が出始めて、一週間もすると元の声に戻るのだった。

それが年に一度か二度、大人になっても続いた。

最初はとても驚いたが、放っておいてもいずれ治るので、病院には行かなかった。だから原因は解らないままだ。風邪などひかなくてもおきるので、心因性のものかも知れない。

声が出ない間、私はマスクをして通学した。

マスクをして、声が出ないと周りに伝えておけば、授業で指される事もないので便利だった。

そして、口の悪い男子が

「お前、意外と可愛いな。マスクしてると」等と言い腹を立てたが、実際のところ口元に難があるので、自分でもそう思っていた。

これもどうでもいい話だった。

 

母とマスク。

母のマスクは、薬局に売っている真っ白いガーゼのマスクだった。

母が倒れる直前に、電話で「コロナが怖いから、マスクするんだよ」と言った気がする。

「なあに、おらぁいっつもだが」と母が言い、そうだったねとふたりで笑った気がする。

これも、私の妄想だろうか?

ああ、そうだ。誰か、母の棺にマスクを入れただろうか。

孫の書いたお手紙、母が好きだったお菓子、入れ歯、眼鏡、そんなものたちを入れたような気がする。

金属はダメだと、葬儀屋さんに言われた気がするのは、母でなく犬の時だっただろうか?

気がする、気がするばっかりだ。

母の棺に入れてあげなければならなかったのは、ガーゼのマスクだった。

ビフォーコロナどころではない。母は、半世紀前から毎日マスクをつけていた。

信じないかも知れないが、本当の事だ。

食品の製造販売をするのだから、衛生上の理由は勿論あるのだが、仕事場にいなくても、店が休みの日でも家の外では365日、マスクをつけた。

それはやはり、人から見れば奇異な事に違いなかった。友人によく指摘されたけれど、私も本当の理由を知らなかった。

白いガーゼマスクを春夏秋冬、手洗いすれば少しは長持ちもするだろうに、がさつな母は洗濯機にそのまま放り込む。生地が縮んで小さくなっても使い、ゴム紐がびろびろに伸びたら取り替える。

母の一生で、どれだけの数のガーゼマスクを買っただろう。

授業参観にマスクをしないでと言えば、授業参観に来なくなる母だった。

私はいろんな事を諦めて、母の白衣や三角巾、マスクにまでアイロンをかけた。母はアイロンがけが苦手だったから、かけてあげると嬉しそうだった。

母の棺に、ガーゼのマスクを。

どうして、どうして、思いつかなかったんだろう。

どうして、私は、よりによってあの日に倒れたりしたんだろう。

不仲だった父と母。

父はよく、母の顔を「ミイラみってえな面(ツラ)」「めぐせえ、みったぐなす(器量が悪い)」等となじった。

若かりし頃の母の写真を見れば、ふっくらとした頬に大きな瞳の美少女であった。

食べる暇も、睡眠時間もなく働かせて、母をミイラのようにしたのは父なのに。

真夏にマスクはおかしいよと言っても母は、

「おらあミイラだから、よその人がおらのツラ見だぁもんだら、たまげっから」と言って笑い、決してマスクを手放そうとしなかった。

旅行先の宴席などで、いつの間に撮られた写真があると

「やったーごど、こんなに頬がこけて、本当にミイラみてえだぁ」

と嘆いていた。

母はマスク依存症になっていたのだと思う。マスクをしていないと、マスクのストックがないと、途端に不安定になった。

あの世でも、マスクがないと不安だろうか。

どうかしている。

そんな事、あるはずもない。

そして、世界中の人々がマスクを付けているこの世をあの世から見て、何を思うだろう。

「おらぁまぁ、やったぁごど。皆んながおらの真似コして、マスクすったぁが」

と言って、笑うだろうか。

 

 

 

 

 

生きているうちに

らくがんを食べる砂糖の塊を食べる生きているうちに食べる/古賀たかえ

10.1 NHKラジオ深夜便 ほむほむのふむふむスペシャ穂村弘

 

私はこの放送を聴いていないのだが、Twitterに流れてきて、ああ、いい歌だなあと深く心に感じた。

そして1000文字くらいのテキストが瞬時に浮かんだので書き留めておく。私にとって良き歌とは、こんなふうにテキストが溢れてくる歌のことである。

 

私が子どもの頃のこと。

母方の叔父は、よほど商売が上手くいっていたのだろう。自宅の他に、大きな家を建てた。

その大きな家には、祖母がひとりで住んだ。

理由は嫁姑問題だったかも知れないが、そういう事情は子どもの私の耳には入らない。

自分の父親が嫌いな私はよく、祖母の家に入り浸った。父と不仲な私を案じながらも祖母は、私を受け入れてくれた。

私の方は、祖母が独りぼっちで寂しかろうと、祖母に寄り添ったつもりになっていた。

実際、祖母も少しは寂しかったのかも知れない。

他の孫たちは成長すると忙しくて誰も寄り付かず、オバーヤンオバーヤンと懐くのは私だけになっていた。

祖母の家には、大きな仏壇があった。

祖父は私がまだうんと幼い頃、重度の糖尿病で死んだ。

片足か、両足か、とにかく壊死した足を切断していた。だから、記憶の祖父はいつも床に臥していた。

孫が来ると横になったまま50円玉をくれた。50円は駄菓子が10個買えるから大金だった。

でも、祖父は死んでしまった。

祖父の写真はモノクロのピンボケばかりでいいのがないからと、祖母は祖父の肖像画を発注した。

出来上がった肖像画は、生前の祖父にあまり似ていなかった。

「高いお金を払ったのに下手くそだ。オズーヤンはもっといい男だった。禿げだけどな」

と、祖母は憤り、そのあとカッカッカと大笑いをした。

毎年のお盆の前には、私と従姉妹たちで仏壇飾りを手伝った。

お盆の時だけに使う花瓶や、お膳やいろいろな小道具を物置きから出し、洗って配置する。

それぞれの配置には何か特別な決まりがあるらしく、その作業は半日以上もかかった。

そして、提灯を持ってお寺に行き、蝋燭を灯して家に持ち帰り、仏壇の蝋燭に火を移す。

この一連の作業で、あの世の仏様の魂が、家に戻って来たという事になるらしい。

 

盆の入りにはどこの家でも皆が寺に向かい、同じように迎え火の提灯を下げた同級生とすれ違った。

だから子供の頃は、神も仏も信じて粛粛と行った。

帰宅して仏壇の蝋燭に提灯の火を移すと、祖母はやれやれと安堵して、大きな声で祖父に話しかけた。

オズーヤン オズーヤン

孫ガドーガ コレコレコンナニオガッターガ

オマブレンセ オマブレンセ

ワラスガドーヲ

孫ガドーヲ

マブッテケドガンセ

祖父の仏壇にはたくさんの供物が並んだ。

立派な西瓜に葡萄や桃、マスクメロン。そして大きな蓮の落雁

 

お盆が終わると、その片付けにまた駆り出される。

本当は、私だって面倒くさい。

従姉妹も、母も伯母達も忙しいと言って、次第に誰も集まらなくなった祖母の家。

楽しみだった果物は熟れ過ぎて、というよりも半ば腐っていて、それでも祖母は勿体ないと言うので一緒に食べた。

そして、落雁を貰って帰った。

田舎の落雁は大きくて、割るとほろほろと崩れた。当然のことながらとても甘い。

私の実家は緑茶を飲まない家だった。母と私はインスタントコーヒーにクリープと砂糖をたっぷりと入れ、甘い落雁をもしゃもしゃと食べた。

 

東京のお盆を含めた季節行事は、田舎のそれに比べておままごとのようにコンパクトだと感じる。

東京では新暦のお盆だから、8月が来る前に落雁は見切り品となる。

ワゴンに売れ残りの落雁がたくさんあって、ピンクの蓮の形をした小さな落雁をひとつ買った。

そして私の家の、おままごとな仏壇に供え、旧盆が終わってからそれを食べた。

すると田舎の落雁の味と、何かが違う。

ほぼ砂糖なのだから、違うはずもないのに、田舎のものと東京のものは何もかも、全てが何か違うのだ。

何かとは何か、わからないまま、私はもしゃもしゃと落雁を食べた。

食べながらふふっと笑った。

祖母が毎年、盆飾りを準備しながらオズーヤンオズーヤンオアゲンセと唱えていたのに、片づける時には

「なーにこんなもの。死んだら食べられるわけでもあるめえし。なあ?」

と、ぷんぷんしていたのを思い出したからだ。

お婆やん、それを言ったら、身も蓋もないじゃないの。

私はそう思いつつ、何も言わずに笑った。

私のお婆やんは、愉快な人だった。

 

お婆やんは私が結婚した翌年に亡くなった。

私が東京に嫁ぐのを嫌がったお婆やん。この結婚を止めてくれと、母に頼んでいたお婆やん。

そんなお婆やんにさえも、私は何ひとつしてあげられなかったね。

 

初七日の法要の膳の里芋が美味しくて泣く お婆やんごめん/佐々木優美子

2019/05/27(毎日歌壇/伊藤一彦選)

 

生きているうち

そう、生きているうちに。

後悔しないように、何でもしようと思う。

決して諦めたりせずに。

 

 

 

 

 

 

ともだちって何だろう

ハローハローエブリバディ!

大病して死にかけたけれど、見事に復活したタンポポだよ!

ごっそり落ちてラッキー♪だった体重は、1年半前に戻りつつあるし(ノД`)

見た目だけは完全復活さ。ウェーイ!

だけど声はまだ元に戻らず、以前よりかなり疲れやすく、何よりも記憶障害が酷いよ。

これは加齢のせいか、病気の後遺症なのか解らない。本当に酷くて家族も震えるレベル。

主治医に尋ねても

「あれだけの大手術したからねーまあ、仕方ないよねー」

で、終了。何度も聞いたけど、終了。マジ終了。

死ななかっただけマシでしょ?という事らしいっす。

だから、自分でもそう思う事にした。そう思い込んだ。生きてるだけでまる儲けw。

退院してからここに昔話ばかりグダグダ書いているのは、ふと思い出した事を忘れないために書いているのさ。つまり、ボケ防止ね。辛気くさくてsorry!

私は記憶力にはわりと自信があって、学校のテストはほぼ一夜漬けだった。

昔の出来事をやたらと覚えていて、決して忘れたりしないと思っていた。

けれども記憶はいとも簡単に消えてなくなるし、思い出したとしても、時には内容が改ざんされてしまう事を、この療養生活で初めて知った。

思い出したから‥と書いてみて、読み返したら以前にも全く同じむかし話を書いていて、ショックを受けたりもした。

今までは、私の書いたものなど何の価値もない!と、衝動的に消してしまった文章もたくさんある。

でも、これからはなるべく消さずに残しておこう。何度でも、思い出したら何度でも書こうと思う。

私が本当に何も書けなくなる、その日まで。

私の文章に価値がなかろうと、たとえ誰からも見向きもされなくなっても、どうでもよい。

私にとって書くことは、生きることだから。

そこんとこ夜露死苦(古)

 

退院して1年半が過ぎたというのに、友人の誰とも会っていない。

誰も私に「会おうよ」と言ってくれない。

私は友達が多い方だと思っていた。それなのに‥ああ、それなのにそれなのに‥

等とグズグズ言っていたら、娘の怒りが爆発した。

「まーたそんな事言ってる。このご時世に病み上がりで人と会って、万が一にもコロナに罹ったらどうすんの?もしそうなったら取り返しがつかないから向こうだって遠慮してるんでしょうが!」

「でもさあ、もうワクチンも打ったのに?」

「ワクチン打ったからって、コロナに絶対罹らないわけじゃないんだからね?もー!何回同じ事言えばわかるの!」

と、叱られる。怖い。これだから嫁の貰い

 

さてと、ここからが本題である。

私は、友達が多い方だと思っていた(2回目)。

小学生の頃は、友達がとても少なかったから、雑草やスズメや野良猫や、よそんちの犬が友達だった。

中学では友達が増えた。その子達とは今でも親友だと思っている。

高校でまた、躓いた。ひとえに屈折した私のアイデンティティのせいである。

社会に出て、結婚して、子育てをして、転居転職を繰り返し、私の人付き合いのスキルは格段に上がった。

敵を作らずに誰とでも上手くやれた。世界の中心にいる‥と思っていた。

今、とても孤独なのは何故だろう。

この気持ちはなんーだろうー♪

ともだちってなんーだろうー♪

そういえば、私とご飯を一緒に食べた人は皆、友達だと思っていたのだった。

お茶ではなくて、ご飯。ここ大事。(コロナ禍前の話だからね。ここも大事)

そもそも私は、人前ではあまりご飯を食べたくない方だ。

会話しながらご飯食べるって、結構難しくないですか?

だから一緒にご飯食べた人は、打ち解けた友達、そう思っていた。

ブロガーではCALMINさん、サキさん、さいとーさん。そう、あのさいとーさんw

さいとーさんはマブダチw

短歌つながりで、マジコちゃん。

あとは、えーと、えーと‥

ご飯は食べたけれども、残念ながらオトモダチになれなかった人もいる。

それもひとえに私の屈折したアイデンティティの(違う)

最初に書いたように記憶障害があり、何が起きて友達でなくなったのか、経緯を全く覚えておらず、事情を知っていそうな人に聞いて思い出したりもした。

そして、聞いてみれば、なーんだその程度の事かと思う。

思うけれども、私は自分が倒れる直前の、自分のお気持ちを尊重する事にした。

友達ではなくなった、そのうちのひとりはかつて私と飯を食いながら、確かこう言ったのだ。

「自分には、友達がいない」と。

私は心底驚いたね。

だって、その人はいろんなオフ会に顔を出していたようだし、ご立派な大学まで出ていらっしゃるのだから。

「あら?わたし達、友達でしょ?○○さんも、○○さんも、○○さんだって、みんな一緒にご飯食べたんだから、もう立派な友達さ」

私は努めて動揺を隠し、こんな風に言ったのだと思う。しかし、返事はなかった。

きっと、全くそうは思わなかったのだろう。

仕方ないよね。

これは、私だけのルールなのだから。

私だって、ご飯を食べたけれど結局は友達になれなかった人もいる。たくさんいる。オメーだよ!

 

これは、ビフォーコロナのお話

気軽にはてなオフ会が出来た、ビフォーHagex事件のお話。

ともだちってなんーだろー♪

ともだちってなんーだろー♪

友達って、何ですか?

あなたは友達、何人いますか?