あめゆきをとって

仮題と下書き

犬がしんだ。ただ、それだけのこと

2016/01/25〜2016/02/01

 

犬が死んだ。

犬がいなくなればいいと言っていた私に、罰を与えるかのように

本当に、犬が死んだ。

 

犬が死んだらどうしようといつも考えていた。

考えておかないとそうなった時どうしていいか解らないだろうから。

そして、いつも考えていたのに実際に犬が死んだらどうしていいのか解らなかった。

私は犬が死んだ時の事を、すぐに忘れてしまうだろう。

もう既にいくつかの記憶が曖昧になっている。

忘れる事で、自分を守ろうとしているのだと思う。

だから、記録のためにここに書いておく。

犬の事を忘れてしまいたくないから。

 

 

Lを我が家に連れて来たのは、2006年6月。

時々消耗品を買いに行っていたペットショップが明日で閉店、在庫一掃をしていると知り、買い物に出かけた。

ドッグフードやペットシーツだけでなくガーデニング関連も扱っていたので、安い鉢花をたくさん買おうと思った。

そのショップでは、春頃からパピヨンの牡と牝が売られていた。どちらも可愛い顔立ちをした兄妹で、牝の方は早々に売れてしまった。

残った牡犬を「買いませんか」と行く度に言われ、夫はその気になりかけたが、先住犬との相性を見ようとして近づけたら牡がすぐに咬みついてきた。

驚いた先住犬は店の外に飛び出して逃げ、店員に捕獲されなければ危うく車に轢かれるところだった。

こんな凶暴な犬などいらない。私はずっと反対した。

でも、勝手にLという名前を付けたこの牡犬が売れたかどうかが気になって、ショップに行く度に確認するようになっていた。

閉店の前日、どうか、もういませんようにと祈る気持ちで見に行くと、Lがまだいたので落胆した。

Lは店内に放たれて、落ち着きなくビュンビュンと走り回っていた。

店にはLの他に犬が5、6匹と猫が10匹位まだ売れ残っている。

幾組みかの家族が犬猫を見ながら、どれを飼おうかと検討していた。

Lも大人しくさえしていれば可愛いいのに。あんなガチャガチャした犬、誰も飼おうとは思わないだろう。

 

「もう帰る」と言っても、夫は「Lを連れて帰ろうよ」と言う。

玩具が欲しいと言って聞かない幼児と同じである。

何時間そこにいたか解らない。牝の甲斐犬が売れ、残っているのはLと、猫が数匹だけになった。

驚いた事に「お金はいくらでもいいので、どうかLを連れて帰って下さい」と、店長さんに頭を下げられた。

「いくらでもいいって…もし、うちが連れて帰らなければ、この犬はどうなってしまうのですか?」

店長は黙っていた。そして

「親会社に突然『閉店する』と言われて、自分達も明日からどうなるのか全く解らないのです」

と答えた。

だから、売れ残った犬の行き先など知る由も無いのか、それとも言えないような行き先だという意味なのか、私には解りかねた。

「3万円位でいいのなら…」

と言うと

「いいですいいです。良かったな〜L。あ〜本当に良かった」

 

 

こうしてLは我が家の犬になり、それから9年半、あっという間に月日が流れた。

本当に、あっという間だった。

 

 

先住犬の里親になった時とは比べ物にならない程、Lは我が家の生活をかき乱した。

夫はおっとりして静かな牝の先住犬よりも、ガチャガチャしたLの方が犬らしくていいと可愛がった。

「男同士ふたり旅だ」

と言って、突然キャンプに出かけたり、ドッグスポーツに参加したりした。

でもその後、牝の捨て犬を保護してからはそちらばかりを可愛がった。捨て犬も、拾ってくれた夫にだけよく懐いた。

いつの間にか、私がLの担当になっていた。

Lは家でも外でも喧嘩ばかりした。私は、公園やドッグランでいつでも謝って回らければならなかった。

どの犬も静かにしているドッグカフェに、Lが入っただけで店内が騒然となった。

『素敵で楽しい、犬との暮らし』から、どんどん遠ざかっていく。

ダメな飼い主だと後ろ指をさされているようで、オフ会にも行けなくなった。

けれども、Lは朝から晩まで私にベッタリのマザコン犬だった。次第に私も、Lが可愛いと思うようになった。

 

あんなに連れて帰るのが嫌だったのに。

連れて帰った事を、毎日後悔ばかりしていたのに。

祖母が元ヤクザの末っ子を、一番溺愛したのと同じように私も、ビビリなくせに猛犬で、手に負えない程おバカなLが可愛くて可愛くて仕方の無い、バカ飼い主になっていた。

 

 

犬が死んだ。

 

 

治療に軽い麻酔をかけるため、半日入院となった。

夕方、夫の車で迎えに行くと「重篤な状態」と言われ、気が動転した。

Lは前足に点滴の管を付けられ、それを口で外さないようにエリカラを付けていた。

私が来たのが解ると、少し興奮気味に足をばたつかせた。

「暴れちゃダメ!点滴が取れちゃうよ」

私は急いで車に戻り、Lが今日帰れない事、命に関わる病気で危険な状態な事を、夫にまくし立てた。

夫は訳が解らない様子でなかなか車から降りようとせず、私を苛つかせた。

Lは、夫の前でお座りをして見せた。

エリカラ姿のLを見て「生きているじゃないか」と夫が言い、私を更に苛つかせた。

「元気そうに見えるだけで、本当はそうじゃないんだって…」

私の不安が伝わらないように、明るい声でLに励ましの言葉をかけ、早々に病院を後にした。

連れて帰れないのに、ここから出して出してと暴れるLを正視出来なかった。

Lは気が強く、大型犬にも咬みつきに行くほど凶暴だったが本当はびびりで、病院が大嫌いなのだ。

1歳になる前の、去勢手術で余程痛い目にあったらしい。

予防接種に連れてきても、病院の入り口を見ただけでブルブル震え、ヒャンヒャンヒャンヒャンと情けない声で鳴き続ける犬だった。

Lちゃん。怖いだろうな。

もし治せない病気なら、どうせ、どうせ死んでしまうのなら

連れて帰ろう。家で看取ろう。

きっとLも、そうして欲しいと思っている。

明日は何時から面会なのだろう?

朝になったらすぐに病院に電話をして、退院させよう。

泣けて泣けてどうしようもなかった。まだ死んでもいないのに。

 

翌日、夫は仕事で車を出せなかった。

私は自転車で迎えに行く事にした。

病院に置いてきたキャリーは自転車の前かごに入れて、Lは寒くないように抱っこ紐で抱いて、ゆっくり歩いて帰ればいいだろう。

出かける準備をしていると、私の携帯が鳴った。

病院からだった。

余程の事がない限り、病院から電話がかかってくる事はない。

覚悟を決めて、電話に出ると

「あまり良くない。すぐ会いに来て下さい」と、院長が言った。

私は慌てて持病の薬を流し込み、家を飛び出した。

家に帰ろう。母ちゃん今行くよ待っててL。

病院まで自転車だと30分はかかる。

慌てふためき急いで走っていたが、次第に疲れてきてペダルを漕ぐのがゆっくりになる。

荒川の土手の上を走りながら、山茶花の枝に緑色の鳥の尾が見えた。

私は、自転車を止めた。

ウグイス?それともメジロ

顔を見なければ解らない。鳥は奥の方に潜り込んだ。数羽が蜜を吸っているようで、あちこちの枝が揺れていた。

そうだ、鳥など見ている場合じゃない。急がなければ。

帰りにここで、Lと一緒に鳥を探そう。Lもきっと、鳥が見たいだろう。

私はまた自転車を漕いだ。

 

病院に着くと、受け付けの女性が、私をLのいる場所へと急き立てた。

Lは、横たわっていた。昨日よりもぐったりとして。

「危険な兆候があったのでお呼びしたのですが、今やっと落ち着いています。このまま3、4日、治療に耐えてくれれば持ち直す。それは、この子次第です。

しかし、脳出血が疑われる症状が出ています。非常に厳しい状況なのです」

そして「側にいてあげて下さい」と言われた。

Lは、ここで死ぬのだろうか?私はここで、Lの死を看取るのだろうか?

嫌だ。家に連れて帰る。そう思っても、口には出せなかった。

Lは眠そうにゆっくりと目を閉じかけては、ハッと目を見開いた。足は力なく伸びたままで、立つ事も座る事も出来そうになかった。

これではキャリーに入らない。抱っこ紐にも入れられない。

明後日まで頑張ってくれたら、夫の車に乗せて帰れる。

「もういいよ。苦しいのは嫌だよね。ゆっくり眠っていいんだよ」と思っても、目を見開いて私を凝視するLは、まだ死にたくないのだと思った。

そして、どうしてこんな目に遭っているのかと、私以上に混乱しているに違いない。

私が見えているのか、声が聞こえているかも解らない。いつものLの表情ではなくなっていた。

私は、Lの肉球をずっと触っていた。

Lは肉球を触られるのが嫌いで、いつもならヤメテと言わんばかりにすぐに足を引っ込めたが、それすらもうしなかった。

きっと声は聞こえているだろう。何か話そうとしても、声はかすれ、震えて泣き声になった。

ダメだダメだこんなんじゃ。Lが怯えてしまう。

Lの下の檻には、大きな黒いレトリバーが横たわっていた。あまりにも動かないので心配になり暫く見ていると、お腹が微かに動くのでホッとした。

Lの隣はテリア系の中型犬で、そいつが絶えず動き回りギャンギャンギャンと吠えていた。

これじゃあLが怖がるよね。家に帰ろう。

母ちゃんがずっとずっと付きっきりで面倒を見るよ。

 

そう考えていた時に、私の携帯が鳴った。

ブロガーイベントの参加依頼だった。急なキャンセルがあって、その替わりらしい。

とても行ける状態ではないので、丁重にお断りした。

ちょっと勿体無かったね。でもいいんだよ。

私の代わりはいっぱいいるもの。でもLの母ちゃんは、私だけだからね。

電話になんか、出なきゃよかった。

 

そうこうしているうちに、午前の面会時間が過ぎていた。

別の犬を診に、女医が入ってきたので

「連れて帰れません…か?」

と聞くと、とんでもないと一蹴された。

私は午後の面会時間まで、昼食と携帯の充電をするため病院を後にした。

「面会時間ぴったりに来るから、待っててね」

 

Lちゃんはまだ、若いもの。運動神経抜群のアスリート犬だったもの。

きっと、この山を乗り越えられるはず。

そう信じて疑わなかった。

犬が死んだ。

犬が死んだ。私のせいで。

 

まさか こんなに あっけなく

Lが 死んで しまうなんて

大好きな

大好きな

大好きな

私のLが 死んでしまうなんて

 

 

 

 

どうして あの時 気付いてやれなかったんだろう

 

ううん 本当は 気が付いていた

いつもと違う って感じていた

 

 

でも大丈夫 いつものLだよねって言うと

大丈夫だよ母ちゃん ほらほらいつもの僕だよって

Lはいつもと同じように悪戯をした

椅子に座る私の膝にも 軽々と飛び乗った

 

ごはんも頑張って食べたのだけれど…

 

 

3日連続で、少し残していた。

ついこの間まで、真っ先に全部平らげ、他の犬のごはんを奪いに行くような犬だったのに。

そのお陰で捨て犬は、Lに取られないようフードを丸呑みするようになり

先住犬は自分の皿を奪いにきたLと、毎晩壮絶な喧嘩をした。

ひっくり返って床中にばら撒かれたフードを、先住犬とLが喧嘩している間に捨て犬がせっせと拾い食いする。

そんな殺伐とした食事風景が、日常であった。

それなのに、食べるのが一番遅くなり、先に食べ終えた先住犬がLの皿を虎視眈眈と狙うようになった。

急にどうしたの、Lや。

フードをぬるま湯でふやかすと食べたが、翌日はそれも食べなくなった。

缶詰のビーフを混ぜてやると、よく食べた。

美味しいのなら食べるのか。ただの我儘だね。

これからフード代が大変だなぁと思いながら、Lにだけビーフを大盛りにしていたら

「Lばかり贔屓して」と、夫と娘に文句を言われた。

「Lちゃんは痩せっぽちだから、栄養つけなきゃ」

そう言って、他の犬に邪魔されないように付きっきりで食べさせた。

Lは、もりもりと食べてくれた。

もう少しで完食というところで、器に真っ赤な血が付いた。

私は驚いて夫を呼んだ。夫がLの口を開けてみると、下の前歯から出血していると言った。

 

そういえば…

 

1週間前位から、犬の毛布や床や椅子にぽつんと血痕があった。

最初は牝の生理が始まったのかと思っていた。

Lはよく咬みつく犬だったから「喧嘩でもして口の中を切ったのだろう」と夫が言った。

でも、ここ数日のLは大人しかったし、私も体調不良で家にこもっていて、そんな激しい喧嘩を見ていなかった。

ザワザワと、不吉な予感が襲ってくる。

「明日、病院に連れていくから」

 

半年前、Lは全身麻酔で歯石取りをして、グラグラな歯を抜いたばかりだった。

またそれをやるとなれば、3万円かかる。嫌だなあ、でも仕方ない。治さないとLがごはんを食べられない。

Lはいつも、私の布団の横で寝ていた。

「今夜はケージに入れた方がいいんじゃないか?布団に血が付くぞ?」

「付いたら洗うからいいの」

そして、朝になった。

毎晩2回は必ず、犬達のトイレで目を覚ますのに

この日に限って犬も私も、朝になるまで目覚めなかった。

Lは私の横に座り、ションボリしていた。

母ちゃんゴメン、汚しちゃった…

という目で私を見ていた。

起き上がった私は、悲鳴をあげた。

掛け布団が、大量の血で真っ赤に染まっていた。

 

すぐ病院に行こう。一番目に診てもらおう。

夫は一日中予定が入っていた。念のために聞いてみたが、やはり私が連れていくしかなかった。

ペットキャリーにフリースの毛布を敷いて、Lを入れた。

入れてから(服を着せないと寒いかも…)と心配になったが、あまり動かして出血させるより一刻も早く連れて行こうと思った。

Lはフサフサな毛皮を着ているんだもの、大丈夫だよね。

母ちゃん、頑張って急いで走るからね。

キャリーを自転車の荷台に括り付け、病院に向かった。

やはり冬の朝は寒い。

私は必死にペダルを漕いでいるから寒くはないけれど、Lはきっと寒かった。

 

どうしてあの時、Lの服を取りに戻らなかったのだろう。

どうしてあの時、タクシーを呼ばなかったのだろう。

 

「タクシーを使えば」と夫が言うのに、シートを血で汚してしまったら大変だからと聞かなかった。

Lが不安にならないよう荷台に声をかけながら、自転車を漕いだ。

Lちゃんは、元気な子。絶対絶対大丈夫〜♪

と、適当な歌を歌って励ました。

そして、私にしてはスムーズに病院に着く事が出来た。

いつもなら曲がる道を間違えて、迷い彷徨うのが常だったから。

 

待合室には犬と猫が1匹づつ、順番を待っていた。

Lは、ぶるぶる震える事もなく、ヒャンヒャンと泣きもせず、キャリーの中に座っていた。

いつものLじゃない。

早く、早く、Lを診て欲しい。

Lの番になり、キャリーの蓋を開けてもLは出てこなかった。

いつもなら蓋を開けろ開けろと大騒ぎして、開けるとすぐに診察室の外へ逃げようとするのに…

呼んでも出てこないので、キャリーの天蓋を外した。

抱きかかえて診察台に乗せると、Lは四つ足で踏ん張って立ち、あまり動かなかった。

「体重3.2キロ」と、院長が言った。

口から出血した事を伝えると、院長はLの口の中を見た。

「どこだろう?どこからの出血かな?ああ〜、これだな」

 

院長は、奥歯から出血していると言った。

 

…奥歯?昨日は前歯だと夫が言ったのに。

 

どうして私はこの時、院長にそう言わなかったのだろう。

 

最初の犬を飼ってから10年間、この病院にかかっていた。

我が家からはかなり遠かったが、他の区からも患畜が来る程、評判の良い病院だった。

だから、夫の見立ての方が間違っていたか、奥歯からの血が前に回ってそう見えたのだろうと思い、黙っていた。

「この奥歯を抜いて、他の歯もクリーニングしましょう。軽い麻酔をかけてやりますので、夕方迎えに来て下さい」

 

Lはここで去勢手術と歯石取りをして、これまでに3回麻酔をかけている。

今回も大丈夫だろう。これでもう安心だ。

 

私は、スーパーに寄って買い物をし、夕食を作り、血で汚れた布団カバーを洗濯して夕方まで過ごした。

そろそろLのお迎えに行こう。早めに行かないと、ますます寒くなってしまう。

出かけようとしていたら、夫が帰宅した。

予定よりも早く、仕事が終わったのだった。

私は夫の車に乗り込んで、病院にLを迎えに行った。

 

 

2016年1月22日 午後3時過ぎ

 

病院からの連絡を受けて、王子駅前からバスに飛び乗る。

逆方向からのバスに乗ったのは、初めてだった。病院近くのバス停で降車したはずなのに、病院がどこか解らなかった。

四つ角に立ち、360度ぐるりと見回した。

見えない何かの力に導かれるように走ると、見覚えのある通りに出た。

 

Lちゃん。母ちゃん来たよ。

 

 

受付の女性が私を見ておろおろしながら「直ぐ中に」と言った。

ドアを開けると、診察台の上に犬がいた。でも、その犬は別の犬だった。

 

あれ、Lは?Lはどこ?

 

診察室の奥にあるICUに、院長とLがいるのが見えた。

院長は目で私に(早く入るように)と促した。

 

Lちゃん!

 

 

そこには、戦慄の光景があった。

Lの四肢はぴんと伸びきって、宙に浮いていた。

背骨が、こんなになるかしらと思うほど弓なりに反り返り

見開かれた両眼は、眼球が今にも飛び出そうだった。

けれどもその目はもう、何も見えてはいないようだった。

口を大きく開き、歯を剥き出しにして

その口元に透明の酸素マスクが、院長の手によって嵌められていた。

Lは、ハッハッ、ハッハッと荒い呼吸をしながら苦しみ悶え、とても正視できるものではなかった。

それでも今ここで、私が目を背けるわけにはいかない。

 

「先程、容体が急変して、心臓が止まったのです。

でも『お母さんが今来るぞ。頑張れ』と言って処置をし、L君は蘇生しました。

それから直ぐにご連絡したのです」

 

 

 

サッキ シンゾウガ トマッタ?

 

 

私の心臓こそ止まりそうになった。

Lちゃん、お前ったら、一度死んじゃったのかい?

バカだね。それでまた戻ってきたの?

母ちゃんに、お別れを言うために…

 

スゲーなお前…

 

でもLの姿は、生き返りたくて生きているとは到底思えないものであった。

医学の力で無理矢理に生かされている、そんな気がした。

これでも生きていると言える?

こんなLは、Lじゃない。

可哀想。

Lが、可哀想だ。

 

あん…らく………

 

心の中を、そんな言葉がよぎった。

まるでその心の中が聞こえたかのように、院長が強い口調で言った。

 

「ここから治っていく子も、いるのですよ。この、辛い治療を乗り越えてくれさえすれば…

L君は、頑張っている。生きようと しています」

 

そうだよね。

安楽死を選択するなんて、出来ない。

私が終わりにするなんて、出来ない。

頼めばこの院長ならきっと、言う通りに処置してくれるのだろう。

しかし夫はともかく、娘がそれを許してくれない。

Lだって、このまま死にたくはないだろう。

せっかく戻って来てくれたのだもの。

Lちゃん。頑張れ。

頑張れ。

 

「苦しそうなのは、高濃度酸素を目一杯送り込んでいるからなのです」

院長が、ゆっくりと様子を見ながら酸素マスクをLの口から離した。

Lはハアハアしていたが、険しかった表情がほんの少しだけ穏やかになった。

 

「よし、これから一般病室に移します。お母さんは側にいてあげて下さい」

 

Lは二人のナースに運ばれて、午前中にいた檻とは別のところに寝かされた。

周りには猫がいたようで、時おりニャーとか細く鳴いた。

檻の蓋は開けたままで、Lを触る事が出来た。

Lはごろんと横たわり、目の焦点が合っていない。きっと、何も見えてはいないのだろう。

声をかけても反応しなかった。

呼吸はしているものの、ハァッ…ヒッヒッ…ハァッ…と不規則であった。

 

Lちゃん。

苦しいね。

これじゃ、今夜も病院にお泊まりだね。

母ちゃん今日は帰らないで、ずっとLちゃんとここにいようかな。

ダメって言われちゃうかな?

Lちゃん。

 

頑張れと励ますのは辛かった。

これ以上、これ以上Lがどう頑張ればいいと言うのだろう?

頑張らなければならないのは、自分の方だった。

涙でLの姿が見えなくならないように。

声が、震えてしまわないように。

 

 

 

この静かな時間は、長くは続かなかった。

突然、Lの表情がハッと正気に戻ったようになった。

体勢をお座りにしたいかのように身体を捻らせたが、起き上がるには力が足りない。

2、3度起き上がろうとして上手くいかず、Lは足をバタつかせた。

 

あっ、Lどうしたの?起きたいのかい?

暴れないで

 

Lが前足をバタバタバタと、走り出すような動き方をしたので

私は、Lが元気になってきたのだと勘違いをした。

でもそうではなかった。

Lの身体の中で何かが起きて、Lはまた苦しみだしたのだ。

 

Lが…Lが…

 

誰かを呼ばなくてはと思う間もなく、ナースと院長が飛んできた。

Lは全身を痙攣させ、踊るようにゆっくりと変な動き方をした。

まるで、Lに悪霊が乗り移ったように。

 

ああ、Lが

Lが死んでしまう。

こんなに苦しみ悶えて、Lが死んでしまうの?

全く、神も仏もありゃしない。

Lが一体、何をしたというのか?

 

あまりの惨たらしい有り様に、私は怯んだ。

でも目を背けてはダメだ。

Lの最期を、見届けてあげなければ。

 

Lは何度も大きく痙攣し、ああもうダメだと私はここで諦めてしまった。

Lちゃん。

死んじゃうんだね。

もう、お別れなんだね。

母ちゃんを置いて、逝っちゃうんだね。

そんな怖い顔…やめてよ…

 

 

安らかに、眠るように逝くものだと思っていたのに

Lは両目をカッと大きく見開いて、大きな口を開けていた。

呼吸が止まり、口から長く伸びた舌が、ダラリと力なく垂れ下がった。

 

Lちゃん!

 

 

院長はLに聴診器を当てて、苦しそうな声を絞り出すようにして

「心臓が、止まりました」

と言った。

そして

「蘇生を、させますか?」

と聞いた。

私は首を横に振った。

「もういいです。もう、Lを早く家に連れて帰りたい」

 

心臓が止まり、臨終を告げられた後もLの身体は時々大きく動いて

私はそれが心底恐ろしかった。

Lの体内に残っている薬品の成分によって、亡くなった後も少し身体が動くのだと

院長が言った。

 

「L君を助けてあげられず、申し訳ありません」

院長は、私に深々と頭を下げた。

私はもう何もかもが信じられない。

院長の辛そうな言い方も、嘘臭く聞こえた。

マニュアル通り、通り一遍だと思った。それでも

「最期に立ち合わせていただき、ありがとうございました」

とだけ言って頭を下げた。

 

それは、本心からの感謝の言葉であった。

もしもLの今際の際を見ていなかったら、私は取り乱し、何をしでかしたか解らない。

 

 

Lが死んだ

私の大切な大切な大切な

大切なLが死んだ

 

私はLを連れて、1秒でも早く此処から立ち去りたかったが

「L君をどうやって運びますか」と院長に聞かれ、途方に暮れた。

 

どうしよう…

 

退院の時、入れて帰るつもりだった、犬用のショルダーバッグ。

このバッグを斜めがけにして、自転車を漕いだ。

バスや、電車に乗る時にも使った。

これがお出かけ用なのを知っていたから、犬達はこのバッグを見たただけで大騒ぎになった。

Lは真っ先に飛んできて、ちゃっかりバッグの中にもぐり込んだ。

そして「母ちゃん、早く!早く行こうぜ!」と、私を急かすのだった。

 

死んでしまい、ダラリと伸びたLの身体が、これに入るだろうか…

 

院長がバッグの底にフリースの毛布を敷いて、Lの手足を上手い具合に収めてくれた。

その間に、会計の手続きをした。

明細も見ずに、カードで支払った。

早く、早く此処を出て行きたかった。

 

でも……

 

「死んだ犬をどうしたらいいのか解らない」と言うと、受付の女性がペット葬儀のパンフレットをくれた。

それを手提げバッグにぐしゃっと押し込み、Lの入っているバッグを斜めがけにした。

そんな私を見て、受付の女性が狼狽えた。

「箱も、ご用意出来ますが…」

「要りません。自転車だから運べないし」

「ええっ?自転車で帰るのですか?お車の手配をしましょうか?」

悲痛な顔をして女性がそう言ったが、私は大丈夫ですと辞退した。

それは、Lの安定を慮っての言葉だったかも知れない。

でも私には、もう何もかもが白々しくて胡散臭くて、猿芝居を見せられているような気持ちだった。

 

病院の出入り口で誰かが見送ってくれたが、振り返りもせず自転車を漕ぎ出した。

 

Lちゃん。家に帰れるよ。

少しだけ、我慢していてね。

 

私はふらふらとよろけながら、一生懸命にペダルを漕いだ。

慎重に走ろうと思うのに、Lの入ったバッグが振動で揺れた。

バッグの中で、Lはどんなになっているのだろう。

ごめんね。ごめんね。

痛くないよね?苦しくないよね?

だって、もう

だって、もう

しんで

 いるん だ

       もの

 

 

とてつもない喪失感に、打ちのめされていた。

もう、戻らない

どんなにどんなに、望んでも

Lはもう、戻らない

 

大切なものを失う前の時間に戻れたら、どんなにいいだろう。

過ぎ去った時間は、巻き戻せない。

Lがいた日々には、もう二度と戻れないのを知っていた。

 

L

可哀想なL

私のせいだ

私のせいだ

ごめんね

ごめんね

私のせいでLが

Lが

Lが

 

荒川の長い土手の上を、私はギャーギャー泣きながら走った。

暖かな陽射しが川面を照らして、眩しく光っていた。

Lと、花火を見た土手。

L、起きてよ。

起きないと、もう花火も見れなくなっちゃうよ?

遠くに散歩をしている犬が見えた。

ふと(Lも、バッグから出してあげたい)と思ったが、やめた。

(死んだ犬を抱いた女がふらふらと歩いていたら、気持ち悪いだろうな……)

 

Lは眠っているだけ。

家に帰ったら、目を覚ますかも知れない。

そんな事、起こるはずがない。

いろんな思いが頭の中をグルグルと駆け回っていた。

 

Lを飼い始めてまだ間もない頃。

夫が犬達をドッグランに連れて行った。

その日私はパートに出ていた。休憩の時に、夫からのメールを読んだ。

 

『Lが大型犬と衝突して倒れた。口から泡を吹いて、意識がない』

 

私は(バカじゃないの…)と、夫にもLにも呆れてしまった。

Lらしい死に方だなぁと思い、涙も出なかった。

寧ろ相手の大型犬に、ご迷惑をかけて申し訳ないと思った。

帰宅すると、Lはぴんぴんしていた。私は、それを見て拍子抜けした。

Lは病院に向かう車の中で意識を取り戻し、病院でもケロリとしていたらしい。

結局、ただの脳震盪だったが「倒れた時は、もうダメだと覚悟した」と、夫が言っていた。

 

不死身のLちゃん

今度もまた…

なんて無理だよね。

さっきまでの事が、悪い夢ならいいのだけれど…

 

現実を受け入れようとする私と拒絶する私が鬩ぎ合う中で、受け入れる私がハッと気付いた。

 

この土手のずっと先の方に、Mちゃんの家があるはず…

 

 

犬を飼い始めた10年前、私は犬ブログを書いていた。

犬とあちこちに出かけた事や、日常の出来事を面白おかしくふざけて綴った。

私の同僚と、田舎の友人家族が読者だったが、2011年の震災以降に更新を止めた。

被災して大変な時に、犬と遊び歩いている話は不愉快だろうと思ったからだ。

そのまま放置していたブログに、一昨年の12月、コメントが入っていた。

ペットショップでLと一緒の檻にいた、兄妹犬Mちゃんの飼い主さんからだった。

私のブログを偶然見つけ、兄妹犬に間違いないと確信し、ぜひ会いたいという内容であった。

 

そして、昨年の4月、LとMちゃんの再会が実現した。

誰かれ構わず咬みつくLが、Mちゃんを咬まないだろうかと心配したが、大丈夫だった。

Mちゃんの飼い主さんも「よその犬に匂いを嗅がれるといつも怒るのに、Lには怒らない」と、驚いていた。

LとMちゃんは顔立ちがよく似ていて、2匹が並ぶととても可愛らしかった。

その1度きりしか会っていないのだが、SNSでは繋がっている。

 

Lの死を知らせたら、Mちゃんの飼い主さんはショックを受けるだろう。

でも……

Lのように手遅れにならないように、小さなサインを見逃さないようにと、伝えておかなければならない。

 

 

家に帰るとすぐに、バッグからLを出してあげた。

身体はふにゃりと柔らかく、当たり前だけれども息をしていなかった。

号泣しながらLの身体を整えた。

見開いた目を閉じさせようとしても、瞼はほんの少ししか閉じなかった。

私とLのただならぬ雰囲気に怯えて、他の2匹が遠巻きにこちらを見ている。

私はそれに腹を立てて、泣きながら2匹を怒鳴りつけた。

 

Lちゃんが、死んじゃった。

Lちゃんが、死んじゃったんだよ。

解んないの?

Lちゃんがね、死んじゃったんだよ。

もう、動かないんだよ。

もう、散歩も出来なくて

もう、ごはんも食べられなくなっちゃったんだよ。

 

冷たくなったLの身体を、私は泣きながら撫でた。

いつか犬が死んだらどうしよう…

犬達がまだ元気なうちから、私はこの事に怯えていた。

それは、死んだ犬が怖くて、きっと耐えられないと思うからだった。

だけどLの亡骸は、ちっとも怖くなかった。

恐ろしいのは、Lがもう生き返らないという、絶望感だけだった。

 

興奮して暴れていた2匹の犬達は、いつの間にか静かになって、離れた場所から私とLを見ていた。

そして、先住犬が先頭に立って、少しずつ近付いてきた。

Lの身体の匂いを、先住犬が恐る恐る嗅いだ。

ほんの数秒、フンフンフンと匂いを嗅ぐと、先住犬は直ぐにLから離れた。

それに倣うように、捨て犬もLの匂いを嗅いで、速やかに離れていった。

そして2匹は何かを感じ取ったように、二度とLに近寄らなくなった。

 

 

私は昔、似たような事があったのを思い出していた。

小学校高学年の頃だ。

野良の仔猫に餌をあげたら、懐いて毎日来るようになった。

仔猫は私から餌を貰うと、商売をしている実家の店先で丸くなって休み、店を閉める頃どこかへ帰っていった。

やがて仔猫は、母猫や兄弟猫まで連れて来るようになった。

私は嬉しくて、店先で猫が寛いでいるのを眺めていた。

友達もいなくて野良猫と遊ぶ私を憂いて、母は何も言わなかった。

でも、食品を扱う店なのに野良猫がいるのを不快に思う客がいて、次第に「猫をどうにかしろ」と言うようになった。

仕方なく猫を追っ払ったが、暖かい場所と餌に味をしめた猫は、翌日にはまた戻って来るのだった。

そんなある日、私が店の前に立っていると、仔猫が向こう側の歩道を歩いていた。

仔猫も私に気が付き、目が合った。

次の瞬間、仔猫はこちらに向かって勢いよく走りだした。

そして、車道の真ん中で車にはねられ、仔猫の小さな身体はボーンと弧を描いてぽとりと落ちた。

茫然と立ち竦む私の後ろから、母が車道に走り出て、ぐったりとした仔猫を抱えて戻ってきた。

仔猫は即死で、口から血を滴していた。

いつもの愛らしい顔ではなく、化け猫のような恐ろしい顔に変わっていた。

怖かった。

母は、死んだ猫を新聞紙で包みながら

「おめさんが、猫を呼んだのすか?」

と聞いた。私は

「呼んでいない。けど、目が合ったの。そうしたら、こっちに向かって来た」

と、項垂れた。

呼んだのと同じだった。

店にいた母猫と兄弟猫が、死んだ仔猫に近寄って来て、フンフンフンと匂いを嗅いだ。

嗅ぎ終わると、母猫と兄弟猫が私をギロリとひと睨みした。

「お前のせいだ」と、その目が言っていた。

そして、寂しそうに何処かへ行ってしまい、猫達はその後、一匹も姿を見せなくなった。

 

 

動物はきっと、仲間の死が解るのだろう。

そして、その忌わしい死から、自ら離れようとするのだろう。

 

 

先住犬と捨て犬もそれっきり、Lの存在を無視していた。

2匹の興味はもう、Lの枕元に供えたどら焼きだけであった。

私だけがいつまでもいつまでもLの亡骸を抱いていたかった。このまま気が狂ってしまえばいいと思った。

私も、Lの所に 行きたい…

 

でも、Lがそれを望むはずがない。

「悲しんでいる飼い主の事を心配して、犬がもっと悲しむよ」

犬を亡くした友人達に私がかけた、その呪文のような言葉を

今は自分自身にかける番だった。

 

Lが大嫌いだったブラッシングも、抵抗ひとつしないから毛玉が全部取れて綺麗になった。

この身体を炎で焼いてしまうのかと思うと身震いがして、涙がいくらでも出た。

でも動物の亡骸は、48時間を超えると腐敗が始まるという。

焼いて骨にして、自然に還すしかない。

Lの身体はもう、魂のない抜け殻なのだから。

 

 

私はふた晩Lと添い寝をし、2016年1月24日(日) Lを動物霊園で見送った。

霊園には夥しい数の動物が眠っていて、供養に訪れる人が絶えなかった。

ロッカーのような棚に小さな骨壺と写真がずらりと並び、花やおやつが供えてあった。

人と暮らして、この場所で眠っているペット達は、きっと幸せな一生だった…

そう思えた。でもLは?

Lは、うちに来て、幸せだったのかな…

 

動物霊園にLを託した後、近くの店で蕎麦を食べた。

テラス席に犬と座り、いつものように娘は先住犬に、夫は捨て犬に自分の蕎麦を分け与えていた。

Lも蕎麦が大好きだったから、Lにも食べさせてあげたかった…

でも、それも叶わない。

 

食事の後、ドッグランに寄るのかと夫に聞くと「行く」と言う。

「いつもLが走り回るだけで、2匹はちっとも走らないのだから、行かなくてもいいのでは?」と娘が言っても、夫は「行く」と言う。

ドッグランでは、たくさんの犬種が楽しそうに走り回っていた。

飼い主と犬達の、眩しい笑顔で溢れていた。

Lはいつも縦横無尽に走り回って、ご機嫌かと思えばあちこちで喧嘩を始めるので、一時も目が離せなかった。

私は、Lの姿を探した。

Lはいない。

いる訳がない。

Lは、死んでしまったのだから。

Lはもう、燃やしてしまったのだから。

でも、Lの魂は今ここで、元気いっぱいに走り回っている。

いつものように、嬉しそうに、息せき切って走っている。

そんな気がした。

 

ドッグランに近い、この霊園を選んだのは夫だった。

そうだね。Lもここならきっと、寂しくないよね。

2匹を連れてまた来るから、Lも一緒に走ろうね。

夫は、ドッグランをぼんやりと眺めながら泣いていた。

娘も泣いていた。

私達は、犬がいなければ話す事もない、バラバラな家族だった。

家族とさえ呼べなかったかも知れない。

でも、Lが死んで悲しいのは私だけではなかったと、この時に初めて気が付いた。

Lが、犬達が、歪な私の家族を繋いでいてくれたのだ。

 

 

「こんなに悲しい思いをする位なら、あの時Lを買ってこなければよかった。

貴方がどうしてもと聞かないから、仕方なく連れて帰ったけれど。

もし、他所で飼われていたなら

うちみたいな多頭飼いでなく、兄妹犬のMちゃんのように大切に飼われていたならば

Lは、もっと長く生きられたはず」

私は夫を責めた。すると夫は

「あの時うちが飼わなかったら、あいつはきっと殺処分だった。

それを思えば、Lは長生き出来た。Lは、こういう運命だったんだ」

と言った。

 

そうかも知れない。

そして今更何を言っても、誰を責めてもLは帰ってこない。

 

 

Lや。

母ちゃんは、寂しくて

寂しくて寂しくて堪らないけど、我慢するよ。

 

そして私は、死ぬのが少しだけ怖くなくなった。

私があの世に行く時に、きっとLが迎えに来てくれるから。

大きなベロを出して、大きな耳をぴんと立てて

ちぎれんばかりに尻尾を振って

私に向かってまっしぐらに、走って来てくれるはずだから。

 

L、母ちゃんの事を忘れないで待っていてね。

必ず来てね。

約束だよ。

 

 

 

- END -

 

 

映画「あん」を観て来た母と私の物語

2015/09/28〜2015/10/03

 

「Sさんの息子さんが書いた本コ、おめさん読まねーすか?」

と、田舎の母が電話をかけてきた。

Sさんというのは母の古くからの友人で、関西地方に住んでいる。

Sさんは、ものを書く人でもあった。Sさんの短編集を、昔読んだ事がある。

”Sさんの息子さん”というのはやはり何かを書いている人で、母はこれまでにも何冊かの彼の著作をSさんから戴いたが、無学な母には難解なのであった。けれども

「今度の本コは、読みやすくていいお話だがえ」

と熱心に私に勧めてきた。

当時の私は、訳あって読書を楽しむ心の余裕が無かった。母の話も軽く聞き流していた。

本の題名は「あん」だと言うので私は、主人公がアンという名前の外国人なのだろうと勝手な解釈をした。

そして、ハンセン病を扱った内容と聞いて、差別や偏見について書かれたという事だけは解った。

更に母は、私の母校の中学校にまで出向き

「生徒さん達にぜひ読んで欲しいから、図書室に置いて下さい」と、頼んで来たと言う。

私は流石に「それは余計な事」と咎めた。

訳の解らない婆さんがいきなり職員室に現れて、そんな事をしたら先生方はさぞ迷惑だろうと思ったのだ。それでも応対した先生は、母に丁寧な礼を述べて本を受け取ってくれたらしいのだが。

 

それから2年が経ち、母がまた電話で言った。

「Sさんの息子さんの本コが今度、映画になるんだぁど。凄いがねぇ。観に行きてえがねぇ。」

母はもう、一人で映画を観に行く事など出来ない。私は今年の帰省を、地元での上映に合わせて計画を立てた。

ネットで上映スケジュールを調べると、田舎での上映は9月の後半から10月の初めまでと期間が短いのだった。

そして、タイトルはアンではなく餡この「あん」だった。

キャストも監督も豪華で、これなら大ヒットは間違いないだろう。

原作者はドリアン助川

 

えっ?

 

何十年も前から母に話しを聞かされていた”Sさんの息子さん”というのが、ドリアン助川氏だとこの時に初めて知った。

それでも私は、彼について殆ど知らない。

詩人なのかミュージシャンなのか?ラジオの深夜番組でブレイクした時に名前だけは覚えたけれども、その放送を聴いた事も無かった。母が

「自分には難しいけれど、おめさんなら読めるだろうから送ってあげる」

という本の数々も、本が溜まるのが嫌だからいらないと言って断ってきた。だから今までどのような作品を書いていたのかも知らない。

 

私は高校生の時に一度だけ、母と映画を観に行った事がある。

母がどうしても観たいというので付き合った。当時は映画館が街なかの、家から歩いてすぐの場所にあったのに今はもう無くなってしまった。

何年か前に出来た、少し遠くにあるショッピングセンターの中に劇場が入っているらしいが、行った事の無い母に何を聞いても埒があかない。

私は劇場に直接電話をして、上演時間や、席の確保などについて調べた。

もし「あん」を観る事が出来なかったら、帰省の意味が無くなるからだ。

往復の新幹線の時間と乗り継ぎの時間、映画の時間と駅までの移動時間…

足が弱って満足に歩けない母親。

母が家を空けるのを許さない、傲慢な父親。

ホテルのチェックアウトの時間。友人との待ち合わせの時間…

スケジュールを立てるのが本当に苦手で上手くいった試しがない私。

それでも兎に角母を映画館に連れて行かなければ。それは、私のミッションであった。

ああ、面倒臭いと愚痴をこぼすと、友人達が口々に

「そんな事を言わないで連れて行ってあげて。親孝行だと思って。」

と言った。友人達の親はもう亡くなっていたり、認知症だったりするので

「出来る事ならば私も、母と映画を観に行きたいよ。」

と言われれば、友人に申し訳なくて返す言葉も無い。

何が何でも、母を映画館に連れて行くのだ。

母と私にとっても「あん」がふたりで一緒に観に行く、最後の映画となるかも知れないのだから。

 

 

岩手への帰省は、シルバーウィークと重なり交通と宿泊の手配に難儀したが何とか目処がついた。

だが、出発の二日前になって母が慌てたように電話をしてきた。

Sさんからの手紙に、岩手で一緒に「あん」を観たいと書いてあったらしい。

そして、母は「Sさんと一緒に観るから、おめさんは誰かと観てきて頂戴」と言うのであった。

誰かと観てと今更言われても、東京ではもう殆どの劇場での上映が終わってしまった。

それに、岩手で観る「あん」に合わせてスケジュールを調整したのに…

「あん」を観ないのであれば、帰省を先延ばしにしたかった。もう少ししたら東北の紅葉も見頃になるのだ。

けれども中学時代の友人達と夜遊びをする約束をしていたし、やっと予約が取れた宿や新幹線をキャンセルするのも面倒だった。

それに、私と観るよりもSさんと観に行った方が良いに決まっている。

Sさんは母よりも若いとはいえ高齢で、長旅をする元気があるうちにもう一度、三陸の海を見に行きたいと願っているのだ。

青春時代を過ごした地で、息子が原作者である映画を旧友と一緒に観る…

こんな誇らしい幸せが、他にあるのだろうか。実現したらその思い出は、Sさんと母にとって一生の宝物になるのだろう。

だから私は、映画はひとりで観ると母に言った。

空いた1日は三陸鉄道に乗って、のんびりと海岸線を眺めながら久慈まで行こうか?

それとも、修学旅行で行くはずだった平泉にでも行ってみようかしら?

JRの人が勧めてくれた三連休パスという切符を買っていたので、上手く使えば東北のどこにでも行けるのだった。

「行くぜ東北♪」と自分を励ましながら、体調を整える。

帰省するという、他の人にとっては何でもない事が私には苦行である。

結婚するまでは人並みに、盆と正月に帰省した。その度に「こんな家には二度と帰らない」と泣きながら東京に戻ってきた。

子育てと仕事が忙しいと誤魔化して十数年、帰省しない年が続いた。

帰らなければ帰らないで済んでいた。田舎の友人達とはすっかり疎遠になったままだし、母とは電話で話せばいい。

このまま一生、田舎になんか帰らなくてもいい。

 

そう思っていたところに、あの大震災が起きた。

津波に襲われる故郷の町を、私はTVにかじり付いて観ていた。

自転車で毎日通った通学路も、叔父や叔母の家も津波は破壊した。大好きだった祖母の家も浸水した。

有り得ない場所まで流されてきた漁船と車と建造物。

津波に呑み込まれた大勢の犠牲者…

当時不安定だった私の精神は、その現実を受け入れられずに崩壊するのかと思われたがそうではなかった。

1日1日を噛みしめるように生きているうちに、以前よりも強くいられる自分がいた。

そして、捨てていたと思い込んでいた故郷は、捨てようとしても捨てられないものだという事に気付いたのだった。

震災の年から私は、年に一度は帰ろうと決めて帰省している。

そして、もう先が長くない筈の親との確執も、お互いが生きているうちに何とかしようと試みたが、失敗続きだった。

今はもう、どうでも良くなっている。

復興は遅すぎるけれども少しずつ、ゆっくりと変わっていく故郷の風景。あのように変わってはくれないのだ。私の家は。

 

 

80過ぎの母はずっとこの地に住んでいるから、沢山の友人知人がいる。その中で、Sさんは私が物心ついてからずっと聞かされていた名前だ。

Sさんは関西に住むお金持ちの奥様で、とても優雅に良い暮らしをしている。そんなイメージを私は抱いていた。それに引き替えうちの母は、東北の片田舎で働き詰めに働いて、苦労が服を着ているようなものであった。

そんな二人がどうして友人でいられるのか、とても不思議だった。

母から聞いた話では、母は、高等女学校を中退していた。

祖母は養豚と肉屋で生計を立てていた。豚の餌にする残飯を貰うため、母と祖母はリヤカーを曳いて町中の家々を歩いて回った。

それを女学校の友達に見られるのが何よりも嫌だったという昔話を、何十回も聞かされていた。

だからSさんは女学校時代の友人、という訳ではなさそうなのだ。

Sさんにとっては、母は大勢いる友達の中のひとりであったのかも知れない。でも母はSさんの事を唯一無二の親友だと思っていた。

母の心の奥深い悩み苦しみも全て、Sさんにだけは打ち明けていたと思う。

Sさんから手紙が届くと母はとても嬉しそうにして、時折その内容を私に話した。

それは、私達の暮らしからは想像も出来ない、夢のような都会のお話だった。

「Sさんはいいがねぇ。お金持ちで。幸せな暮らしでいいがねぇ。」

と、母はいつも嬉しそうであった。

ところがある日、Sさんからの手紙を読んだ母がわなわなとしていた。

何かの行き違いがあって書かれた手紙の内容に怒っているのだった。

「これを読んでみて」と渡された手紙に私は、母と一緒になって怒った。

そして母に同情した。その内容が母を、そして田舎をも侮辱されたと感じたからだった。

「こんな酷い事を書く人とはもう、文通も止めてしまえばいいよ。」

私がまだ10代の頃だっただろうか。そんな風に激しく母に言ったのだと思う。

田舎者で貧乏臭い母ではあるが、その頃は母の商売も順調で、そのお陰で私達は人並み以上の暮らしが出来ていた。お金持ちの奥様だか何だか知らないが、見下されてまで付き合う事はないのだ。

それ以来何年も文通が途絶えていたらしいが、いつからか母がまたSさんの話をするようになった。

Sさんとは絶交したのでは無かったのかと聞くと、いつまでも拘っていても仕方ないからと、どちらからともなく復活したのだそうだ。

私も大人になって、よくよく考えてみれば本当に誰が悪いのでもない。ボタンの掛け違いのような話だった。

お金絡みの事であったから、母がキチンと証明出来る控えを取っておかなかったのがいけなかったのだ。

兎に角、旧い友情が復活したのは喜ばしい事であった。

 

その後Sさんは阪神・淡路大震災で被災した。母は、距離が遠すぎて駆けつける事も出来ないと心痛していた。

その16年後に、東日本大震災が起きた。

Sさんは自宅と、若い頃の思い出の故郷の両方が被災するという数奇な運命に見舞われたのだった。

 

盛岡に着いた私は、乗り換えの時間まで駅付近をぶらつく事にした。

宮沢賢治がモーリオと呼んだ、盛岡の街並みが大好きなのである。

地方都市はどこに行っても同じような景色だけれども、盛岡だけは特別だと思う。私にはいつでもキラキラと輝いて見えるのだ。

 

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本当は、中津川沿いを歩きながら野の花等の写真を撮りたかったけれど、列車に乗り遅れそうになり慌てた。

列車と言っても、たった2両ぽっちの小さなものである。

いつもは1時間おきに運行する急行バスで帰省した。けれども今回はJRの乗り放題切符だから使わなければ勿体無い。

無事に列車に乗り、座席に座って一安心する。盛岡の街並みの風景が、あっという間に山林の中に変わった。

到着までスマホでネットでもしようと思ったら、電波が届かなくなった。

列車は山々の隙間を縫うように走り、20以上のトンネルをくぐるのだから当然であった。

9月だというのに真夏のような強い陽射しが眩しくて、外も眺めていられない。

列車はカーブの度に大きく揺れた。しっかり押さえていないと私のキャリーバッグが転がってゆく。

何故だかひっきりなしに警笛を鳴らすので、その甲高い音にびっくりした。うたた寝する事も出来なかった。

やっぱり、バスにすればよかったな…

帰省中の予定は立てたものの、友人と会う事と宿泊先以外はどうなるかわからない、成り行き任せのこの旅をどうしよう。

そんな事を考えながら、私は到着までぼんやりと過ごした。

 

16時頃に、生まれ育った町の駅に着いた。

駅舎とその周辺は、去年見た時とは何かが変わっているのだけれど、それが何なのか解らない。

震災の後に多くの店が建て替えをし、新しい施設も増えた。

昔の面影がまるでない駅前に立ち、私は見知らぬ土地に来たような気持ちだった。

友人との待ち合わせ時刻は18時。実家に立ち寄ってからホテルにチェックインしても、十分間に合うだろう。

私は、キャリーバッグをゴロゴロと引き摺りながら実家に向かった。

母には「帰って来るのは今日だけれど、家に行くのは明日の朝」と伝えてあった。更に

「実家には寝泊まりしないから、部屋の掃除をしなくていい。ご飯の準備も一切いらない。」

と言って、母を嘆かせたのはいつもの事だ。

 

家に入ると、母は驚いた顔で私に聞いた。

「なにで来たや?」

「キシャで来た。」

キシャというのは多分方言である。キシャと言わずに電車だとか列車とか言うと

「キシャの事だーべ?なーに気取ってんのや」と、学校では何故か苛められた。

「何時に着いたのや?」

「4時ちょっと前かな。」

「おめさんが来る頃だと思って3時と4時の2回、駅前のバス停まで行ってみたどもいなかったーがな。」

「バスじゃなく、キシャだからね。バスで帰るなんて、私一言も言っていないよね?」

私も駅に着いた時に、辺りを見回したが母はいなかった。迎えに来なくていいからと、何回念を押しても来る母なのだ。

だから何時に着くと言わないでおいたのに、それでも駅前をウロウロしていたとは…

私は帰省すると必ず食べるケーキを買いに、駅前の洋菓子店に入ってしまった。そのせいですれ違い、私と母は出会わなかったのだろう。

ケーキはお気に入りの2種類を1個づつ買っていた。母に「食べる?」と聞くと、後で食べると言うのでそれぞれを半分づつに切り、私は急いでそのケーキを食べた。

「これからJとKと、飲みに行くからね。明日の朝にまた来るから。」

「飲みにって、お酒を飲むのか?」

「そりゃ1杯くらいはね。」

「どこの店で飲むのや?」

「言っても解んないでしょ?」

「解んないけど、教えてよ。ついて行かないから。」

「ついて来そうだわ。」

「着替えは?何着て行くのや?」

「このままだよ。」

「化粧は?しないのか?」

「…もうしてるよ。」

「おらぁまぁ…髪ぐらい梳かしてったら?」

「歩いたらどうせまたボサボサになるよ。」

「あんまり飲み過ぎるな。」

「1杯だけって言ったでしょ。」

「今夜どこさ泊まんのや?」

「教えねぇが!」

 

JとKは、中学時代の友人であった。クラスも部活も違っていたが、3人でリレー小説を書いていた仲だ。

その小説は同級生達に人気があって、皆がノートを順番に借りて読んでいた。私達は何冊ものノートに、3人ともまだ経験した事のない恋愛物語を書き連ねた。

あのノートの山は、一体何処にいってしまったのか?

そう思うと皆で総毛立ってしまうのだった。

私はJとKに、母が2回も駅まで迎えに来た事から、家でのやりとりまでを全て話した。

ふたりは母を知っているので、ゲラゲラと大笑いした。そして

「お母さんは、タンポポが帰って来るのをよっぽど楽しみにしていたんだよ。もっと優しくしてあげなきゃダメじゃない。」と、私を責めた。

やれやれ。夫と娘と犬の足枷を外してやっと来たというのに、こちらには母がいる。

大体、家にいた頃には私がどこで何をしていようが全く気にも留めていなかったくせに。

私はビールを1杯だけ飲んだ。それで十分酔っ払うのだ。

私に気兼ねしないで、沢山飲んで頂戴と言ったのだが、ふたりとも去年よりお酒が進まなかった。

年老いた親の話、自分達の健康の話、老後だの介護だのとしんみりする話が続き、誰もが涙を堪えるのが大変だったからだ。

別れ際に「お母さんのお相手、ちゃんとしなさいよ!」と口々に言われた。

「解った解った。」と答え、私はひとりホテルの部屋に戻った。

 

ビジネスホテルの簡素な部屋にひとりでいると、そこは静か過ぎるほど静かで快適であった。ここならば今夜は眠れそうな気がした。

去年と一昨年は、海の近くのホテルに泊まった。真夜中に身体が痛み、鎮痛剤も睡眠薬も効かなかったので、夜が明けるまで波の音を聴いていた。

どうしてホテルに?お金の無駄遣いだ。実家に泊まればいいのに。

誰もがそう言い、その度に適当に答えた。きっと解って貰えないから。

私は真夜中に具合が悪くなる事が時々ある。決まって2時頃に。それを母には見られたくない。

高校を卒業するまで、私は何時でも母に纏わりついていた。

母は仕事で疲れ果てており、子育てはおざなりであった。私達は親の愛情にいつも飢えていたと思う。

けれども今頃になって、子供のように扱われても戸惑うばかりだ。

母にとって、私は今でも18歳の私なのだろう。

高校3年の頃、私は父親と衝突ばかりしていた。あのまま実家にいたら、私は何をしでかしたか解らなかった。

卒業したら家を出ようと決めた時、母は私を引き留めるだろうと思った。

でも、違っていた。

「遠くで自由に生きなさい。おめさんだけでも自由に…」

母は私に、そう言ったのだった。

 

翌朝チェックアウトをして、再びキャリーバッグをゴロゴロと引き摺って実家に向かった。

母は今か今かという風に、玄関の側に座って私を待っていた。

 

「ところでSさんからは、連絡があったの?いつ岩手さ来んだって?」

「それがー解らないのす。いーづ来んだーがー」

「はーーー?」

私は軽く目眩がした。

母は、Sさんから届いた絵葉書や手紙を私に見せた。

お便りにはSさんの体調があまり良くない様子が綴られていた。そして、その中には

「映画を観てくれた?」

という一文もあった。

 

もしかすると…

母が待っていてもSさんは、岩手に来られないのではないだろうか?

 

10月上旬には「あん」の上映が終わってしまう。

例え体調がもう回復していたとしても、関西から岩手の沿岸までは相当な距離なのである。

母はどうして、Sさんが自分と一緒に岩手で映画を観たがっていると思ったのだろう?

それは母の、若しくはふたりの願望、夢物語だったのかも知れない。そしてその願いは、今日明日には実現出来そうにない。

私は母に

「Sさんが来るのを待っていないで、観に行った方がいいんじゃないの?上映期間が終わっちゃったら、もう観られないんだよ?

Sさんが元気になって、こっちでの上映に間に合うように来られたなら、2回目を観ればいいのだし」

と言ったが、母は黙っていた。

「今日は伯母さんの家を回ってお線香をあげて、明日盛岡で映画を観ようか?お母さんも久し振りに盛岡に行きたいでしょう?」

盛岡の劇場でひとりで「あん」を観るつもりだった私は、母も日帰りで観ることが出来る上映時間なのを知っていた。

それに、盛岡に行けば姉と弟にも会えるのだ。

先刻父が私に、弟はどうしているかと聞いてきた。私は、会っていないから知らないと言って首を横に振った。

「お父さんは弟を気にかけていたよ。お母さんを盛岡に連れて行ってもいいか聞いてみようか?映画の事は内緒にして、弟の所に行くって言えば許すかもよ?」

「おめさんが聞けば、いいって言うごった。おめさんから聞いでけで」

私は、『母と盛岡の弟の所に行って来るからね』と紙に書いて父に見せた。

父は薬の副作用で数年前から聴力が弱いのだった。

父は少し動揺しながらも、ご飯の支度がしてあれば良いと言った。

良かった。早く準備しよう。我儘な父の好きそうなものを買いに行こう。父の気が変わらないうちに。

でも母は動かなかった。そして

「盛岡さば、行がねぇ。」と言った。

「どうして?せっかくお父さんがいいって言っているのに…」

「今はいいって言ってだって、帰って来ればどうせ、よめぇこど(世迷言)を聞かされんの」

「そんなもの、聞き流せばいいじゃないの」

「おめさんの言う通り、Sさんは来れぇねぇかも知れないなぁ。映画はこっちでおめさんど観っかなぁ。」

 

どうして?と何度聞いても母は「盛岡さば、行がねぇ」「行きてぇども、行げぇねぇ」と繰り返して、項垂れるだけだった。

 

 

母と私は、親戚の家を訪ね歩いた。

お彼岸だというのに、夏のような暑さであった。それでも赤トンボが飛び、道端には黄花秋桜や水引の花が揺れていた。

震災の年も、こうして母と並んで町を歩いたっけ。その時母は、臭くないかとしきりに聞いてきた。私は何ともないと答えた。

津波の水が引いて、瓦礫と汚泥を片付けた後も長い間悪臭が漂っていたのだと言う。

臭いとは感じなかったけれど、町中の道路の隅っこに硝子の破片がたくさん落ちていた。

私は自転車で町を見て回りたかったのだけれど、すぐパンクするからと母に止められたのだった。

実際に一台ある実家の自転車は、パンクしたままで放置されていた。

翌年には修理され、私はそれに乗って川と海の方まで行ってみたが、その自転車はフレームが歪んで錆びだらけな上、ブレーキがきかなかった。

今年も私がそれに乗って町を走り回るのだろうと、あのオンボロをわざわざ修理に出してあったのだが、今年は乗らなかった。

「お母さんのお相手、ちゃんとしなさいよ!」

という友人達の声が、耳に残っていた。

昔、そこにあったものは何もかもがもう無い。懐かしくもないただの町を、母と思い出話をしながら歩いた。

母の話は今と昔が混在して、それはいつの話?と聞かなければ訳が解らなくなった。

私自身もいろいろな事を、もう忘れてしまっている。

「モノやお金はあの世に持っていけないけれど、思い出は持っていける。思い出だけが宝物なのだ」と

夫の亡き祖母の言葉を、成る程その通りだなあと胸に抱いて生きてきたけれど。

その思い出さえ忘れてしまったら、本当に何にも無くなってしまう。

母と歩く道筋には楽しかった思い出など何もない。私はこの町にいた時、いつもいつも泣いてばかりいたような気さえするのだ。

私達は母の実家に向かった。母の弟である叔父もとうに亡くなり、私はその葬儀にも来なかった事が長年の後悔になっていた。

お線香をあげに行きたいと叔母に言い、お仏壇のある祖母の家に母と叔母と3人で行く事になった。

私が父と喧嘩をした時にいつも避難していたのが、この祖母の家だった。祖母は30年ほど前に亡くなり、この家に入るのは祖母の葬儀以来であった。

玄関の引き戸を開けると、当時新築して間もなかった家は古く汚れていて、時の経過を思わざるを得ない。

玄関からすぐの階段を上がった2階にお仏壇があるのだが、私は玄関の土間から動けなくなった。

叔母が「どうした?入って入って」と促した。

壁に取り付けてある下駄箱の蓋の、腕を高く伸ばした辺りに黒いマジックで線が引いてあった。そして、3.11と殴り書きがされていた。

「ああ、それね。そごまで水が来たって印を付けどいだーのす。」

ひゃー

母と私は悲鳴をあげた。私の実家は川の側であるのに奇跡的に水が来なかったのだった。

2階に上がると、そこは昔と何ひとつ変わっていない。違うのは定位置に祖母がいないというだけだった。

私は泣きたい気持ちを堪えてお仏壇の前に座った。

仏前には祖母と、叔父の写真が飾ってあった。叔父は、私の思い出の叔父よりも痩せた写真だった。

可愛がって貰ったのに、お葬式にも来ないでごめんなさい。

おばあさんも、ずっとずっと来なくてごめんなさい。

そう祈りたかったのに何も言えず、ただただ手を合わせるだけであった。

それでもお線香をあげる事が出来て、心の痞えがひとつ取れたからほっとした。

 

町はちょうど復興祭りで、これから踊りのパレードが見られるというので私達も見に行く事にした。

通りには人が溢れ、踊り子達が来るのを皆が待っていた。

誰かの「こんなに人がいるのを、初めてみた」と驚く声が聞こえた。

私は(えっ?たったこれだけの人で?)と思った。その時に、町並みは変わったけれども、私も随分と変わってしまったのだと感じた。

「盛岡さんさ踊り」と「仙台すずめ踊り」が賑やかに踊りながら通りを抜けていった。

「仙台すずめ踊り」というのを初めて見たが、本当に雀がチュンチュンと跳ねているような明るい踊りだった。母も手拍子を打ちながら喜んで眺めていた。

今でもこうして被災地に来て、元気付けてくれるのが本当に有難いなと思った。

東北から離れた所ではもう、震災があった事などすっかり忘れ去られているのに。

まだこれから「山形花笠踊り」が通るはずなのに、母はもう家に帰ると言いだした。

何かを楽しんでいる時でも常に、父の影に怯えている母だった。

母は若い頃から踊りが大好きで、本当は習いにも行きたかったのだ。でも父は「踊りなんか」と、母や踊る人達の事まで馬鹿にしていた。

夏になると近所の公園から盆踊りの曲が流れてくる。すると、もう行きたくて仕方がない母は

タンポポ行ぐべ、踊りっコさ行ぐべ」と私を誘った。

私は、行けば必ず後で父と母が喧嘩をするのが解っていたから、行きたくなかった。

そう言って断ると母はとても悲しそうな顔をした。そして

「後で喧嘩になってもいいから。行ぐべ」

と言うのだった。

 

 

 

もしも時空が歪んで、あの日いつものように祖母の家へと向かっていたなら…

私も津波にのまれたひとりになっていただろう。

それでも良かった。

私の分、もっと生きたかった人がひとり、助かれば良かったのに…

 

 

復興祭の踊りを見る前に、私は父に電話をかけていた。

「帰りが少し遅くなるけれど、お昼ご飯を待っててくれる?」

難聴だから、何度も大声で繰り返し話さなければならない。それでも何とか伝わったようで

「適当に食べるからいい」との返事だった。

けれども、家に帰ると父は不機嫌な顔をしていた。食べるものが食パンしか無かったという理由だった。

一度機嫌が悪くなると、次々とつまらない事に文句を言い出し、仕舞いには理不尽に激昂するというのがお決まりのコースなのである。

私の帰省にも文句を言い出すのだろう。母を連れ歩き、そのせいで自分が不自由をしたと怒り出すに違いない。

そうなる前に私は母を外に連れ出してタクシーを呼んだ。そして映画館が入っているショッピングセンターへと向かった。

何が何でも母を、映画館に連れて行くのだ。

そのショッピングセンターに入るのは、初めてだった。

先に「あん」のチケットを買ってから、開演時間まで店内を見て回る事にした。

アイスクリームが食べたいというので、母を休憩できる場所に座らせた。

私は何か飲みたいなと思っていたら、ソフトクリームが乗ったソーダフロートがあった。

「お母さんがアイスを食べて。私がソーダを飲むから」と言うと、母は少し嬉しそうに

「そうすっぺ」と言った。

 

ふわふわと真っ白なソフトクリーム。澄んだ緑のソーダ水。

クリームソーダなんて、久し振りだ。

盛岡のデパートや、花巻の温泉地など、特別なお出かけの時にはいつも飲んだクリームソーダ

ワクワクする気持ちを隠しながら、小公女のようにおすまししてストローを挿したのに何故か泡が吹き出して、そこいら中を泡だらけにした。

それも一度や二度ではなかったけれど、旅先での母は叱らなかった。

そうっとストローを挿した。ソーダが白濁し、みるみる溢れそうになったけれど溢れなかった。

「あぁ、美味しいね。」

「うんめぇがな。」

母がスプーンでソフトクリームを掬って食べる様が、まるで子供のように見えた。

私が子供の頃のお出かけは、いつも祖母と母と一緒だった。

出かけられない娘と孫を不憫がって、祖母が連れ出してくれたからだ。

旅先で私達は、子供らしく伸び伸びと過ごした。小さくてさえない田舎の遊園地であっても、私達にとっては楽しい夢の国であった。

そして遊び歩いた代償として、帰宅した後に父が母を恫喝するのを見て泣くのだった。

 

大人になり、私だけ何もせずに田舎から遠く離れている間、姉と弟は母を救う努力をしていた。

けれども、その努力は全てが無駄になった。そして今でもこうして啀み合いながら、父と母は共に暮らしている。

 

思った以上に小さなスクリーンの劇場であった。

私がよく行く劇場とは、何もかもが違い過ぎていた。

こんな小さな劇場しか、ここにはないのか…

 

映画「あん」は、静かに始まった。

 

私が来て昨日今日と歩き疲れた母が、途中で寝てしまわないかと心配になるほど

静かに淡々と物語は続いた。

「あん」の内容は、書かないでおこうと思う。

だがひとつだけ。鳥籠の小鳥がカナリアなのが私には少し違和感があった。

けれども小鳥はどうしてもカナリアでなければならなかった。

この映画はもう一度、東京に戻ってから反芻するように観たい。

 

映画が終わる頃、母がしきりに時間を気にしだした。

「最後まで観ても、キシャには十分に間に合うから」

と、私は小声で言ったけれどもあれは私の時間ではなく、父の事が気になっていたのかも知れない。

 

エンドロールの「原作 ドリアン助川

 

ゆっくりとゆっくりと上っていくその名前を、母は感慨深そうに見つめていた。

「息子さんが成功して、立派になって、Sさんは嬉しいべなぁ。良かったぁなSさんは。」

「そりゃあもう嬉しいだろうねぇ。親として、これ以上の幸せはないよねぇ。」

私達は、映画の感想をあれこれと話し合ったりはしなかった。

私は、母に「あん」を観せる事が出来た。ただそれだけがほっとした。

 

母は多分「籠の中の鳥コは、おれだぁな」と思っていた筈だ。

けれども周りの人がいくら「外に出なさい」と諭しても

子供達が鳥籠の蓋を開けてあげても、飛んで行かなかったのは母なのだ。

頑なに鳥籠の隅に居座り続け、逃げ出さなかったのは母自身なのだ。

それを私はもう、母に言うつもりはない。

母には母の生きる意味があって、私も自分のそれを探すだけの事だ。

そして、生きなければならないのではなく、私達は何かに生かされている。

こんなゴミのような人生にも、きっと何かの意味がある。

そう思って生きていく。

 

母は、ここ数年「私は幸せ」と言う。

それを聞く度に私の精神の均衡が崩れていく。

「母は可哀想」という意識が、ずっと私の根底にあったからだ。

母は可哀想だから母を喜ばせたい。

母は可哀想だからこれ以上悲しませてはいけないと。

それは私だけではない、姉と弟にも暗黙のルールであった。

母は、本当に幸せなのかも知れない。でも解らない。

幸せな人生かどうかは、今際の際の母だけが知る事だから。

 

私と母はタクシーに乗った。

「ひとり⚪︎⚪︎町で降ろして、それから駅までお願いします。」

「わかりました。駅は、バスの方さ?それともキシャの方さ?」

「キシャの方で。」

やっぱりキシャは、こっちの方言なんだな…

そう思って私は、可笑しくなった。

 

 

-END-

 

信仰

信仰がない私は、何に祈ればいいのだろうか。

どんな神様だって、私など助けてくれないと思う。

信仰があれば

信じる神がいれば

きっと、今ほど苦しくはなかっただろう。
 
幼い頃、姉とふたりで初詣に行った。

私達は押し黙って足元を見ながら歩いた。慣れない草履で砂利道が歩きにくいのもあるが、私達の心は沈んでいた。

神社の鳥居の前で、私は姉にこう言った。

「私、もう神様に願い事なんかしないんだ。だって、願いが叶った事なんか一度もないもの」

姉は少し驚いたような顔をした。そして小さな声で

「私も」と言った。
 
すると側にいたおばさんが、いきなり声を張り上げた。

「アンタ達なんて事言うの!神様をそんなふうに言うなんて、このバチ当たりが!」

私達はその剣幕に驚いて顔を見上げたが、全然知らない人だった。

「どこの子供だろう?こんな立派な着物を着せてもらって、お参りに来ているっていうのに…」

と、心底呆れたように私達を眺め回した。
 
私は見ず知らずの人に叱られて、きまりが悪かったが

ふん、と知らんぷりをしていた。

その態度にますます呆れかえって、おばさんはブツブツ言いながらどこかに行ってしまった。

 

 

何も知らないくせに

アンタなんか、何も知らないくせに


 
 
あれから何十年も経った。

姉も、あの日の事を覚えているという。

子供の頃の私はいつも「お父さんとお母さんが、ケンカをしませんように」と

祈っていたのだった。

姉も、同じだと言う。

夫婦喧嘩というレベルではない父の暴力が、日常的にあった。

母が寝るのも惜しんで、働き詰めに働いて

私達にお揃いの、ウールの着物を誂えてくれた。

それが無駄遣いだと言って、大晦日の夜も家の中は荒れていたのだった。
 

神仏に祈る時、私は今でも心のどこかで

私の願いはどうせ、聞き入れられないと思ってしまう。

なので、自分以外の無事を願う。

 

私の事はどうでもいいので、どうかお願いしますと。

犬と虫のこと

玄関に留まりし虫も亡き犬の 輪廻と思う飼い主悲し

 

この歌を詠んだのは昨年の7月。はてな題詠「短歌の目」7月のお題「虫」の時でした。

昨年初夏に知人のYさんが飼い犬を亡くした、その直後のエピソードから詠んだものでした。

 

Yさんとはドッグスポーツを介して知り合いました。

我が家と同じ犬種のパピヨンで3頭飼いなのも同じという事で、向こうから話しかけてくれたのです。

うちはドッグスポーツを始めたばかりの新参者、Yさんの犬は競技の女王的存在でした。

でも、その後私が精神的不調をきたし犬関係の行事参加が出来なくなったのと、Yさんの引っ越しもあり、お会いする事はなくなりました。

あまり更新のないお互いのブログで、時々コメントを交わす程度の間柄でした。

 

我が家のぞんざいな犬の飼い方に対して、知り合ったパピヨンの飼い主さん達は皆、犬を宝のように大事に育てている感がありましたが、Y夫妻もそうでした。

Yさんの一番上の犬には持病があって、その健康管理を一所懸命されていました。その甲斐あって、犬としては長寿の16歳を過ぎても3頭飼いの楽しい日々を過ごしていたのです。

ところが、持病がなくて元気だった犬がある日突然具合を悪くし、病院で治療を受けている最中に亡くなりました。

原因不明の急死に、Y夫妻は深く悲しみます。

コメント欄は閉じられ、住所も知らないのでお悔やみも出来ませんでした。

 

犬が亡くなった数日後、Y夫妻は自宅の庭で3度、同じ蝶を目にします。

ふたりの側まで飛んで来たり、家の中に入りたそうにして玄関にじっと留まっている蝶を、Y夫妻は死んだ犬が帰ってきたと信じるのでした。

その蝶が今までに見た事もない蝶で、特徴のある模様なのが印象的だったようです。

私は、生き物が死ぬと何かに魂が移り替わって会いたい人の元へ行くというのは、ファンタジーだと思ったのです。

だから、Y夫妻がその蝶を犬だと信じているのは、辛いものがありました。

お題の「虫」と聞いてスラスラっと、あの歌は浮かびました。

Yさんに、そして亡くなった犬K君に捧げたいと思いましたがコメント欄は閉じられたままなので、未だに叶いません。

 

 

Lが突然死んで、お葬式をして、辛いとか悲しいとかを通り越してやり所のない気持ちを私は毎日ブログに綴りました。

誰かに読んでもらいたいというのではなく、やりきれない淋しさを吐き出さずにいられなかったのです。

犬を飼って10年間、楽しい事がたくさんあったはずなのに、それを全て掻き消してしまったLの死。

初めのうちは大泣きしながら、終わりの頃には少しは冷静に、毎日毎日パソコンに向かっていました。

Lの事ならいくらでも書き続けられそうでしたが、気が済んでもう止めようと思ったある日の事です。

 

キーボードの前を、とても小さなアリが歩いていました。

私は虫が大嫌いなので「わぁ嫌だ」と払いのけて殺してしまいました。

でも、その後すぐにハッとしたのです。

 

どうして?どうしてアリなんかが入ってきたのだろう?

まだ真冬で窓も閉め切ったままだし、これまで家にアリがいた事もないし…

 

もしかしたら、Lだったのかも…

 

うちにはパソコンが6つもあって、私が使うのはいつも決まっていました。朝起きるとお昼までそのパソコンの前に座りっぱなしになるのを、Lは知っているのです。

そう思うとアリは、本当にLだったような気がしてなりませんでした。

どうしよう。私はまたLを死なせてしまった。

 

蝶を見て、愛犬が来たと泣き叫んだYさんの気持ちと、その時の私は同じだったと思います。

 

アリの話を娘と夫に話すと「とうとう頭がおかしくなったか」と、ふたりから言われました。

確かにね。でもね?と続けても「はいはい。Lだね。Lが来たんだね~」と、相手にはしてもらえないのでした。

 

それからまたひと月ほど経って、犬2匹を連れて車で遠出しようとした時の事です。

出発してすぐに、後部座席にいた私は小さな黒いクモを見つけ大騒ぎをしました。娘も嫌がって「早く!早く殺して!」と騒ぎます。

犬がもし見つけてしまったらそれこそ車内で大暴れするので、急いで始末しなければなりません。

でも、いくら小さくてもクモは怖くてティッシュを丸めて仕留めようとしましたが失敗でした。

死んだかどうか解らないまま、まだ車のどこかにいるのです。

そこでまた、ハッと気が付きました。

「Lちゃんだよ!自分も一緒に連れて行って欲しくて、クモになっちゃったんだきっと。」

 

夫も「そうかもな。せめて、窓から外に出してあげたらよかったのに」と言い

娘には「あーあLちゃん可哀そうに。母ちゃんに2度も潰されて」と責められました。

 

Lが死んで2か月過ぎても、Lロスの私です。

Lがいない今年のお花見は辛かった…

 

4年前のL。目黒川で 

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パピヨン(Papillon)は、耳が蝶の羽を広げている形に見えることから由来しています。 

ちなみにYさんが犬だと思っていた蝶は、調べてみたら蝶ではなく「ホタルガ」という蛾だったそうです。

画像を見たら、うわーこりゃ無理だと思ったキモチワルイ虫でした。

 

Lや。

何かに移り替わって私の所に来るのなら、どうか虫はやめてくれ…

 

あの日

2011年3月10日。

その日パートが休みだった私は同僚と銀座で韓国映画を観た。その後アンジェリーナのモンブランを食べ紅茶を飲みながら、夕方までお喋りをした。

翌日の3月11日 金曜日。

私は職場である某ショッピングモールに出勤した。同僚達と楽しかった昨日の話をしてケラケラと笑い合った。

午後にあんな大惨事が起こるなんて、夢にも思わずに。

 

その時、私は事務所にいた。

20人位のパート達と座っていた時に揺れが始まり、その揺れは激しく長く続いて事務所はパニックになった。

その中にいて私は冷静だったと思う。倒れそうなもの、落ちてきそうなものの側にいる人に声をかけ、悲鳴をあげる人を制した。

落ち着こう。落ち着いてと皆に、自分に言い聞かせた。

出口を確保し、揺れが収まるまではここにいた方が良いと判断した。

それにしても今までに体験した事のない激しい揺れとその長さに、不吉な予感がしていた。

 

これが、近々来ると言われ続けていた関東直下型地震なのだろうか?

違う。きっと震源地はもっと遠いところ…

 

パート達は家や子供を心配して、帰りたいと泣き出した。

揺れが収まると事務所にいた私達も各売り場に戻り、客を外に誘導するようにと指示された。

小学校低学年の子を持つパートが「早退したい」と上司に懇願しても

「非常事態だから今日は全員、定時までいてもらう」と言われて泣きじゃくっていた。彼女はシングルマザーなのだった。

誰かひとりを許せば皆が私もと言って帰るだろう。だから全員の早退を認めないのも仕方がないとは思う。

揺れが収まると客は買い物を続けようとして、誘導に応じない人もいた。建物内の安全を確認するのだと言って全員を外に出したので、大勢の客が外で再開を待っていた。

本日閉店と、さっさと言ってしまえばいいのに。

ついでに明日も休みにして、片付けは明日やればいいのに。

私達は文句を言いながら売り場の片付けをした。その間に何度も大きな余震があり、その度に身を屈めた。

私の売り場は衣料だったので、まるで死体のようにあちこちに転がるマネキンを起こすだけでよかった。

腕や指が折れてしまったマネキンを見つけては「負傷者発見!」とふざけて笑った。

努めて明るく、不安をかき消して働こうとしたのだった。

でも、他の売り場では商品が棚ごと全て落ちて散乱していたり、スプリンクラーが作動して水浸しになっていた。手の空いた私達は、それらの売り場を手伝うよう指示された。

私も自宅が心配だった。食器が割れた破片で犬達が怪我をしていないだろうか。ピアノが倒れて1匹ぐらい潰れているんじゃないだろうか。

そのうちに「今日は全員1時間残業して下さい」と上層部が言い出した。

は〜?ふざけんなよと皆が文句をたれたが、パートの分際では逆らえない。

 

ショッピングモールの1階にある大きなスクリーンに、どこかの漁港の様子が映し出されていた。

たくさんの青いトロ箱が流され、青い点となって海面にバラバラと散らばっていった。

津波

津波だって!

日本地図の太平洋側一帯に、大津波警報の真っ赤なラインが激しく点滅していた。

船が、車が、家が津波の濁流に呑まれていく。

誰かが小声で言ったのが聞こえた。

タンポポさんの実家って…確か…」

 

この映像が現実のものでも夢であってもどうする事も出来ない私は、時給930円の作業を続けるしかないのだった。

暫くすると、直属の上司が私の所にやってきて

「後の事はいいから、誰にも何も言わずに帰りなさい」と耳元で言った。

規則に厳しい会社であったから、私がルール違反をすれば上司も上からお咎めをくらうであろう。

けれどもせっかくのご厚意なので、私はこそこそと職場を出た。

制服のままコートを羽織り、自転車を飛ばして家に帰った。余程慌てたらしく、その時にいろいろなものを落として失くしてしまった。

家では犬3匹がパニックを起こして走り回っていた。

繰り返す地震が怖かったのだろう。

3匹を抱きしめながら、私はわあっと泣いた。でもそれはほんの一瞬の事。

テレビを付けても同じ映像を繰り返すだけだったので、ネットで情報収集をした。

断片的に入ってくる地元の情報は、絶望的なものばかりであった。

 

その翌日も私は出勤だった。

私は、こんな時にさえ店を開けて売ろうとする会社の体質を恨んだ。

洋服を買いに来る客など、誰もいなかった。

ひとりだけ「放射能が降ってくるから防護する」と、血相を変えて合羽を買いに来た人がいたが、私の売り場には置いていなかった。

食品売り場は大混乱で、私達は食品レジの応援をさせられた。

大型店舗の食品棚がカラになる程、何もかもが売れていった。

まるで戦争に備えるかのように、客は家族総出で買いに来て殺気立っていた。

私は、今ここで商品を売るのではなく東北の被災地に運んであげたらいいのにと思いながらレジを打った。

私達は少し我慢をすればいいだけ。被災地はとても寒くて、何にも無いのだ。

 

当時大学生の娘は、春休みを利用して山陰旅行ツアーを申し込んであった。

震災の影響でツアーは中止かと思ったが、中止にはならなかった。

友人がひとりキャンセルし、もうひとりは行くという。

TVニュースでは、福島原発が爆発した様子を流していた。

旅行中も震災の報道をよく見るように。

もしも東京の方に何かあったら無理に戻って来ようとしない事。

お友達と暫くの間、松江の義父の家でお世話になるように。

そんな話をして、私は娘を送り出したのだった。

 

この5年間でいろいろな事が変わった。

私と当時の同僚のほとんどが、あの会社を辞めた。

あの時私を早退させてくれた上司は、異動した先で病に倒れてしまったという。

娘は社会人になった。3匹いた犬は2匹になった。

あの日を忘れる事はないだろう。

これからもずっと忘れずにいて

もしも孫が出来るまで生きていたら、その子にいろんな話をしてあげたいと思う。


2016年3月

 

 

 

礼子先生のこと

中1の時、私は華道部に入っていた。

でも、部員不足のために華道部は一年で廃部になってしまった。

どうしようかと思っていると、華道部の顧問だったレイコ先生が

「私は今度、書道部の顧問をやるから、タンポポちゃんも書道部に入りなさい」

と半ば強制的に書道部に入れられた。

レイコ先生は、保健室の養護の先生だった。

新しく出来た書道部は、部員があまりにも少なかったので、レイコ先生はいろんな子に声を掛けて部員を集めていたようだ。

その結果、集まったのはどう見ても、書道に興味が有るというより他の部活や学校生活にも馴染めていないような、大人しくて取り柄のない子ばかりであった。

レイコ先生は当時、特殊学級と呼ばれていた教室に通う障害児達も全員、書道部に入部させた。

そして、私を部長に指名して「この子達のお世話はタンポポちゃんがするように」

と命じ、障害児達にも

「何でも部長さんに教わりなさい。部長さんの言う事をちゃんと聞きなさい」

と言って聞かせた。

私は小学生の頃から他所で書道を習っていた。部員の中ではそれなりに上手かったが、入部とともに始めた競書の級を上げていきたかった。

そのためには集中して練習したいのに、障害児達はとても手がかかった。

彼らには、筆の持ち方から教えなければならない。

道具の配置も、姿勢も、墨の付け加減も、言葉で教えるのは難しいので後ろから手を持って書いて教えた。

少しすれば大人しく書く子もいたが、墨をぶち撒けて遊び出す子もいた。

彼らは鼻水を垂らし、涎も常に垂らしていた。

他の部員達は、文字通り汚いものを見る目で離れた所から見ていた。そして

タンポポ、可哀想に」と、お決まりの台詞を言うだけだった。

その上、必修クラブの時間が終わる毎にレイコ先生は私に、皆の前で今日の反省と感想を述べさせた。

部長をやるのも人前で話すのも嫌なのに…

私ばかりどうしていつもいつも、こんな目にあうのだろうと憂鬱な気分であったが、他に行くクラブもないし、レイコ先生に抗議する勇気もなかった。

 

私は体が弱かったので、保健室のレイコ先生にはよくお世話になった。

小柄で痩せっぽちの私を見ては、「タンポポちゃんはご飯をもっと食べないとダメ」と言っていた。

必修クラブ時間以外の平日の放課後には、保健室の片隅が練習場だった。

レイコ先生は毎日、給食の残りの牛乳を沸かし砂糖を入れて私達に飲ませてくれた。

そのお陰か私の身長は、中学入学から卒業までに20センチも伸びた。

レイコ先生は、私達の母親位の年代であった。

私の母は仕事で忙しくいつも疲れていたから、あまり話す時間がなかった。

だから、学校や家での悩み事があるとついポロっと、母親のようなレイコ先生に話していた。

他の部員達もイジメの事や進路の悩み等を、レイコ先生に打ち明けた。

レイコ先生は私達と一緒になって怒ったり悲しんでくれたが、最後にはいつでもさばさばとした調子で

「なーに!そったな事ぐらい、気にしないの!」と、明るく言うのだった。

嫌々やっていた部長の仕事も、卒業の頃までには慣れた。

特殊学級の子が廊下から私を見て

「ぶちょーさんだー」と大声で叫んだ。

それを見たクラスの男子達が、気味が悪いと言って嫌な顔をしたので

「人として最低だね」と言い放つ私になっていた。

 

中学を卒業してから、レイコ先生に会いに行く事はなかった。

私の家と中学校はとても近くにあり、会おうと思えばいつでも会えた。

24歳の時、高校時代の同級生が地元で結婚式を挙げた。その披露宴の帰りに街でばったりとレイコ先生に出会った。

その時の私は振袖姿であった。レイコ先生は、私の頭の上から足の先までを眺めて

「これがあの、タンポポちゃん。綺麗になったねぇ。大人になったねぇ」と、うっすらと涙を浮かべ感慨深そうにしていた。

私は突然の出会いが恥ずかしく、何も上手く言えなかった。

 

 

 

どうしてあの時、きちんとお話が出来なかったのだろう。

レイコ先生はその後、食道癌で亡くなってしまった。

まだ、50代の若さだった。

仕事では子供の健康ばかり気にかけ、自分の体は疎かにしていた。

癌と解った時には既に、末期状態だったそうだ。

会おうと思えば、いつでも会えた。何度でも会えたのに。

私は、自分が何か立派な何者かになってからでないと、レイコ先生には会いたくなかった。

だからあの時、偶然会った時にも、自分はまだ会ってはいけないのに何故と思い、何も話せなかったのだ。

本当に、本当に私は大馬鹿だ。

今でもレイコ先生を思うと、後悔の涙が止まらない。

 

 

 

「私の心は、あの保健室で大人になりました。

 私は、元気に生きています。

 ありがとう。レイコ先生。

 

どうしてあんなに泣いたのだろう

どうしてあんなに 泣いたのだろう

 

高校を卒業し、ほとんどの同級生達は社会人になった。

3年間ぼんやりと高校生活を送っていた私も、就職するより仕方なく

張り出されている求人票の中で一番給料が良い、という理由だけで

東京の洋品店に就職を決めた。

旅立ちの日。田舎はまだ寒く、桜も咲かない。

店長が地元の駅まで迎えに来てくれて、私は上京した。

見送りの母と伯母が、私が笑顔なので

「寂しくないのかい?」と驚いていた。

東京には何の憧れもない。けれども田舎が大嫌いだった。寂しいわけがない。

 

それなのに盛岡行きの列車が走り出すと、私の涙腺は決壊した。

声を押し殺して、何とか泣きやもうと思うのだけれど

涙が後から後から溢れた。

途中の駅でもう一人、同じ店に就職した男子が乗車して来た。

店長が私達に気を遣い、いろいろと話しかけてくれるのだが、私は受け答えもできない。

同僚となる男子も戸惑っていた。

東北新幹線が、まだなかった頃の事だ。

盛岡から特急列車「はつかり」に乗り換えた。

盛岡まで3時間、盛岡から上野までは6時間位かかっただろうか?

いくらなんでも泣き止みそうなものだが

怖ろしく遠い所に行くのだという思いが

目も喉もおかしくしてしまい、ヒック、ヒックが止まらない。

盛岡より南に行くのは初めてで、車窓は見た事もない景色が続いた。

店長が、私達を食堂車に連れて行ってくれた。

メニューを渡され、何が良いか聞かれても

とても食べられそうになく、黙っていると

店長は、ヒレカツセットを3人分頼んだ。

時折大きく揺れる以外、そこはまるで高級レストランにいるような雰囲気だった。

真っ白いテーブルクロスの上に、ヒレカツのお皿とご飯のお皿が整然と並ぶ。

そのカツを見て母を思い出し、私はまた大泣きだった。

2人は私のせいで黙々と食べるしかない。

男の人だから、食べるのも早い。

当時で1,300円位だったと思う。そんな高いものを残しては申し訳ない。

私もカツを食べた。

それが本当に本当に美味しかった。

涙と鼻水と一緒でなければ、もっと美味しいのに…

 

全部食べられなかったあのヒレカツ

何十年経った今も忘れられない。

そして、この季節になると

あの時どうしてあんなに泣いたのだろうと、不思議に思うのだ。